第二話
「クロエ、明日からの予定は?」
「はい、マスター。ここから一か月間、予定はありません」
「だよな」
「それ以降も白紙のままです」
「いや、それは言わなくてもいいから」
そんな軽口をたたいているが、頭の片隅には引っかかるものがあった。
そう言えば、やめる前、後輩が結構重めの案件を抱えて、定期的に相談に乗っていたけど、いつもだったら明日か。
退職前の暇を持て余した俺とは反対に、あいつは予定に追われて忙しそうにしてたな。
引き留めてきたときの涙をためた顔が浮かぶが、もう入社してきたときの生意気だった新人じゃない。
あいつも一人前の技術者なんだ、心配は無用だろう。
「15年か……」
家の風呂に浸かり、大学卒業から今年まで指折り数えると、それだけの時が経っていた。
言葉にしてみれば短いが、その短さに見合わないだけの重みがあった。
その重みがお湯に溶けたようで、少しだけ心が軽くなった。
「クロエ。風呂ありがとな」
「いいえ、マスター。私は命令を実行したまでなので、感謝の言葉はいりません」
「そう言うなって。感謝の言葉は素直に受け取っといた方が、言った方も言われた方も気持ちがいいぞ」
「承知しました、善処します」
「カァー、素っ気ないねぇ」
こんな風におどけて言ったが、クロエの言い方に少しだけさみしさを感じた。
でも、動き始めてからまだ一年もたっていない。
そんなもんかと、この感傷を割り切った。
でも、ここからはお楽しみの時間だ。
俺の毎日のルーティーンで、風呂を上がった後にすることは決まっている。
俺は素早く寝巻に着替え、冷蔵庫の前まで移動する。
扉の奥に隠されたお宝たちを想像し、顔が緩んでいるのが自分でもわかる。
冷蔵庫から流れてくる冷気を体に浴びて、火照った体を冷やす。
想像しただけでも気持ちが良かった。
気分は冒険家か、シンドバット。
いや、水風呂前のサウナかもしれない。
そして、一気に冷蔵庫の扉を開け……られなかった。
「いっっったぁぁ」
右肩に痛みが走った。
冷蔵庫を見ると、その扉は固く閉ざされたまま。
もう一度扉に手をかけ、そっと力を入れるが、やはり開かない。
「……クロエ、冷蔵庫の扉が開かないんだが」
唯一の心当たりであるクロエに呼びかける。
「はい、マスター。今日は既にアルコールを摂取しています。これ以上の摂取は危険と判断して、冷蔵庫は開けられないようにしています」
俺の考えは見抜かれていたようだ。
だが、何としても飲みたい。
風呂で温めた体に、冷えたビール。
これは俺の人生の中でも、最も優先されるべき行動なのだ。
「いや、小腹がすいたんだ。中に何かあったと思うから、開けてくれないか」
「いいえ、マスター。冷蔵庫の中に食べられるものは入っていません」
「そんなことないだろ。なんかあったはずだ。ほら、前にスーパーで買ってきたチーズ。あれがあったはずだ」
かすかに残っていた記憶を頼りに聞いてみる。
クロエは沈黙している。
これは行けそうか、それとも拒否する口実を考えてるのか?
どっちだ?
「マスター。それは先月、賞味期限切れで処分済みです」
思いもよらないところからギロチンが飛んできた。
「あれ、そうだっけ?」
クロエめ!
そんな細かいことまで覚えていやがったか。
「はい、マスター。それに食べ物でしたら、シンクの上の戸棚に、いわゆる乾きものが入っていますので、そちらをお食べになったらいかがでしょう」
他の物を口実に冷蔵庫を開けてもらおうと口を開いたが、すでに先回りされてしまった。
ここは、方針の転換をしないといけない。
「そうなると、何か飲むものが欲しいよなぁ」
黄金色のあれとか、透明なあれとか、深紅のあれでもいい。
「マスター。それでは水道水をどうぞ。この部屋の水道水は何層ものフィルターを通り浄化され、追加で付属したアタッチメントにより、レストランで出る高級な水と遜色ないものになっています」
「いや、水だと物足りないんだよね」
「マスター。それでは、水を今光らせた装置に設置してください。その装置で、水を炭酸水にすることができます」
そうだ、その手があったか。
急に、いいことをひらめいた。
「分かった、じゃあ水をセットするから、炭酸水を作ってくれ。ちょっと冷やすから待っててくれ」
「承知しました。マスター」
そして、水を容器に入れ、一枚の紙を取り出す。
その紙の上に水の容器を置き、ある場所に短い棒を置く。
数秒で、容器の周りに水滴がつき始める。
十秒ほどして、短い棒を取り除く。
水を少し口に含むと、いい感じの冷たさになっていた。
「それじゃあ、やってくれ」
装置に水をセットして、クロエに声をかける。
「はい。マスター。それでは一分ほどお待ちください」
その間に、摘まめるものを戸棚から取り出しておく。
それと、忘れないうちに、ある液体の入った瓶も取り出しておく。
そして、コップに氷を入れて準備は完了だ。
「マスター。炭酸水ができました」
「おお、ありがとう」
「マスター。感謝は不要です」
「だから、素直に受け取っとけって」
「善処します」
これまで何度したかわからないやり取りをして、いつもの席に座る。
そこそこでかいテレビには、たまたま目についた、昔見たが内容の覚えていない名作映画を流している。
たしか、この主人公が二重人格とかだったような記憶はあるんだが。
向かいのテーブルには、乾きものと氷の入ったコップ。
そして、炭酸水の容器が置かれている。
コップの氷は、少し溶けてきている。
そこに、戸棚から取り出した瓶を開封し、中身を注いでいく。
コップの中の液体は、きれいな琥珀色の輝きをしている。
そこに、薄くならない程度に炭酸水を注ぐ。
琥珀色は薄くなるが、今度は炭酸の泡が光を反射し、先ほどとは違った美しさがあった。
「マスター。そのウィスキーはどこにあったのですか?」
「いや、ちょっと戸棚の奥に見つけてね」
「……マスター。そのハイボールであれば、二杯まで許容します」
「ありがとな」
「感謝は不要です」
クロエなりに、何か察してくれたのだろうか。
それとも、これ以上は言っても無駄だと判断したのだろうか。
答えは分からないが、いつものやり取りをして、退職した日の夜は更けていった。




