19話:初めての絶望
微かな音だった。
何かが軋むような音。
そして、苦しそうな呼吸。
アリアは細剣を構え直した。
アリア「……誰かいる」
ヒロも剣を握る手へ力を込める。
二人は廊下の奥へ慎重に進んだ。
重い木の扉が閉まっている。
隙間から薄暗い部屋が見える。
アリアは壁へ身体を寄せると、小さく頷いた。
アリア「開ける」
ヒロも頷く。
アリアが勢いよく扉を押し開いた。
部屋の中央。
そこに置かれていた椅子へ、一人の男が縛り付けられていた。
ヒロ「……団長!」
バルドだった。
顔は腫れ上がり、片目は完全に塞がっている。
鎧は脱がされ、全身には無数の傷。
そして。
両手が見えた瞬間、ヒロは息を呑んだ。
指が。
一本一本、潰されていた。
爪は剥がれ、骨が砕かれたのか、不自然な方向へ曲がっている。
思わず目を逸らしたくなるほど惨い姿だった。
それでも、胸だけはかすかに上下している。
生きている。
ヒロは駆け寄ろうとした。
バルド「……来るな」
掠れた声だった。
それでも、はっきりと聞こえた。
ヒロ「団長!」
バルドは苦しそうに息を吸う。
乾いた唇から血が流れ落ちた。
バルド「時間が……ない」
アリア「誰がやったんです!」
アリアの声には焦りが滲んでいた。
バルドはゆっくり首を振る。
バルド「……奴らは……まだ近くにいる」
ヒロ「そんな……」
バルド「逃げろ」
短い一言。
だが、その目だけは真剣だった。
アリア「団長! 一緒に!」
バルド「無理だ」
自分の身体を見下ろす。
もう立てない。
誰の目にも明らかだった。
それでも、バルドは笑おうとした。
口元がわずかに動くだけで、痛みに顔を歪める。
バルド「……俺はもういい」
ヒロ「そんなこと言わないでください!」
バルド「聞け」
バルドは残った力を振り絞るように声を出した。
バルド「王都の人間を……信じるな」
ヒロもアリアも言葉を失う。
バルド「ギデオンのところへ……行け」
アリア「ギデオン……?」
バルド「あいつだけは……信用できる……」
息が切れる。
呼吸をするだけでも苦しそうだった。
バルド「工房へ……逃げろ」
バルド「今すぐだ……」
その時だった。
館の外から、足音が聞こえた。
カツ。
カツ。
カツ。
複数人。
石畳を踏む音が近付いてくる。
アリアは窓際へ走り、小さく外を覗いた。
黒い外套を纏った男たちが門をくぐってくる。
五人。
全員が剣を帯びていた。
その中心を歩く男だけが、不気味なほど穏やかな笑みを浮かべていた。
アリアはすぐに身を引く。
二人は息を潜めた。
外から声が聞こえてくる。
部下「周囲にも少年はいません。」
数秒の沈黙。
???「さてさて。」
???「見つからない、という報告で合っているでしょう?」
部下「……はい。」
???「でしょう?」
???「僕が欲しいのは少年でしょう?」
部下「も、申し訳ありません!」
???「謝る必要はありませんよ。」
???「失敗しただけでしょう?」
次の瞬間。
銀色の閃光が走った。
ザシュッ。
部下の首が宙を舞う。
どさり、と身体が崩れ落ちる。
残った部下たちは誰一人動けない。
???「さてさて。」
???「失敗した人は、次も失敗するでしょう?」
???「だから処分です。」
???「合理的でしょう?」
???は血溜まりを気にも留めず歩き出す。
???「団長も頑固でしたねぇ。」
???「指を一本ずつ潰しても。」
???「最後まで少年の居場所を吐きませんでした。」
ヒロはゆっくりとバルドを見る。
折られた指。
全身の傷。
拷問。
全部。
自分の居場所を聞き出すためだった。
団長は。
最後まで話さなかった。
その腫れ上がった片目が、静かにヒロを見る。
バルドは残った力を振り絞るように口を開いた。
バルド「……八星だ」
アリアの身体がぴくりと震えた。
アリア「……っ」
ヒロ「八星……?」
ヒロには意味が分からなかった。
だが、アリアだけはその名に聞き覚えがあった。
王都の騎士たちの間で、ごく稀に囁かれる都市伝説。
王直属。
勅命でしか動かないと言われる、正体不明の八人。
存在を証明する者はおらず、ただの噂だと思われていた。
バルド「……行け」
たった一言。
それだけで十分だった。
アリアは唇を強く噛み締める。
目には涙が滲んでいた。
だが、それを拭う暇もない。
アリア「ヒロ」
震える声だった。
アリア「行くぞ」
ヒロは拳を握る。
爪が食い込むほど強く。
悔しい。
許せない。
今すぐ飛び出して、この連中を斬りたい。
今の自分では勝てない。
ここで死ねば団長の覚悟まで無駄になる。
ヒロ「……はい」
小さく頷く。
アリアは裏口へ続く廊下を指差した。
アリア「足音を立てるな」
アリア「工房まで走る」
ヒロは最後にもう一度だけバルドを見た。
既に意識はなかった。
そして二人は音を殺しながら裏口へ向かう。
館の正面では扉が開く音が響いた。
敵が戻ってきた。
その気配を背中に感じながら、ヒロとアリアは闇に包まれたミレイアの街へ走り出した。




