最終話 1 空を飛ぶ力
さざ波が押し寄せるような微振動が断続的に続いている。今日の大空は機嫌がいいのか、だいぶ穏やかな風の流れを感じる。おかげで機体の揺れも少なく、飛ぶにはうってつけの空だ。
「一つ聞いても?」
白いひげをたっぷりと貯えた男が会話の間に手を上げた。その視線は向い合せのシートに座る背筋を伸ばし胸を張った男へ注がれている。
「……何か」
輸送機の搭乗員席は全部で十六席。左右の内壁にベンチスタイルで取り付けられたシートは堅い皮製で、揺れがひどいフライトの時はやたらと腰にひびく。そんなクッションの足りないシートに座りながらも背筋を伸ばしている男は白いひげの男を真正面から見据えた。威厳のある重い視線を打ち付けられ、思わず視線を反らしてしまった白いひげの男は、足下の床板を見つめながら呟くように言った。
「なんで今さら民間人を実験に参加させる?」
足下の金属がむき出しになった床板の向こう側に、最新のジェットエンジンを搭載した実験機が解放されるのを待っている。
「何か問題でも?」
返された言葉は少なかった。
「……我々程度のスキルでは実験機を飛ばすには不十分と判断しているかと思いまして」
その言葉に反応するかのように、十六ある座席に座るほかの三人がこの二人の静かな会話に顔を向けた。それらの顔にはいままで生きてきた証としてシワが刻み込まれている。軍人として生きてきた厳しい空気をまとっている。
少しの沈黙が重く留まる。大型輸送機特有の小刻みな振動。液体燃料エンジンが吐く排気煙の渦巻く音。遠くで聞こえる風が巻く音。そして胸を張った男、ジェット開発機関開発部長のゴウンはすっと視線を窓に向けて言った。
「ジェットエンジン実験機は軍の所有物ではない。軍人以外が実験に参加する事を拒む理由はどこにもない。それを言うならば私も民間人だが、どうする? この機からひきずり降ろすかね?」
誰も答えられない。ゴウン抜きでジェットエンジンの完成はあり得ないのは十分に知っている。
「優秀な人材は一人でも多いにこした事はない。すくなくとも、彼は全員の中で最も長い飛行経験を持っている。君は六歳の時何をしていた? 彼はすでに空を飛んでいた」
ゴウンの視界には海原をまたぐような大きく広がった低い雲が穏やかに流れていた。高度の高い雲もなく、ミルクを溶かしたようなガスがかかる事もなく、飛ぶにはうってつけの空だ。
プラウタの視界は未だ真っ暗だった。しかし温めたナイフでバターに切り込みを入れたみたいに暗闇に光の筋が何本も走っている。格納庫に漏れだした外の光だ。大型機の微振動が光がこぼれる隙間を生じさせていた。
『プラウタ、一つだけ言っておく』
無線からノイズまじりの声が届く。前のコクピットに座る操縦士からの声。プラウタはヘルメットに埋め込まれたヘッドホンに手をやり、前座席を覗き込んだ。前のヘルメットからは柔らかそうな金髪が垂れていた。
「何?」
『気を失っても死んでもかまわないが、絶対に吐くな』
二人が座ればもはや窮屈ささえ感じるコクピットを眺め回し、プラウタはヘルメットのベルトを閉め直す。蒸気エンジン飛行機とジェットエンジン飛行機。どれほど次元が違うものなのか。
「誰か吐いたのか?」
『ゴウン部長の秘書のナナ。どうしても乗りたいと言うから試させたら、酷い目にあった』
「……災難だったな、レイジ」
前座席に座るレイジがぞんざいに手を振る。それほど思い出したくない出来事だったか。
『実験機アービュウェイ、準備完了。いつでもどうぞ』
何かを振り払うようなレイジの声を聞き、深呼吸を飲み込むプラウタ。この胸の高揚感。ドキドキと揺れる心臓。いつ以来か。初めて、父と飛んだ空の色、風の匂いを思い出す。
『カーゴを開ける。アービュウェイ、発進十秒前』
耳元で輸送機のパイロットの声が響いた。ノイズのせいか、やけに遠くに聞こえる。すでに上空一万メートルに達している。遠いと言えば、確かに遠い。
光がものすごい勢いで流れ込み、暗闇を引き裂くように飲み込んでいった。光の波に背中を押される錯覚を感じる。光の粒は格納庫全体に染み渡り、いままさに切り離されそうとするアービュウェイを包み込む。一瞬遅れて風が吹き込んだ。微振動がはっきりとした振動に変わった。
『アービュウェイ、切り離す』
機体を固定していたワイヤーが火花を散らせて外れた。
世界がほんの一瞬だけものすごく静かになった。時が止まったかのように、何もかもが静かだった。とても短い瞬間だったが、アービュウェイはすべてから解放されて、その瞬間は風さえもアービュウェイを拘束する事はできなかった。アービュウェイは自由を得た。
世界が狂ったように一気に逆走する。視界がざっくりと切り取られたみたいに音を立てて狭くなる。目の前に見えていた格納庫の金属の壁は斜めに傾きながらあっと言う間に収縮し、その周囲が空間を折り畳むように薄い青色に塗り固められる。輸送機の腹から大空に産み落とされたアービュウェイはまだその産声をあげない。プラウタは巨大な大地の力を感じた。重力に引かれている。静かに揺れる視界を埋め尽くす青い大空に、ぽつんと、母なる輸送機が小さな点になる頃、レイジは叫んだ。
『プラウタ、ぶっ飛ぶぞ!』
アービュウェイが吠えた。大空の色が一瞬だけオレンジ色に染まった。大きな力でアービュウェイを掴んでいた大地の見えない腕は振りほどかれ、すべてが遠くに飛び去ろうとしていた視界が逆にものすごい勢いで突進してきた。
風さえも抜き去る。視界に見える青空が突き破れそうに歪む。雲が溶けるように背後に流れて行く。世界がはるか後方に飛び去って行く。アービュウェイは何もかもを飛び越えて行った。
輸送機の窓から見える流れる光の粒。それは太陽の光を反射させ踊っているアービュウェイ。雲のない青に染め抜かれた空域を一筋の白い飛行機雲でするすると切り裂いていく。
「何分もつかだ」
白いひげの男が言った。白い雲を引く光の粒は弾けるような角度で空を斜めに捻り落ちて行った。
「最初からあれか。厳しい洗礼だな」
隣のサングラスをかけた男が哀れむような声で言う。光の粒は雲の筋をうねる蛇のように空に残して太陽へ向けて駆け登って行く。
「レイジも意地が悪いな。最年少の座を奪われた腹いせか?」
ゴウンの側に座る無表情な白髪まじりの男が首を振る。再びまっ逆さまに捻りながら落下するアービュウェイ。
「……しっ。聞こえないか、これ?」
無線のヘッドホンに手をあて、微笑むような顔つきの男の口元がさらにほころんでいく。ゴウンを囲むように座っていた四人の空軍パイロットは、今日始めてジェットエンジン搭載機に乗った民間人の無線の声を聞いた。そして小さな窓の外を跳ね回る光の粒を凝視する。
ゴウンも思わず笑い声をこぼしてしまった。
プラウタは笑っていた。
声を上げて、暴れ馬を完璧に乗りこした子供のように無邪気に笑っていた。




