二十五話 咳
ケホッ、ケホッ。
喉に違和感がある。
何かが張り付いて離れてくれない感じ。
この兆候はとても、とても良くない。
喉から胸を患って、大地に身を投げ打った者は多い。
彼らも最初は喉が痛い、と言い出した後、胸の痛みを訴え、血を吐き、力尽きた。
叔母も叔母の友人も、そうして失った。
最初は気丈に振る舞った彼女らは長く、長く闘い、抗い、苦悶を浮かべて諦めるように目を閉じた。
そんな姿を見ていたから。
そんな姿を見ていても。
どこか他人事だったのかもしれない。
咳が続き、
呼吸がうまくできず、
喘ぎながら、
腕を意味なく動かし、
目を剥く姿を、
この目で見ていたと言うのに。
あたしは、あたしはあんな姿になりたくない。
皆が褒めてくれた声も失いたくないし、私を見込んでくれたライラーさんにも何も返せてない。
誰かと番って子を生して、仲間と子と一緒に木の実を摘み、他愛もない話に花を咲かせたい。
いやだ。
いやだいやだ。
いやだいやだいやだ。
どうか、どうかこの違和感が、一時的なもので。
清い水を飲めば治る程度のもので。
こんな考えは杞憂なんだと。
今すぐにでも教えて欲しい。
誰か、誰でもいいから。
早く。
喉を痛めているのはあたしだけじゃない。
今の山に来てから発症する人なんて居なかったのに、メフリさんも、戦士のニマーも、その他にも。
戦士長はすぐにこの異変に気づいて動き出してる。
この症状は前の山で、排煙を撒き散らす人間共の近くに居たせいだ。
だから戦士長はまず近くに来ている老いた人間を疑った。
でもそれは姫様からも斥候からも否定された。
その置いた人間は忌々しくも姫様に会った後、付近の森を探索して戻ることを雨のない日は毎日続けてる。
それに、人間独りでここまでのことはできないだろうし。
となれば麓の人間共か、更にその先か。
どこまで、本当にどこまで私達を追い詰めれば気が済むのだろう。
また皆で移動すると言っても、次の場所が安全な保証もないし、探している間にも私達はどんどん仲間を失ってしまう。
姫様に、姫様と話がしたい。
姫様は過去を、起きてしまったことを悔やむ人じゃない。
それでも、それでもこの時にまだその目を上げられるのかな。
もし、そうなら、その強さに縋りたい、甘えたい。
あたしは、ちょっと、辛いよ姫様。
「サラ、どうしましたか?」
蔦を口で編んでいる姫様があたしに気付く。
あたしは、努めて笑顔を作って話しかける。
「編み物、上手になったね。…りましたね?」
「そんな畏まらないで下さい。それから、同じお願いも何度もさせないで下さい。」
薄く笑みを浮かべて注意される。
蔦は既に腕の長さくらいは編まれていて、姫様の首から下がっている。
「姫様の丁寧な口調が治ったらあたしもそうするよ。」
「…まぁいいです。ところで何用でしょうか。また何か教えて、貰えるのかな。」
「ごめんね姫様。今回は別件。そう、別件。」
少し喉が辛くなって一度生唾を飲んだ。
作った笑顔が消えてしまう。
咳をしたら姫様は心配してくれる。
そんなこと、させちゃいけないんだ。
「別件、ですか。…何でしょうか。」
「姫様、あたしに応えて欲しい。メフリさんとかが咳をしてるの、知ってるよね。」
「知っています。それが何を意味するのかも。」
姫様はじっとこちらを見据えてそう応えた。
引き込まれそうなその目に強さが残ってる。
だから
「あたし達は、どこを目指して駆ければいいの?この前の姫様が言ってたとおりに、あたし達は一杯失った。なのに、なのにまたこうやって攻め立てられてる。人間、人間共の、せいで!」
ぶつけてしまう。
甘えてしまう。
「彼らは――」
「分かってる。姫様が会ってる人間は悪い人間じゃない。それでも悪い人間がいて、その人間はあたし達のことを知りもしないのかもしれない。」
姫様は開きかけた口を閉じる。
「だったら、あたし達の想いは一体何にぶつければいいの?あたし達は明日に何を夢見ればいいの?あたし達はこの空の下で、ひっそりと朽ちて行くしか!できないんじゃないの…?」
目がやたらに潤っているのを感じる。
姫様は黙って私を見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「ごめんなさい。サラの心を支えられるほど分かりやすい答えを持ちません。でも、できる限り抗うつもりです。今まで出てこなかった案も、全て含めて、皆で全力で抗いましょう。最後の時だというには、まだ少し早いと思います。」
まだ、少し。
もうそれだけしかない。
目尻から溢れて一筋落ちる。
「姫様には、姫様には見えているものが、見えないよ。抗った先に何もないと分かってて、抗い続けるなんて、あたしにはできない。」
「何も残らないなんてことはありません。少なくとも、全力で駆けたと、全てを尽くしたと。そう先祖に胸を張れます。」
「胸を張るなら子供に、子供たちに張りたいよ。それに、今回の大移動は胸を張れるほど全てを尽くしたことだったよ姫様。」
「…ウルムに、あの老いた人間に事情を何とか伝えてみます。戦士長は排煙の発生源を突き止めに行ってくれてますし、ナヴィドは風が直接吹き込まない洞を探しに、ライラーさんは洞の入り口の草を二重、三重にしてみようと動いています。」
「それで、それで今、たった今に咳をしてる皆は助かるの?これ以上欠けてはいけないと戦士長も姫様も言っていたのに!」
「ごめんなさい。分かりません。」
「はっきり言ってよ!助からないって!もう微かな希望に夢見て居られないんだって!」
責めるように姫様の胸に飛び込んだ。
姫様は腕を大きく拡げてあたしを受け止める。
木が大きくざわついた。
姫様の目を見る。
姫様は黙って見返してきた。
これ以上は、何もなく。後は胸を張れるよう最善を尽くすだけだと。
そう決めたような目で、あたしを見る。
姫様も、当事者でない時のあたしのように、分からないのだと、悟ってしまった。
それが、それがとても悲しくて。
姫様の胸に顔を埋めて泣いた。
姫様が優しく腕をあたしの背中に回してくれたけど、的を得ない優しさを正しく受け止められなくて、それが余計に辛かった。
歌を歌っていた頃はあんなにも前を向けていられたのに、とても顔を上げて姫様を見ることが出来ない。
ケホッ。
涙腺と一緒に緩んでしまった喉から咳が漏れる。
ハッとして赤い目を姫様に向けたら、姫様の強い目に動揺が浮かんでいた。
八つ当たりを自覚はしつつも、その動揺が何だか嬉しかった。
「ごめんね姫様。あたしは一緒に空を駆けれないや。」




