十五話 通じない言葉
それは正しく異形だった。
肩口から羽毛を生やし、羽はあれども腕はなく、鍛えられた胸筋と痩せた腹が不釣り合いな少年。
大きく膨らんだ腿と、筋張った4本の鉤爪を持つ少年。
実に、好奇心の擽られる造形をした少年を私は洞へ連れ帰った。
使用人の苦虫を噛み潰したかのような顔は実に滑稽で面白かった。
まぁその使用人に運ばせたことはなおのこと面白かったが。
少ない飲水を使って羽を濯ぎ、乾いた布で水分を取っていった。
使用人は絶えず刀を抜いて警戒していたが、私にはただの行き倒れた少年だった。
だから、夜目覚めた彼が喚き散らし、目を剥き、飛び上がり、その羽を大きく広げていたとしても少し微笑ましいばかりだった。
使用人は今にも斬りかかりそうだったが、目配せして洞の端へ下がるよう促した。
無論私も両腕を上げて端に張り付き、無害であることを示した。
彼はそれを好機と見たか、洞の外へ駆け出そうとしたが、月も星も見えない夜の空へ飛び立つこともままならず警戒したまま洞に戻ってきた。
私は戻ってきた彼と相対を続けていたが、困惑し怯えている彼との緊張関係に疲れ、眠ってしまった。
そして今朝起きた頃には既に彼の姿はなく、使用人から呆れの一言を貰うばかりだった。
つい先日越えたばかりの尾根を目指し、歩いている。
水も布も失って、これ以上は出直さなければ命に関わる。
確かに彼には興味はあるが、そこに割く時間はなく、この盆地へ来なくとも調査できる森はソラフ・ロー付近にもある。
いずれにせよ出直すべきであることは間違いなかった。
それにしても、何故あれほどまで彼に対する畏怖心が湧かなかったのか。
彼はそう、聖書に出てくるハルピュイアとも言うべき異形だった。
聖書と違い醜悪な老女とは程多い姿であったにせよ我々人間とは根本から違う彼。
あの鋭い鉤爪で掴まれるだけで肉は裂けただろう。
息子が幼い頃の姿に似ていたとでも言うのだろうか。
いや、いやそんなことはないだろう。
ならばなぜ。
ふと前から聞こえいたテンポの悪い足音が止んだ。
「旦那様、警戒して下さい。」
「どうした。」
「昨日の化物以上にでかいやつが近づいています。この斜面では逃げられません。」
「そうか。ふむ、彼に対し何か礼を失してしまったか。」
「やはり殺しておくべきだったかと。ですが既に手遅れです。言葉も通じぬ化物に恩を感じる少しばかりの能があれば良いのですが。」
「刀はしまっておけ。本気で襲われて、この状況で助かることもないだろう。」
「…分かりました。しかし、抜かない約束はできかねます。」
「構わん。」
羽音が段々と大きくなる。ゆっくりと大きく羽ばたくその漆黒は、空の一部と見紛うその彼は堕天使のようだった。
バサッ、バサッ。
私達が見上げる先に彼らは浮かんでいる。漆黒の男と昨日の彼だ。
漆黒の男はその細い目で私達を見据えている、嘲りか、憎しみか、怒りか、冷たいそれに潜む想いを掬うことができない。
なるほど、これが恐怖か、かの男から視線を外すことができない。
今もし彼が眼前まで近づいてきたとしても、私は指一つ動かすことができないだろう。
その漆黒の後ろから、美しい小鳥が現れた。
そう、誤って認識してしまうほど彼女は彼とくらべて小さかった。
昨日助けた彼よりも小さい彼女に、違った意味で目を奪われる。
少し瞳にかかる前髪と、尾のように伸びた長い髪。
褐色の肌に浮かぶ丸く力強い眼。
透き通るような白い羽に、黄、橙、緑の羽を纏ってこちらを見ている。
見つめ合っていたのはどれほどか、足元の石が崩れて落ちる。
彼女は口を開き声を発したが、私には聞き取ることができなかった。
「…何を言ったか、分かるか。」
「昨日の化物同様です。それよりも如何致しますか。」
「分からんなら黙っとれ。ああ、申し訳ない。私には貴方の言葉を理解できない。そこの彼に対し何かしでかしてしまったのでしょうか。」
この歳になってまでこんな口調を使う日が来ようとは。
対話の意志があることは伝わったようで、再度彼女が口を開く。
人間と違って身振り手振りもなく、表情だけで伝えようとする彼女からは、何も分からない。
必死に何とか理解しようとするが、分からない。
だが、恩を感じる力と思考するだけの知性が備わっていることは間違いない。
彼女に、何かを伝えようとする彼女に私にできることは何か。
私は黙って、膝を折り、頭を垂れた。
彼女から、やはり、悔しくも分からない声がかかる。
もはや、私から返事は、できない。
ただ、祈りにも近いこの敬服が伝われば良い。
頭の先で石がまた、崩れる。
思わず私は顔を上げた。
そこには彼女が立っていて、ゆっくりと、ゆっくりと羽をたたみ。
彼女は黙って、膝を折り、頭を垂れた。
私は驚きのあまり上体を起こす。
こちらの祈りが届いたのかと、彼女の顔が上がるのを、呆然と待つ。
彼女の髪がハラハラと溢れる、その姿に私の警戒心は完全に崩された。
彼女はゆっくりと体を起こすと、目を丸くした私に薄く微笑んだ。
愛しい。
ただただ、その笑顔に魅入ってしまう。
視界の端に昨日の彼も頭を下げていたが、私にとっては既にどうでも良かった。
彼女は昨日の彼が頭をあげるのを見て、ゆっくりと羽を広げる。
もう行ってしまうのかと、思わず手を伸ばした。
そうしたところで何か掴めるはずもあるまいに。
それを彼女は挨拶と受け取ったのか、羽の端を重ねてくる。
その羽の感触が、皺の入った手の甲を撫でる。
彼女は羽ばたきながら崖下に身を投げて、昨日の彼と、漆黒の男と共に山へ戻っていった。
「旦那様、変わり者好きも大概にして下さい。肝が冷えました。」
全く立場を弁えないそんな使用人の言葉を聴いても、うまく言葉を返せなかった。




