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最終話 2 最後のお茶の時間

 空は丸みをおびている。

 太陽はついさっき山の峰に沈んだ。稜線を黄金色に焦がし、大地の向こう側に通り過ぎてもなお空に浮かぶ雲の色を変えている。空を照らす太陽の光のおかげで、大地が丸い、大空が丸いとあらためて知る事ができる。

 プラウタは宿舎の休憩室で毎秒ごとにその色彩を変える空を眺めていた。テーブルにはお茶のセットと、たった今書き終えたフウへの手紙。封筒をのり付けして閉じ、サインを入れる。封筒のふちを指でなぞり、隣の席に座る黙ったままの老人に目を向けた。

 手紙を書きながらも幾つかの言葉を老人に投げかけてみた。でも、彼は黙ったままプラウタを、それとも、プラウタの向こう側の空の色を見ていた。

 プラウタは一つため息をつき、お茶のカップを口に運ぶ。と、誰かがやって来る。テストパイロットの中、プラウタと同じく二十代の飛行機乗り、外国の血が混じっていると言う柔らかい金髪のレイジだった。

 レイジはテーブルに座るプラウタを見つけて、彼の性格通りに真っ直ぐに歩いて来た。テーブルのすぐ側まで来ると、ちらり、プラウタの手元の封筒に目をやる。

「手紙?」

 と、一言だけ話しかけ、プラウタの顔を真っ直ぐに見つめて返事を待つ。プラウタは「まあね」と言葉を濁しただけで封筒を裏返す。レイジは少し笑い、プラウタの封筒にすっと手を伸ばす。プラウタはお好きにどうぞといわんばかりに特に隠す様子も見せずにそれを手放した。

「フロウレラ?」

「フロウレラ」

 二人は一つの名前を繰り返す。レイジはそれを丁寧にプラウタに返した。

「余裕だな。女に手紙を書いているだなんて」

「まあ、僕が考えていた通り、周りをいろんな思惑が飛んでいて……」

 プラウタは少し考えるように首をかしげ、真っ直ぐ見つめるレイジに真正面から視線を返した。

「飛ぶ以外の事を考えたくなったんだ」

「飛ぶ以外の事、か。やっぱり民間人は余裕なんだな。俺達とは違う」

「そういじめないでよ」

 プラウタはお茶の香りをふわりと浮かべているポットをレイジに向けてみた。レイジは軽く首を横に振るだけで答えた。金髪の前髪がさらりと揺れる。

「みんな、民間人民間人ってさ。別にいいと思うけど、僕は」

「まあ、正直言って面白くないと思っている奴はいるだろうな」

 レイジはテーブルに付かず立ったまま喋り続けた。

「軍人として任務の一環で試作機の訓練飛行していたところ、外国の血が混じった自分達よりも一回りも二回りも若い奴がエースをかっさらって」

 プラウタは顔を上げた。レイジにしては珍しく表情が顔に出ている。難しいパズルに少し苛ついた子供のような、鏡に映る自分自身を笑うような表情をしている。

「そしてすぐまた、今度はぽっと出て来た民間人がエースだ。面白くもないさ」

「それは知らなかった」

 お茶をすする。温くなったせいか、それともこの場からいなくなりたいと言うこの空気のせいか、全然味がしない。

「と言うよりも、僕のせいじゃないよ。ゴウンさんに言ってくれ。僕はあの人の作戦にはまってここに連れてこられたんだ」

 少しだけ間を空けてレイジが答える。

「逆に俺はゴウンさんに頼み込んでいまここにいるんだ。彼の決定に異議を申し立てるつもりはないぜ」

「あっそう。ま、どんな理由があるにしろ、僕は飛びたくて飛んでいる。実験機の完成とか、ジェットエンジンの進化とか、戦争の準備とか、興味ないよ」

「戦争の、準備?」

「アービュウェイが完成したら、まずは民間機じゃなく軍用機にジェットエンジンを載せるんだろ? 整備の人が言っていた」

「それは俺が決める事じゃないし、俺も興味ないな」

 一呼吸置いて、レイジはこの会話を終わらせる間を取った。プラウタからはじめて視線を外していつのまにか色が濃くなっている空に顔を向ける。斜めの紅い光が

レイジとプラウタを切るように照らしつける。

「レイジはなんで飛んでいるの?」

 今にも背中を向けそうな彼にプラウタは言った。夕食のメニューを尋ねるような軽い口調でレイジに言葉を投げかけ、返事を待つ。

「……空にいる時は誰よりも速く飛びたい。空では一番速い奴が、その空を支配できる。誰に束縛される事なく飛べるんだ」

 プラウタではなく、薄汚れた床板に言葉を投げ付けるようにレイジは答えた。そしてそのままプラウタに背中を見せる。プラウタは待った。レイジがさらに何か言うか、それとも何も言わず背中を向けたままこの場を去るか。

