5話:応答なし(元世界)
朝のホームルームが終わったあと、黒瀬ミナトは廊下で聞こえてきた会話に足を止めた。
「朝霧、また休みらしいぞ」
「最近ずっと来てなくね?」
「引っ越し近いんじゃなかったっけ」
その名前に、ミナトは思わず振り返った。
話していたのは、ヒロのクラスの男子だった。教室の前でだらだらと駄弁りながら、たいして興味もなさそうに話している。
朝霧ヒロ。
その名前が、胸に引っかかった。
ミナトとヒロは別のクラスだ。昔みたいに毎日顔を合わせるわけでもないし、今となっては話すこともほとんどない。
けれど、あの日からずっと、ヒロのことが頭の隅にこびりついて離れなかった。
放課後の教室。
床に転がる鞄。
目が合ったのに、何も言えなかった自分。
いや、何もしなかったわけじゃない。あのときミナトは、どう止めればいいか分からなくて、一瞬迷っちまった。結果として場は収まったが、ヒロから見れば、自分はただ通り過ぎたようにしか見えなかっただろう。
そのことが、ずっと胸の奥に刺さっている。
昼休みになっても、ミナトの頭からその会話は離れなかった。
同じクラスの友人たちが騒ぎながら弁当を広げている中で、ミナトはぼんやりと窓の外を見ていた。
「ミナト、今日なんか静かじゃね?」
「腹でも痛いのか」
「それとも恋煩い?」
「うるせえ」
適当に返しながらも、落ち着かない。
ヒロが休んでいる。
それだけなら、まだいい。だが「最近ずっと来ていない」というのが引っかかった。引っ越し前でバタついているだけかもしれない。そう思おうとしても、どうしても嫌な感じが消えない。
昼休みの終わり、ミナトは席を立った。
「どこ行くんだよ」
「ちょっと職員室」
「なんだよ、怒られるようなことしたのか?」
「お前らと一緒にすんな」
笑い声を背に、ミナトは教室を出る。
職員室でヒロの担任を捕まえたものの、返ってきたのは曖昧な答えだけだった。
「朝霧は少し事情があってな」
「事情って?」
「ご家族とも連絡を取っている。お前は気にしなくていい」
気にするなと言われて、気にしないでいられるわけがない。
結局それ以上は聞き出せず、放課後になるころには、ミナトの中の違和感は完全に膨れ上がっていた。
だから、その足でヒロの家へ向かった。
夕方の住宅街は静かだった。
ヒロの家に来るのは、ずいぶん久しぶりだった。小さい頃は毎日のように来ていたのに、高校に入ってからは一度も来ていないかもしれない。
玄関先には段ボールがいくつも積まれていた。引っ越し準備の途中らしく、ガレージの脇にもまとめられた荷物が見える。
けれど、人の気配がなかった。
「……ヒロ?」
呼んでみても返事はない。
インターホンを押しても反応はなかった。
留守か、と思ったそのとき、背後で車のドアが閉まる音がした。
振り返ると、スーツ姿の男が立っていた。ヒロの父親だった。以前よりも少し痩せたように見える。顔色も悪く、ひどく疲れているようだった。
「ああ……黒瀬くん、だったかな」
「はい。あの、ヒロが最近学校に来てなくて。ちょっと気になって……」
そこまで言ったところで、ヒロの父の表情が曇った。
嫌な予感がした。
「実は、ヒロは……まだ見つかっていないんだ」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
「数日前から行方が分からなくなっていてね。学校にも話はしてあるんだが……」
行方不明。
その言葉が頭に入ってくるまで、数秒かかった。
ヒロが、行方不明?
冗談みたいな響きだった。けれどヒロの父の顔は、冗談なんて欠片も許さないほど沈んでいた。
「家の中から、急にいなくなったみたいでね。財布もスマホも置いたままだった。引っ越しの荷物を整理していたらしいから、何か昔の物を持ち出した可能性はあるが……」
ヒロの父はそこで言葉を切り、疲れたように目を伏せた。
「すまない。こんな話を、友達にすることじゃないな」
「……いえ」
友達。
その言葉が少しだけ胸に刺さった。
今の自分は、ヒロにそう思ってもらえる立場なんだろうか。
適当に言葉を交わしてその場を離れたあとも、ミナトの頭の中はひどく混乱していた。
行方不明。
財布もスマホも置いたまま。
数日前の夜。
ミナトは家に帰るなり、自室の机の引き出しを開けた。
中に入っていたのは、子どもの頃にヒロと使っていたトランシーバーだった。
あの日の夜、ミナトはこれを取り出していた。
ヒロのいじめを止められなかったことが、どうしても頭から離れなかったからだ。懐かしさに浸るつもりだった。少しだけ昔を思い出して、それで終わりのはずだった。
なのに。
あのとき、確かに聞こえたのだ。
ノイズ混じりの、ヒロの声が。
『……助…て……!』
『…ナト、…こ…るか……!?』
最初は空耳だと思った。気のせいだと思った。
けれど今なら分かる。
ヒロが失踪したのは、あの夜だ。
偶然で片づけるには、出来すぎている。
「……気のせいじゃ、なかったのかよ」
ミナトはトランシーバーを握りしめた。
電源を入れる。古い機械が、かすかに軋むような音を立てた。
送信ボタンを押す。
ミナト「ヒロ。いるなら返事しろ」
当然、返事はない。
