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黒き空のハルピュイア  作者: 心鏡
二章 錯綜
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十七話 短い藁

ああ、酷く短い藁を引いたものだ。



空は変わらず黒く、山々はまだ緑を残し、眼下には薄っすらと流れる川がある。

来る前と何も変わらない。

強いて言えば、まだ川が黒く濁っていることくらいだろうか。

そうだというのに、この爺は全く呆れるほど変わった。

あの異形、この爺はハルピュイアとか呼んでいたか。

あれと出会ってから、この爺は呆けたかのようにまるで周りが見えていない。

お気に入りのコートを洞に忘れそうになるくらいに、必要もなく草花を踏んで歩くくらいに。

この山も呆けた状態で無事に返してくれるような優しい山じゃない。

ガタのきた偏屈野郎のように硬派で崩れやすい。

「旦那様、ここから下り坂です。一度気を取り直して下さい。」

「…ああ、分かっとる。」

何をだ。伸び切った膝に笑われても仕方ないぞ。

「僭越ながら一度休憩を取るべきかと。」

「問題ない、いや、すまん。」

ようやく事態が飲み込めたらしい。軽く頭を降って大きく息を吐いた。

これならまぁ、大丈夫だろう。

ここからでもコーラホイ山と比べれば十分に低い。

それでもソラフ・ローが谷間の線に隠れて見えないほどには高い。

道中に問題がなければ、野宿なしには戻れるか。

そういえば、村長に戻る時節を伝えていなかったか。

村についても野宿かもしれない。

「ご理解頂けまして何よりです。では慎重に下山しましょう。」


「旦那様、こればかりは賛同できかねます。」

ああ、分かっていた、分かっていたとも。

案の定野宿になり、暖かさを求めて山羊小屋の片隅に潜り込んだまでは良かった。

臭いといびき、早朝の鳴き声に耐えられるならそこはもう貴族の屋敷と変わらないだろう。

だが、それでもこの爺が言っていることだけは頂けない。

「何故だ。あの盆地には、あの高地にしか生えぬ植物も多いだろう。であればこそ、今までに見なかった植物から新たな発見があろうというものだ。」

「浅学の身には判断しかねますが、旦那様の言い分はかのハルピュイアへ接触するためのものとしか思えません。」

「浅学の身というのであれば、立場を弁えて忠言すべきだな。」

これしきで耳先を赤らめておいて、どの口が言うのか。

「高地と言うのであれば、ここも十分に高地かと。ここまで来た道中にて十分承知かと存じますが、スリナガルからは小山程の差がございます。」

「それこそ歩いてきた道中で分かっておる。ここらがあまりスリナガルと植生が変わらぬことも含めてな。」

相手の得意分野で話すことはあまりに分が悪い。

「山へ登る必要性については承知しました。しかしながら、私達には十分な装備がありません。すぐに出立とはならないでしょう。」

「今回多くのものを消費したことは分かっとる。それにあの洞で作業する上では不足しているものが多すぎるのも事実だ。蒸気タンクの気圧調整弁がなんとか持ってくれたが、想像以上に気圧差もあった。」

「流石は旦那様。仰る通りです。そしてそれらの準備をこの村から調達することはできません。」

これで折れてくれるだろうか。

「それも分かっとる。何とかしてスリナガルから持ってこなければならんな。」

「この高低差を鑑みますと、ご用命のものを持ってくることは難しい、あるいは不可能でしょう。」

「貴様が勝手に私が何を命じると想像したのか知らんが、蒸気機関を構築するわけではない。必要なら長期的に洞で生活するだけのものを用意するだけだ。」

折れるどころか、無理難題が降ってきた。この爺は今日降りてきた山道の状態も覚えていないのか。

「旦那様、どうかご容赦を。あまりに人の領分を越えています。」

「なに、何も全てお前にやらせようというわけではない。ジェームズと言ったか。あいつにやらせれば良い。」

ジェームズ氏は別にあんたの小間使いじゃないはずだが、本人の代弁をするわけにもいかない。

「…分かりました。何とかジェームズ氏に掛け合ってみましょう。それで難しいようであれば再考願います。」

「お前の使用人としての腕に期待するぞ。」

とりあえずはこんなど田舎から田舎に戻れるだけマシか。

ジェームズ氏にこんな戯言を吐いて殺されでもしたら、短い余生を呪い潰してやる。

事情を説明すればハルピュイアを話題に出さずに済まないだろう。

「旦那様、ハルピュイアについては如何お考えですか?」

「何が聞きたい。」

「まずはジェームズ氏に伝えるか否かです。全く口を噤んでは協力を得ることが難しいでしょう。」

「それについては心配するな。山間部で調査する上で必要なものであり、現地人への影響を考慮し最大限用意できるものを用意したいとでも伝えておけ。」

この変人相手となれば、ジェームズ氏も納得するのではないかと思わせることこそ恐ろしい。

「承知しました。では、率直に接触された所感の方を。」

「お前はどう感じた。」

「僭越ながら、相容れないかと。あの黒い鳥は常に私達へ敵意を向けていました。それに何か鳴いていたようですが、私達とは生きている世界が異なります。もし言葉を理解しても中身を理解できないでしょう。」

「で、あればどうする。」

「接触せずにおくか、数を呼んで殲滅すべきでしょう。ただ、コーラホイ山はここソラフ・ローを含め数多くの村から信仰される山です。現地人の協力は得られないでしょう。よって近寄らないことこそ最善かと。幸いにして奴らは山奥に居るようですし。」

「ふん、私はな、敬服すべき未知の一端に触れたと感じている。彼らは言葉を話し、獣的な欲求以外の理由で私達に自ずから接触した。これは知性だ。植物の知性ではなく、獣の習性でもなく、我々人間と親しい知性だ。やもすれば私達以上かもしれん。」

「あの羽を纏っただけのやつらがですか?」

「そうだ。私達は腕を、手を使って道具を作り使い、文明を築いてきた。それは一つの欲求であり、外敵から身を守る手段でもあった。彼らにはそれが必要なく、あるがままに生きているだけなのだろう。そこに知性の差などなく、むしろあるがままの自然に適応しその中で生きるすべを身に着けた彼らこそ種としては優秀なのではないか。」

理解できない。刀を持ち、鍬を持ち、家を持ち、街を持ち、国を持つ。

それらが複雑に絡み合い大きなうねりとなって世界を席巻している。

そんな人間と山奥にひっそりと誰にも見つからずに生きていた鳥が何故優秀なのか。

「…申し訳ありません、理解しかねます。」

「…まぁ良い。結局のところ、植物にせよ他の獣や彼らにせよ、人間は人間の物差しでしか判断できんのだ。お前に理解できなくとも私は彼らを敬うべき者達だと認識した。そして彼らの背景にあるものに触れてみたいのだ。」

やはり山に行く理由はこれじゃないかと揚げ足を取りたがる口を噤む。

この爺の変質的な欲求に火をつけた奴らを恨めしく思う。

「ありがとうございます、では明日以降、スリナガルの商館と連絡を取り、早急に事を進めます。」


そう言って、油の切れかける焦げた臭いのするランプを消した。

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