20話:逃亡
領主館の裏口を抜けたあとも、ヒロは一度も振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる気がした。
暗い路地を、アリアの背中だけを追って走る。
傷ついた身体が悲鳴を上げている。
それでも、今は止まれなかった。
背後から、館の扉が開く音が響く。
敵はもう、バルドのいる部屋へ入ったかもしれない。
その光景を想像しそうになり、ヒロは強く歯を食いしばった。
アリア「こっちだ」
アリアが細い路地へ曲がる。
ヒロも続いた。
ミレイアの街は、不気味なほど静かだった。
窓には明かりがあるが、通りへ出ている者はいない。
遠くから、兵士の怒鳴り声が聞こえた。
兵士「家の中を確認しろ!」
兵士「少年を見つけたら、すぐに知らせろ!」
ヒロの足が止まりかける。
自分を探している。
そのために、街の人間まで巻き込まれている。
胸の奥に重いものが沈んだ。
頭からバルドの姿が離れなかった。
最後に告げられた言葉。
八星。
ヒロには、その意味すら分からない。
ただ、アリアが恐怖を隠しきれなかったことだけは覚えている。
アリア「止まるな」
鋭い声に、ヒロは顔を上げる。
ヒロ「……はい」
二人は建物の影を縫うように進んだ。
大通りは使えない。
兵士たちは家を一軒ずつ調べている。
住民の悲鳴と怒鳴り声を背中へ受けながら、二人は走り続けた。
やがて、見覚えのある建物が見えてくる。
ギデオンの工房だった。
表の扉は閉まっている。
窓から漏れる明かりも少ない。
アリアは周囲を確認し、裏手へ回った。
木製の小さな扉を、決められた間隔で叩く。
コン。
コンコン。
コン。
しばらくして、内側から小さく音がした。
ギデオン「誰だ」
アリア「私です」
短い沈黙。
鍵が外され、扉がわずかに開く。
隙間から、ギデオンの顔が覗いた。
アリアとヒロの姿を見た瞬間、その表情が変わる。
ギデオン「入れ」
二人が中へ入ると、ギデオンはすぐに扉を閉めた。
鍵をかけ、木材で内側から固定する。
工房の中は暗かった。
炉の火は落とされ、道具や材料のほとんどが布で覆われていた。
奥から、足音が近づいてくる。
リゼット「お父さん、誰だったの?」
現れたリゼットは、ヒロの姿を見つけて目を見開いた。
リゼット「ヒロ……?」
すぐに、その顔が曇る。
ヒロの服には、まだ乾ききっていない血が残っている。
アリアの鎧も傷だらけだった。
リゼット「何があったの?」
ヒロは口を開こうとした。
だが、声が出なかった。
喉の奥が締めつけられる。
何を言えばいいのか分からない。
言葉にすれば、本当にすべてが終わってしまう気がした。
ヒロは俯いたまま、拳を握った。
アリアが代わりに口を開く。
アリア「領主館が襲撃された」
ギデオンの顔から表情が消えた。
ギデオン「誰にだ」
アリア「王都から来た者たちです」
ギデオン「王都……?」
アリア「館の者たちは、ほとんど殺されていました」
リゼットが息を呑む。
リゼット「そんな……」
アリアは一度目を閉じた。
言葉を続けるために、感情を押し殺しているようだった。
アリア「ソフィも……死んでいた」
ヒロの拳が強く握られる。
爪が掌へ食い込む。
それでも、痛みはほとんど感じなかった。
アリア「団長も……」
ギデオンの目が鋭くなる。
アリア「私たちを逃がすために残りました」
言葉が途切れる。
アリアの声がわずかに震えた。
アリア「……もう、助からない状態でした」
工房の中が静まり返る。
リゼットは口元を押さえた。
ギデオンは何も言わない。
ただ、作業台の端へ置いた手に力が入っていた。
ギデオン「……そうか」
それだけだった。
だが、その声には、押し殺しきれない怒りが滲んでいた。
長い沈黙のあと、ギデオンがアリアを見る。
ギデオン「襲った連中に、心当たりはあるのか」
アリア「団長が、最後に一つだけ名前を残しました」
アリアは一度、ヒロへ視線を向けた。
そして、低く告げる。
アリア「八星です」
