十四話 綴られる心
「今すぐにでも殺しておくべきだろう。」
抑揚なく戦士長が言った。
昨日の雨、黒い雨、哀しい雨、強かな雨。
その偉大なる獣は戦士を一人連れ去っていった。
それはとてもよくある悲しい出来事だった。
あまり話をしたことのない彼、プーヤーは人間の監視を任されていた。
近くに人間が来ていたから、仕方のないことだ。
そうでもなければ皆、安心なんてできないだろう。
そんな彼は、雨を察知できなかった。
目が特別良いからと選ばれた彼は鼻や肌で雨を感じることができなかった。
空の色があまり変わらないために、雨を察知しにくいのは間違いなかったが、それでも雨に負けて帰ってこれなくなるほど強い雨が降ろうとは誰も想定できていなかった。
私達は洞に隠れ、ただただ彼の死を悼んでいた。
足が強くない私達は地を這って帰ってこれない。特に泥濘んだ大地が相手では鉤爪を引っ掛けることも叶わない。
だから、雨に濡れて落ちれば私達は、狩る側から狩られる側に変わる。
昔の雨なら多少濡れても問題にはならなかったと聞くけど、そんな容赦はこの黒い雨にない。
腕の隅々にまで潜り込んで一気に重くしてしまう。
そうなれば、乾いたとしてもうまく飛び立てるかは怪しい。
そんな私達を獣達が逃すはずもなく、つまるところ、絶望的だった。
でも彼は戻ってきた。
喜びなど一切顔に浮かべず、ただただ泣き出しそうな苦悶の顔で、出迎えた戦士長と私の前に崩れ落ちた。
曰く、人間に助けられたと。
曰く、今に他の人間共を連れて来るだろうと。
彼の謝罪を全身に浴びて。私は一言
「ありがとう。よく無事で戻ってきてくれました。」
とだけ言った。
それは他に言葉が見つからなかったからで。
また一つ、無力感を覚えただけだったが。
彼は歯を食いしばって泣き出した。
こうなっては皆に隠し立てなどできまいと頭を振った。
私の目の前には皆が集められた。それはいつも通りでもあって、ただ数が減っただけの光景だった。
戦士長が重い口を開いた。
「はっきりとしていることは、私達は新しい地を見つけるだけの力がなく、人間共と争えばキリがない、ということだ。」
皆それは理解しているようで、ただ次の言葉を待っている。
「そうですね。ですが、戦士長。私達の勇敢な戦士を救った人間を殺すことは赦せません。私達は自らを見失い獣に落ちることになります。」
だけど、私は譲るべきじゃない、と思う。何故と言われれば言葉にできないのだけれど。でも。
「ではどうする。見逃して人間共に追われ、日々腕を失ったかのように生きろというのか。」
「この偉大なる大地で生きる者たちは、皆そうして生きています。私達もその枠組に入るだけではないですか。」
戦士長は腕を大きく伸ばし、私を強く、激しく睨む。
「それが獣に落ちるということはないのか!私達は!この空の覇者だ!だからこそ、自らを律し、大地の理を崩さぬよう共に生きてきた!今更その枠組の中に入って何になる!」
「人間と関わらぬよう逃げてきた紛い物の肩書です!その肩書に追い縋り求めた所で、既に世界は変わってしまった!それが私達のせいでも大地のせいでもなくとも、その中で生きるしかないではありませんか!」
「祖先の想いを、今日まで引き継いできた先代達を、前の山に残した老戦士達を愚弄する気か!何の重みもなく、ただただ流されるように生きるものたちを背に如何なる戦士が勇敢であれるのか、雄大であれるのか!」
「戦士を救ってくれた者を殺して得た勇敢さで一体何を守れるというのです!私達は、今を、これからを生きねばならないのです!誰も彼もがその過去に引き摺られて大地を見ていますが、空の覇者と言うのであれば何故空を見上げ駆け上らないのですか!」
