18話:帰還
ヒロが目を覚ましたとき、最初に見えたのは夕焼けに染まった空だった。
身体を起こそうとした瞬間、全身へ鋭い痛みが走る。
ヒロ「いっ……!」
アリア「動くな」
すぐ近くから声が聞こえた。
ヒロは顔だけを動かす。
焚き火の向こうに、アリアが座っていた。肩には包帯が巻かれ、頬や腕にも無数の傷が残っている。
普段の白銀の鎧はところどころへこみ、乾いた血で赤黒く汚れていた。
ヒロ「アリアさん……」
アリア「気がついたか」
ヒロ「蜘蛛は……?」
アリア「倒した」
ヒロ「そう、ですか……」
その答えを聞いた途端、張り詰めていたものが緩んだ。
最後の記憶は曖昧だった。
周囲を埋め尽くす蜘蛛。
傷ついたアリア。
胸の奥から噴き出した魔力。
そして、自分の声。
ヒロ「俺、何を……」
アリア「今は考えるな。魔力をほとんど使い果たしている」
アリアは火にかけていた器を持ち上げ、ヒロの前へ置いた。
アリア「食べられるか?」
中には薄いスープが入っていた。
腹は減っているはずなのに、匂いを嗅いでも食欲が湧かない。
それでも、このままでは動けない。
ヒロ「食べます」
震える手で器を受け取る。
アリアは何も言わず、その様子を見ていた。
彼女の傍らには、魔力蓄積石を入れた袋が置かれている。
あれだけの戦いを経ても、どうにか持ち帰ることができたらしい。
ヒロ「石……無事だったんですね」
アリア「ああ」
ヒロ「よかった……」
アリア「まったくよくない」
低い声に、ヒロは顔を上げた。
アリア「お前は自分が何をしたか分かっているのか?」
ヒロ「たぶん……重力魔法を使ったんだと思います」
アリア「それだけではない」
アリアは自分の手を見つめた。
アリア「あの時、私の身体へお前の魔力が流れ込んだ」
ヒロ「俺の魔力が?」
アリア「身体が軽くなり、力も速度も魔力も増した。あんな現象は聞いたことがない」
ヒロには覚えがなかった。
ただ、アリアを助けなければならないと思った。
それだけだ。
ヒロ「無意識だったみたいです」
アリア「だろうな」
アリアはしばらく黙り込んだあと、短く息を吐いた。
アリア「今は帰ることだけを考えろ。話は館へ戻ってからだ」
ヒロ「はい」
翌朝、二人はミレイアへ向けて出発した。
帰路は、来た時よりもずっと長く感じられた。
ヒロは魔力を使い果たした影響で、まともに馬へ乗っていることさえ難しかった。意識が遠のくたびに休み、傷口が開けば包帯を巻き直す。
アリアも万全ではなかった。
肩の傷は深く、左腕を動かすたびに顔をしかめていた。それでも、ヒロが馬から落ちそうになれば支え、夜になれば周囲を警戒しながら火を起こした。
森を抜ける。
荒れた街道を進む。
小さな村で水と食料を分けてもらい、再び馬を走らせる。
数日が過ぎる頃には、ヒロもどうにか自分で歩けるまで回復していた。
それでも、身体の奥には重い疲労が残っている。
魔力を使いすぎるというのは、単に疲れるのとは違った。
自分の中身をごっそりと削り取られたような感覚だった。
そして、鉱洞を出てから七日。
夕暮れの街道の先に、ミレイアの街並みが見えてきた。
ヒロ「……やっと帰ってきた」
思わず安堵の息が漏れる。
見慣れ始めた石造りの家々。
遠くに見える領主館。
あそこへ戻れば休める。
傷の手当ても受けられる。
何より、魔力蓄積石をギデオンとリゼットへ渡せる。
命を懸けて手に入れた石が、本当にトランシーバーを動かせるかもしれない。
そう考えると、重かった足もわずかに軽くなった。
だが、アリアは何も言わなかった。
馬上から街を見つめたまま、眉を寄せている。
ヒロ「どうしたんですか?」
アリア「……妙だ」
ヒロ「何がです?」
アリア「見張りが少なすぎる」
言われて、ヒロも周囲を見回した。
街道沿いに設けられた監視所には誰もいない。
普段なら夕方でも行商人や荷車が行き交っているはずなのに、今日は人影がほとんど見当たらなかった。
街へ入っても、その違和感は消えない。
店の扉は閉ざされている。
道を歩く人も少ない。
時折見かける住民も、何かを恐れるように足早に家へ入っていった。
ヒロ「何かあったんでしょうか」
アリア「分からない」
アリアは馬を急がせた。
二人が領主館へ着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
門の前まで来て、ヒロは違和感の正体に気づく。
誰もいない。
いつもなら門の両側に立っている衛兵がいなかった。
見張り台にも人影はない。
馬が一頭、繋がれたまま不安そうに鼻を鳴らしている。
ヒロ「交代の時間、とかじゃ……」