ギデオンの動きが止まった。
その反応を見て、ヒロが顔を上げる。
ヒロ「知ってるんですか」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
ギデオンはすぐには答えなかった。
少しだけ考えたあと、工房の窓へ近づく。
カーテンの隙間から、外を確認した。
通りの向こうでは、複数の兵士が民家へ入っていくところだった。
返事を待たずに扉を開け、中にいる者たちへ剣を向けている。
ギデオンはすぐにカーテンを閉じた。
ギデオン「昔、バルドから聞いたことがある」
アリア「団長から?」
ギデオン「ああ。酒を飲んでいた時にな」
ギデオンは作業台へ戻り、声を落とした。
ギデオン「王直属の、八人だけの部隊」
ヒロ「王直属……」
ギデオン「正式には存在しておらんことになっている」
アリア「私も噂程度にしか知りません」
ギデオン「当然じゃ。王国騎士であっても、知らされることはない」
ギデオンは腕を組む。
ギデオン「八星は、王の勅命でしか動かん」
ギデオン「王国にとって邪魔な者を、誰にも気づかれず消す」
ヒロの脳裏に、あの隊長の姿が浮かんだ。
失敗した部下を、何の迷いもなく斬り殺した男。
ヒロ「暗殺部隊……」
ギデオン「そんなところじゃろうな」
ギデオンは低く息を吐いた。
ギデオン「中央大陸へ、他種族が攻め込もうとせん理由を知っとるか」
ヒロ「王国の軍が強いからじゃないんですか」
ギデオン「それもある」
ギデオンは首を横へ振る。
ギデオン「だが、最も恐れられているのは八星じゃ」
リゼット「そんな話、私も知らない」
ギデオン「知らんでいい話だったからな」
ギデオンは窓の方へ視線を向けた。
ギデオン「中央大陸へ軍を向ければ、戦が始まる前に指揮官が消える」
ギデオン「王都へ攻め入ろうとした者は、夜が明ける前に首だけになる」
工房の空気が冷たくなる。
ギデオン「それが八星の仕業だと恐れられておる」
アリア「噂では、敵国の将だけでなく、その家族や協力者まで消えると」
ギデオン「ああ」
バルドが恐れた理由が、少しだけ分かった。
八星は、王国の闇そのものだった。
ヒロ「どうして、俺を……」
声が震える。
ヒロ「俺が何をしたんですか」
答える者はいなかった。
異世界へ来ただけだ。
それなのに、ソフィが死んだ。
バルドが拷問された。
自分の存在が、すべてを壊したように思えた。
ヒロ「俺がいなければ……」
アリア「違う」
アリアの声が強く響いた。
ヒロが顔を上げる。
アリア「お前のせいではない」
ヒロ「でも」
アリア「殺したのは奴らだ」
アリアの目にも、深い怒りが宿っていた。
アリア「お前は何もしていない」
ヒロは唇を噛んだ。
頭では分かっていても、感情が追いつかなかった。
ギデオン「今は、自分を責めている場合ではない」
ギデオンの声は厳しかった。
ギデオン「奴らはお前さんを探している」
ギデオン「このままここへいれば、見つかるのは時間の問題じゃ」
ギデオンはヒロの鞄へ視線を向けた。
ギデオン「魔力蓄積石は持ち帰ったのか」
ヒロは一瞬、反応が遅れた。
鞄を開き、布に包んだ石を取り出す。
淡い光が工房の中へ漏れた。
ヒロ「……これです」
ギデオンは石を受け取り、表面を確認して小さく頷いた。
ギデオン「間違いない」
ヒロ「トランシーバーを動かせますか」
ギデオン「可能性はある」
その言葉に、ヒロの目がわずかに動く。
ギデオン「だが、このままでは使えん」
ヒロ「どうすれば」
ギデオン「魔力の流れを整え、出力を一定にする必要がある」
ギデオンは石を作業台へ置いた。
ギデオン「お前さんの道具が必要とする力に近づけるには、加工がいる」
ヒロ「どれくらいかかりますか」
ギデオン「少なくとも三日」
ヒロ「三日……」
ギデオン「順調にいって、だ」
外から、再び大きな音が聞こえた。
近くの家の扉が壊されたらしい。
兵士「中を調べろ!」
声は、先ほどより近い。
ギデオンが険しい顔をする。
ギデオン「三日もここにはいられん」