「なるほど、お前の目にはそう映るのだろう。だが、誰しもが独りで強くあれるわけではない!受け継がれてきた言葉に寄り添わねば生きて行けぬ者も居る!私達はもう誰一人として欠けてはならないのだ!」
「老いた戦士を!老いた母を!脈々と受け継いできた彼らを!私達は見捨てる覚悟をしたのです!次に繋げられる可能性のある私達を生かすために!その想いを、覚悟を私達は受け継いだのではないのですか!」
皆がただただ呆然と、戦士長と私を見つめている中、大きく羽ばたく音がする。
「もうやめてください!姫様も、戦士長も!私に責があるのです!どうか、どうか!」
元の顔を思い出せないほど崩れきったプーヤーが割って入ってきた。
頭の熱が冷えるのを感じる。ああ、父とこれほどまでに腹を割って話せたのはいつぶりだろうか。
その溝が埋まらないことだけが哀しかった。
プーヤーの縋るような目に、私は折れた。
「…ごめんなさい、醜態を晒しました。」
戦士長はプーヤーから目を背け、音が聞こえそうなほど強く口を閉じて、一度大きく羽ばたいた。
怒りに目が潤んでいたことに気付く。
「…一度きりだ。その奇異な人間共を見極める。」
「見極めて、どうするのですか。」
「プーヤーを救ったことに、ただただ清廉であるならば。もし、そうであるならば確かに私達は感謝こそすれ、軽く扱ってはならない、だろう。」
そらしていた目が再び私に向けられる。
「だが、他の人間共同様の存在であるなら、敬う余地などなくそれは私達を汚すことにはならない!…そうだろう?」
「…はい、その意志に同意し蒸し返すことなどないと謳います。」
「皆もそれでいいか。」
戦士長が問いかける。皆の目は、怯えてなどおらず、依然として敬ってくれている。
声を張り上げて、伝えて良かったと救われる。
「姫よ、まだ人間共を恐れているか。」
「不甲斐ないばかりですが、まだ。」
思わず腿に視線を落とす。毛の下に埋もれて見えないが傷跡はまだあるはずだ。
「それでいい、人間共には姫とプーヤーを連れて行く。皆はやるべきことをやっておけ。もし帰らぬ場合にはナヴィド、お前が先導を取れ。私達はお前の旅路における加護に期待すべきだろう。」
私が外に出て、自ら人間に会いに行くことになるとは、思ってもみなかった。
でも、私も自分の目で鼻で見極めてみたい想いが腿の痛みと共に確かにあって。
「私の後は、サラを中心に。サラはまだまだ未熟だけれど、皆に力をくれる娘ですから。未熟という点では私も同じです。どうか支えてあげて下さい。」
思わず指名した名前に少し自分でもそう感じていたことに驚く。
そう言って立ち上がると皆が道を開けてくれた。
指名された二人だけは腕を広げて物言いたげにこちらをみている。
「姫様!姫様にそう思ってもらえてたことはとっても嬉しい。でも、お願いだから戻ってきて!さっきの想いをぶつけられた私達には姫様が必要だよ!」
「戦士長。戦士長は二人を連れて無事戻ると、戦士一同確信しております。御武運を。」
戦士長は少し口角を上げるばかりで、実に不器用な人だと少しおかしかった。
「サラ、別に死別するわけではないのだから。大丈夫、貴方は戦士長を信じていないの?」
「信じてるけど!だったらあんなこと言わないでよ!」
「必要なことだから、分かって。」
そう言って微笑む。
サラはしょぼくれたように腕を下ろしたかと思うと私の額に口づけして離れる。
ライラーさんが彼女を話の種にしたくなる気持ちがとても良くわかった。
戦士長から順に、洞から飛び立つ。いざ現実が近づくにつれ、恐れが勝ってくる。
覚悟、か。
私にも足りてない、な。
もっと、もっと強く、強くならなきゃ。
黒い空はいつものように顔色一つ変えず私を見下ろしていた。