アリア「あり得ない」
アリアは馬から下りると、すぐに細剣を抜いた。
その動きに迷いはなかった。
アリア「ヒロ。私の後ろにいろ」
ヒロ「はい」
ヒロも腰の剣へ手をかける。
まだ傷は痛む。
戦える状態とは言い難い。
それでも、何も持たずに進むよりはましだった。
門は半開きになっていた。
アリアが手を触れると、重い軋みを立てながらゆっくりと開く。
庭にも人影はない。
荷車が横倒しになり、中身が地面へ散らばっている。
玄関へ続く石畳には、何かを引きずったような黒い跡が残っていた。
血だった。
ヒロ「……っ」
喉の奥が詰まる。
アリアの表情も険しくなる。
二人は足音を殺しながら、玄関へ近づいた。
扉はわずかに開いている。
アリアが壁へ背をつけ、剣先でゆっくりと押した。
暗い館内が姿を現す。
風が吹き抜け、どこかで扉が小さく揺れていた。
誰の声も聞こえない。
人の気配もない。
ただ、鉄に似た生臭い匂いだけが漂っている。
アリア「……行くぞ」
館へ足を踏み入れる。
玄関広間は荒れ果てていた。
椅子や机は倒され、花瓶は粉々に割れている。壁には剣で斬りつけた跡が残り、床には乾きかけた血が広がっていた。
戦いがあった。
それも、ほんの小さな争いではない。
ヒロ「みんな、どこに……」
声が震えた。
アリアは答えない。
細剣を構えたまま、廊下の奥へ進んでいく。
普段なら使用人たちが忙しく行き交っていた場所だ。
ヒロへ文字を教えてくれたソフィも、よくこの廊下を歩いていた。
笑いながら声をかけてくれた姿が脳裏をよぎる。
今は、その面影すらない。
廊下の壁には血が飛び散っていた。
床にも、いくつもの足跡が残っている。
その大半は赤黒く染まっていた。
アリアが足を止めた。
廊下の途中にある部屋の扉が、半分ほど開いている。
扉の下から、乾いた血が帯のように流れ出していた。
アリア「……そこにいろ」
ヒロ「でも」
アリア「動くな」
いつもより鋭い声だった。
アリアは一人で扉へ近づく。
細剣を前へ向けたまま、ゆっくりと部屋の中を覗き込んだ。
その瞬間。
アリアの身体が止まった。
息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
ヒロ「アリアさん?」
返事はない。
胸騒ぎに耐えられず、ヒロも扉へ近づいた。
アリア「見るな!」
制止は間に合わなかった。
部屋の中はひどく荒らされていた。
棚は倒れ、衣服や食器が床へ散乱している。
壁一面に赤い血が飛び散っていた。
ヒロ「ソフィさん……?」
部屋の中央に、見覚えのある服を着た身体が倒れていた。
けれど、その身体には首がなかった。
視線が、床の隅へ吸い寄せられる。
そこに転がっていたのは。
ソフィの首だった。
優しく笑っていたはずの顔。
文字を間違えるたび、困ったように笑っていた顔。
その瞳は虚ろに開かれたまま、何もない空間を見つめている。
ヒロ「……え」
頭が理解を拒んだ。
これは人形だ。
見間違いだ。
ソフィが、こんな姿になっているはずがない。
けれど、生臭い匂いも、床を染めた血も、すべてが現実だった。
ヒロ「うっ……!」
胃の奥から一気に何かが込み上げる。
ヒロは口元を押さえ、廊下へ飛び出した。
壁へ手をつき、その場へ膝をつく。
ヒロ「うぇっ……!」
食べたものを激しく吐き戻した。
呼吸ができない。
身体の震えが止まらない。
目から勝手に涙が溢れてくる。
アリアも、部屋の入口から動けずにいた。
普段なら、どんな状況でも真っ先に周囲を警戒するはずだった。
だが今だけは違った。
目を見開いたまま、ソフィの顔を見つめている。
アリア「……ソフィ」
かすれた声だった。
アリアは細剣を持っていない方の手を強く握った。
爪が掌へ食い込み、血が滲んでも力を緩めない。
アリア「……くそっ」
怒り。
悔しさ。
そして、自分たちが間に合わなかったという後悔。
そのすべてが、短い言葉へ滲んでいた。
ほんの数秒。
けれど、ヒロが見るのは初めてだった。
いつも冷静なアリアが、完全に判断を止めてしまう姿を。
やがてアリアは大きく息を吸い、まだ完全には消えていない動揺を押し殺し、細剣を握り直した。
アリア「まだ敵がいる可能性がある」
声はわずかに震えていた。
それでも、再び前へ進もうとしている。
アリア「ヒロ。私から離れるな」
ヒロは口元を拭い、震える足で立ち上がった。
ヒロ「……はい」
そのとき。
廊下のさらに奥から、微かな音が聞こえた。
何かが軋むような音。
そして、苦しげな呼吸。
アリアが顔を上げる。
アリア「……誰かいる」