ノイズもない。ただ静寂だけが耳に痛い。
ミナト「お前、どこ行ったんだよ」
もう一度、ボタンを押す。
ミナト「ふざけんな。こういうの、笑えねえんだよ」
声が少しだけ荒くなる。
それでも返事はない。
何度か呼びかけたあと、ミナトは大きく息を吐いた。
分からないことだらけだ。だが、ただ待っているのは性に合わない。
翌日、ミナトは学校で「機械に一番詳しいやつ」を探し始めた。
トランシーバーのことを調べるなら、そういうのに強い奴に見せるのが一番早い。
聞き込みの結果、名前が挙がったのは一人だった。
宮坂タスク。
二年生。目立たないが、電子工作や機械いじりが異様に得意で、壊れたラジオだのゲーム機だのを勝手に直しているらしい。
「前にパソコン壊れたとき、あいつが直したんだよ」
「変なやつだけど、機械だけはガチ」
そんな話を聞いて、ミナトは昼休みに二年の教室へ向かった。
窓際の席に、丸っこい体型の男子が座っていた。黒縁眼鏡にぼさぼさの髪。いかにも運動とは無縁そうな見た目だ。
ミナトが教室の前に立った瞬間、何人かの生徒がざわつく。
「黒瀬先輩?」
「え、誰呼びに来たんだ」
そんな視線を無視して、ミナトは教室の中へ声を投げた。
ミナト「宮坂タスクっているか」
名前を呼ばれた本人は、びくっと肩を震わせた。
周りの視線が一斉に集まる。
タスクはおそるおそる立ち上がり、ミナトを見た。
タスク「……ぼ、僕ですけど」
ミナト「ちょっと来い」
それだけ言って、ミナトは踵を返した。
タスクは青ざめた顔のまま、ぎこちなく後をついてくる。
人気のない渡り廊下の端まで来たところで、ミナトが振り返ると、タスクは半歩後ずさった。
タスク「す、すみません」
ミナト「は?」
タスク「いやその、僕、先輩に何かした覚えはないんですけど、でももし気に障ることがあったなら謝りますから、財布は今千八百円しか入ってなくて……」
ミナト「……お前、カツアゲされると思ったのか」
タスク「違うんですか!?」
ミナトは思わず額を押さえた。
ミナト「しねえよ。そんな用で呼ぶか」
タスク「だ、だって黒瀬先輩、怖いって有名で……」
ミナト「誰が流してんだそんな風評被害」
タスク「風評じゃなくて概ね事実では……」
ミナト「聞こえてるぞ」
タスクはびくっと肩をすくめた。
なんというか、想像以上に小動物だった。
ミナトは鞄からトランシーバーを取り出す。
ミナト「これ、見てほしい」
タスクはぽかんとした顔でそれを見る。
タスク「……トランシーバー?」
ミナト「古いやつらしい。こういうの詳しいって聞いた」
タスク「いや、まあ、無線機とかラジオとかは好きですけど……」
ミナト「壊れてるかどうか、分かるか」
タスクはまだ少し怯えた様子のままだったが、トランシーバーを受け取った瞬間、顔つきが変わった。
指先で本体を撫で、裏蓋を開け、中の乾電池を確認する。アンテナを伸ばし、スイッチを入れて、耳元へ近づける。
その動きは、さっきまでのおどおどした様子が嘘みたいに滑らかだった。
タスク「……へえ」
ミナト「分かるのか?」
タスク「古い民生機ですね。かなり昔のやつだ。でも保存状態は悪くない」
急に早口になる。
タスク「乾電池は完全に死んでます。これじゃ普通は動きません。ただ、本体側が死んでるかはまだ何とも。接点はそこまで腐食してないし、回路が完全に焼けてる感じでもなさそうだし……」
ミナト「日本語で頼む」
タスク「えっ、あ、すみません」
タスクは眼鏡を押し上げた。
タスク「つまり、電池を替えれば動く可能性はあります」
ミナトは少しだけ息をついた。
それならまだ希望はある。
だが、問題はそこじゃない。
ミナト「これ、数日前の夜に変な音がしたんだ」
タスク「変な音?」
ミナト「ノイズみたいなやつ。そのあと、人の声が聞こえた」
タスクが顔を上げる。
ミナト「しかも、その声の主は今、行方不明になってる」
数秒、沈黙が落ちた。
タスクの目が、ゆっくり細くなる。
タスク「……それ、冗談ですか?」
ミナト「言ってる顔に見えるか」
タスク「見えません」
そこからは早かった。
タスクはミナトを連れて、自分が放課後に使っているらしい空き教室へ向かった。中には古いノートパソコンや工具箱、小型の受信機、コード類が山ほど積まれている。
タスク「部室じゃないです。僕の作業場です」
ミナト「勝手に使っていいのか、ここ」
タスク「よくはないです」
よくないらしい。
タスクは机の上にトランシーバーを置き、何本かのコードを受信機へ繋いでいく。動きに迷いはない。
ミナトには何をしているのかほとんど分からなかったが、少なくとも慣れていることだけは伝わってきた。
しばらく無言で作業していたタスクが、ふと眉をひそめた。
タスク「……あれ?」
ミナト「何かあったか」
タスクはすぐには答えなかった。
画面に映る波形のようなものを睨みつけ、トランシーバー本体を持ち上げ、もう一度受信機へ繋ぎ直す。
そして数秒後、ゆっくりとミナトを見た。
タスク「このトランシーバー、普通じゃない」
ミナト「今さらかよ」
タスク「違う。周波数が変なんだ。学校の機材でも拾えない帯域が混ざってる」
ミナトは息を止めた。
タスク「こんなの、見たことない……」




