第8話:【一億総「異世界待望論」】の恐怖
地下の第4会議室は、紫煙と、自らが国家の「生贄」であるという残酷な真実に打ちひしがれた5人の男女を、冷酷に閉じ込めていた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、破滅への秒読みを刻む時計のように、重苦しく響き渡っている。
経済崩壊のXデーを前に、国民に死を受け入れさせるための「致死量の麻酔薬」。
七海悠太は、床に這いつくばったまま、焦点の合わない目でタイルを見つめていた。
「……待ってください、御子柴さん。仮に政府が国民を『大人しく溺れ死なせる』ためにこの洗脳を仕掛けているのだとしたら、その手法はあまりにも【非効率】です」
氷室司が、割れんばかりの力で握りしめていたタブレットを、震える手で操作した。
銀縁眼鏡の奥の瞳には、データ至上主義者としての意地と、底知れぬ戦慄が入り混じっている。
「政府にとって、国民は単なる数字ではない。彼らが死んでしまえば、インフラの維持も、支配階級へのサービス提供も止まってしまう。一億人が一斉に『死んで転生したい』と願えば、それは労働力の完全な放棄、つまり【国家の自死】を意味するはずだ! 支配者層だけが生き残って、一体誰が彼らの生活を支えると言うんですか!?」
氷室の理詰めの反論。
王が君臨するためには、跪く民がいなければならない。国民を死に追いやることは、王の座を壊すことと同義ではないか。
しかし、その言葉を聞いた轟大吾の巨体が、ビクンと大きく震えた。
轟は、タクティカルジャケットの胸ぐらを強く握りしめ、顔面を蒼白にしながら呻いた。
「……氷室。お前はまだ、この計画の【真の恐ろしさ】に気づいていない。……軍事における『焦土作戦』と同じだ。奴らは、国民に死んでほしいわけじゃない。……死ぬ直前まで、一滴も残さず【搾り取りたい】だけなんだよ!!」
「搾り取る……? 一体何をですか」
氷室が、怪訝な顔で眉をひそめる。
「……【生存本能の完全な明け渡し】よ」
密室の空気を撫でるように、烏丸玲奈のひんやりとした声が響いた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先で梳きながら、巨大モニターに映る『笑顔で消えていくアニメの主人公』の画像をそっとなぞった。
「氷室さん。人間が最も強く、最も激しく抵抗し、火事場の馬鹿力を出すのはどんな時だと思う? ……それは『死にたくない』と願う時、つまり生存本能が牙を剥く時よ。……でも、もしその本能が【異世界への憧れ】によって完全に麻痺していたら?」
烏丸は、妖しい瞳で会議室の全員を見回した。
「重税、過労、飢え……。本来なら暴動が起きるほどの苦痛の中でも、国民が『これは異世界に行くための試練だ』『早くあっちの世界に行きたい』と、頬を赤らめて喜んでいれば……。彼らは死ぬその瞬間まで、文句一つ言わず、効率よくエネルギーを搾り取られ続ける【最高の電池】になるわ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、御子柴健が天を仰ぎ、狂気と歓喜が入り混じった高笑いを爆発させた。
彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目で立ち上がった。
「見事だ、烏丸! 奴らは国民を殺したいんじゃない! 国民が自ら【自分を家畜として差し出す】精神状態を作り上げたんだ!!」
御子柴はホワイトボードの前に飛び出し、黒のマーカーで【一億総「異世界待望論」】と巨大な文字を書き殴った。
ダンッ!!という音が、地下室の壁を震わせる。
「氷室! 轟! 奴らが仕掛けたプロパガンダの最終形態が見えたぜ!! 異世界転生ブームの正体……それは、一億人の国民を、喜んで屠殺場へ歩いていく【笑顔の羊】に変えるための、究極のマインドコントロールなんだよ!!」
「笑顔の、羊……」
七海が、ごくりと生唾を飲み込む。
「そうだ!!」
御子柴が、ホワイトボードをドスンドスンと激しく叩く。
「Xデーが来て社会が崩壊しても、奴らは暴動を恐れる必要はねえ! なぜなら国民は、政府を憎む代わりに、自分のスマホを握りしめて『あのアニメみたいに、俺も転生すれば最強になれる』と、うっとりしながら死ぬのを待っているからだ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。
「奴らは国民から『現状に抗う意志』だけじゃなく、人間として最も根源的な【生存の尊厳】までも奪い取ったんだ! 自分の命をゴミ屑のように扱い、『早くあっちへ行きたい』と願わせることで、支配者層が国民をいくら使い潰しても、誰からも非難されない、罪悪感すら抱かれない、完璧な【棄民社会】を完成させたんだよ!!」
「……っ!! 物理的な抹殺よりもタチが悪い……。精神的な【自己放棄】の強制か……!!」
轟が、顔面を蒼白にしながら呻いた。
「そうだ!!」
御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて咆哮する。
「これが【一億総「異世界待望論」】の正体だ!! 日本という国全体が、現世への絶望と来世への妄想でパンパンに膨れ上がった、巨大な【集団自殺の待合室】にされているんだよ!! 奴らは国民が笑顔で消え去るのを待って、その後に残った広大な土地と富を、自分たちだけで分け合おうとしているんだ!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。
「俺……! 疲れてフラフラで横断歩道を歩いてる時……猛スピードで走ってくるトラックを見て、一瞬『轢かれたら、楽になれるのかな』『あっちの世界に行けるのかな』って……笑顔で想像したことがあった……!!」
青年が抱いていた、あの恐ろしいまでの「期待」。
それは、自分の命を投げ出すことを「救済」だと錯覚させられ、支配者たちに自分の人生を丸ごと明け渡すための、完成された【洗脳のシークエンス】だったのだ。
「俺は……俺の命は、政府がこの国を独占するための『邪魔なゴミ』として、アニメで綺麗に掃除されてたって言うのかよおおおっ!!」
希望という名の絶望。救済という名の処刑。
一億人の国民が、自分たちの消滅を心待ちにしているという、人類史上最も静かで、最も狂気的な地獄。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。
無機質な空調のモーター音が、まるで一億人の羊たちが静かに屠殺場へ向かう時の足音のように、低く、重苦しく、彼らの耳元で唸り続けていた。