 レイジはもう一度窓の外へ顔を向けた。ほんの少しの時間が空の色をぐんと濃く染め上げていた。すでに夕焼けの紅色から夜の群青色へと移り変わりつつある。プラウタから見えるレイジの横顔はそんな空を見ていないように思えた。窓の中にいる自分自身を睨んでいるように感じられた。

 レイジとの会話はそのまま終了した。そのまま何も語らずに歩き出すレイジ。プラウタもまたその背中を見送る事なく、隣に座る老人を覗き見た。この居心地のあまりよくない空気の中でも相変わらず、何も喋らず、プラウタの側にいる。

「……そういじめないでよ」

 プラウタはもう一人、こちらを見ている人物がいるのに気付いた。ふうと視線をさまよわせた時、廊下の角に寄り掛かってこちらの様子を伺うようにたたずんでいた。

「ロエルトさん……何してんですか?」

「あー、いやー、話し掛けようと思ったらさ……」

 ロエルトは髪をなでつけるように頭に手をやり、いつものように口元にしわを深く彫るような微笑みを浮かべて近付いて来た。

「先客がいたもんで、ちょっと悪いけど聞かせてもらってたんだ」

「みんないじわるですよ。ここの人達って」

 プラウタはほんの少しだけ本心を言ってみた。ロエルトは、やはり、いつものように人の良い笑顔を作っている。ベテランの軍人なんかよりも泥に汚れて野菜を手にしているのが似合う笑顔の持ち主だ。

「プラウタくんはなんかいじめやすい奴だからな。なんかいじめちゃうんじゃないか?」

 ロエルトはプラウタにすすめられる前にテーブルにつき、もう一度にっこりと微笑んで空いているカップをとんとんと指で弾いた。プラウタは彼につられて思わず笑みをこぼし、ロエルトのカップにお茶を満たす。温くなったせいか立ち上る湯気は弱く霞んでいるが、ふわりと上品な緑の香りが漂って来た。

 ロエルトも最初はテストパイロットの一人だった。しかし、プラウタの出現が彼の役目を終了させた。ロエルトはテストパイロットを辞退し、ジェットエンジンの整備士の役についた。まるでプラウタがロエルトを追い出したようにも見えるが、彼はそれを鳥が飛び魚が泳ぐように当たり前の事と思い、プラウタと歳は離れているものの旧い友人のように接してくれていた。ひとりきりのプラウタにとって、それは何よりも頼もしい事だった。

 沈黙が静かな初雪のように降って来る。空の色が深い紫色に変わり夜が世界に染み込んでくる音が聞こえて来そうな、そんな傷付きやすいガラスのような静寂が柔らかく降り積もる。ついさっきまで沈みかけの太陽がテーブルにポットの長い影を刻み込んでいたが、いまではいつのまにか点灯していた電灯がぼんやりとした薄い影を幾つも重ねている。

 プラウタは待った。

 ロエルトは、それを知っていたかのように長い間黙ったままだったが、やがて喋りだした。

「アービュウェイがもうすぐ完成する。アービュウェイ・トゥーイだ」

「トゥーイ(真なる)ですか」

「そうすれば、局面は嫌でも動かざるを得ないな」

 ロエルトの笑顔は崩れない。

「僕は……」

 プラウタも笑ってみる。

「……ある人と約束をしたんですよ。戦争を止めるって」

「……そうだな。三百年も世界中で戦争が起こっていないんだ。それはもっと長くてもいいな」

「だから僕はまだここにいるような気がするんです。占いなんて嫌いだけれども、今までの出来事全てが、僕がここにいる理由だって、そんな気がするんです」

「そんなもんかもな、人生って」

 ロエルトが温いお茶を飲み干す。

「ごちそうさん。さてと、トゥーイのご機嫌でも見てくるかな」

 ロエルトは静かに立ち上がり、プラウタの顔も見ずに背中を向けたまま歩き出した。プラウタもまたその背中を見ずに、自分のお茶を飲み干す。

「なあ、プラウタくん」

 ふと立ち止まるロエルト。照れ隠しのような笑みを浮かべてプラウタに向き直る。

「レイジが来る前から、ずっとおまえを見ていたんだけどな……」

「うわ、気持ちわり」

 思わず笑いあう二人。ロエルトは茶化されても笑顔も声の調子も変えずに続けた。

「おまえ、ずっと独り言を言ってたな。悩みがあるなら俺が聞くぜ。人生の先輩としてな。こんなとこで一人座ってたって、恋の悩みは解決しないぜ」

 ロエルトはプラウタの手元を指差す。フウへの封筒を触っていたプラウタは笑い続けた。

「その時が来たら相談しますよ。ここで話し掛けてくれるの、レイジとナナさんとロエルトさんだけだから」

 じゃあな、とロエルトが廊下の角に消える。プラウタはそれを見送り、隣に座る老人に目をやる。相変わらずそこに居続けている。何を語るでなく、何を見つめるでなく、何を思っているのか。プラウタにはわからなかった。

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