アリア「他に隠れられる場所は?」
ギデオン「この街にはない」
ギデオンは即答した。
ギデオン「ミレイアだけではない」
ギデオン「中央大陸のほとんどは、王国の息がかかっている」
ギデオン「街を変えても、いずれ見つかる」
アリア「では、どうすれば」
ギデオンは少し黙ったあと、低い声で答えた。
ギデオン「東へ行け」
ヒロ「東?」
ギデオン「ここから東へ進んだ先に、小さな漁村がある」
ギデオン「名はラトナ村」
ギデオン「そこから、海を渡る船が出ている」
アリア「どこへ向かう船ですか」
ギデオン「ドワーフの地じゃ」
ヒロは目を見開いた。
ヒロ「ドワーフ……」
ギデオン「王国とは交易があるが、支配までは受けておらん」
アリア「王国の追手も、簡単には動けない」
ギデオン「ああ」
ギデオンは魔力蓄積石へ視線を落とす。
ギデオン「向こうなら加工に必要な道具も揃う」
ギデオン「何より、腕のいい職人が多い」
ヒロ「ギデオンさんも、一緒に来るんですか」
ギデオンは静かに首を横へ振った。
ギデオン「わしは行かん」
ヒロ「え……?」
ギデオン「奴らは、必ずこの工房へ来る」
ギデオン「誰もおらんと分かれば、お前たちが逃げたこともすぐに気づかれる」
アリア「時間を稼ぐつもりですか」
ギデオン「ああ」
ギデオンは窓の方へ視線を向けた。
外では、兵士たちの声がさらに近づいている。
ギデオン「工房を調べさせ、適当に話を引き延ばす」
ギデオン「その間に、お前たちは東へ向かえ」
リゼット「お父さん……」
ギデオンは娘へ向き直った。
ギデオン「リゼット」
リゼット「……なに」
ギデオン「お前も行け」
リゼットが目を見開いた。
リゼット「え……?」
ギデオン「ドワーフの地を知っとるのは、お前じゃ」
ギデオン「小さい頃、母さんに連れられて何度も行ったじゃろう」
ギデオン「港も、向こうの町も、お前の方が詳しい」
ヒロ「リゼットが案内を?」
ギデオン「ああ」
ギデオン「わしはドワーフとのハーフじゃが、リゼットにもその血が流れておる」
ギデオン「向こうへ着けば、話も通しやすい」
リゼット「でも、お父さんはどうするの」
ギデオン「わしなら大丈夫じゃ」
リゼット「嘘」
リゼットはすぐに言い返した。
リゼット「お父さん、嘘をつく時は目を逸らすから」
ギデオンは一瞬黙り、それから小さく笑った。
ギデオン「そうだったかのう」
リゼット「誤魔化さないで」
リゼットの声が震える。
リゼット「一人で残ったら、何をされるか分からない」
ギデオン「それでも、誰かが残らねばならん」
ギデオンの声は静かだった。
ギデオン「お前までここに残れば、逃がす意味がなくなる」
リゼット「……」
ギデオン「お前には、お前にしかできんことがある」
ギデオン「ヒロたちをドワーフの地まで連れていけ」
ギデオン「魔力蓄積石の加工も、お前なら手伝える」
リゼットは唇を噛んだ。
目には涙が滲んでいる。
それでも、父から目を逸らさなかった。
ギデオン「父親としては、行かせたくなどない」
ギデオン「じゃが、ここに残す方が危険じゃ」
ギデオンはリゼットの頭へ手を置いた。
ギデオン「行ってこい」
リゼットはしばらく動かなかった。
やがて、小さく頷く。
リゼット「……分かった」
ギデオンは今度はヒロを見る。
ギデオン「ヒロ」
ヒロ「……はい」
ギデオン「娘を頼む」
その言葉に、ヒロは一瞬答えられなかった。
バルドの姿が、脳裏へ浮かぶ。
守られたばかりの自分に、誰かを守れるのか。
それでも、逃げるだけでは終われない。
ヒロは強く頷いた。
ヒロ「必ず守ります」
だが、その瞬間だった。
ドン。
工房の正面扉が叩かれた。
全員の動きが止まる。
ドン。
ドン。
さっきよりも強く、扉が鳴る。
兵士「開けろ!」
リゼットの顔が青ざめる。
アリアが細剣へ手を伸ばした。
ギデオンは魔力蓄積石を掴み、素早く布へ包む。
ヒロも腰の剣を握った。
外から、再び声が響く。
兵士「王都の命令だ!」
兵士「この工房を調べる!」
扉が、さらに強く叩かれた。




