16話:蜘蛛の女王
ヒロは採取した魔力蓄積石の入った袋を強く握る。
ヒロ「これ、戦う数じゃないですよね」
アリア「ああ。撤退する」
アリアは細剣を構えたまま、一歩ずつ後ろへ下がる。
アリア「石は持ったな?」
ヒロ「はい」
アリア「絶対に落とすな。ここまで来た意味がなくなる」
ヒロ「この状況で言います?」
アリア「走るぞ」
次の瞬間、天井に張りついていた蜘蛛が一斉に動いた。
無数の脚が岩を叩き、洞窟内に不快な音が反響する。
アリア「今だ!」
二人は同時に駆け出した。
来た道を引き返し、狭い洞窟を全力で走る。
背後からは、地面を削るような音が追ってくる。
振り返る必要はなかった。
数が多い。
そして、速い。
ヒロ「めちゃくちゃ追ってきてます!」
アリア「前を見ろ!」
横穴から蜘蛛が一体飛び出した。
ヒロは反射的に剣を抜き、横薙ぎに振るう。
蜘蛛の脚へ剣が当たり、甲殻が砕けた。
体勢を崩した蜘蛛の頭部へ、アリアの細剣が突き刺さる。
青白い雷が弾け、蜘蛛の身体が大きく痙攣した。
アリア「止まるな!」
倒れた蜘蛛を飛び越え、さらに先へ進む。
洞窟の内部は暗く、足元には尖った石が転がっている。
少しでも踏み外せば、その瞬間に追いつかれる。
ヒロの呼吸はすぐに乱れ始めた。
それでも足を止めるわけにはいかない。
背後では、蜘蛛の群れが仲間の死骸を乗り越えながら迫っていた。
ヒロ「なんでこんなにいるんだよ!」
アリア「ユニークが周辺の個体を集めている可能性がある!」
ヒロ「そのユニークって、まだ見てないですよね!」
アリア「だから走れ!」
嫌な予感しかしなかった。
洞窟へ入った時、周辺に魔物の気配がなかった理由。
奥に蜘蛛ばかりが集まっていた理由。
すべてが、ひとつの強力な個体を中心に起きていたのだとしたら。
その時、前方に淡い光が見えた。
洞窟の出口だ。
ヒロ「出口!」
アリア「気を抜くな!」
あと少し。
外へ出れば、狭い洞窟の中よりは動きやすくなる。
アリアなら、追ってきた蜘蛛をまとめて雷魔法で焼き払えるかもしれない。
そんな希望が浮かんだ直後だった。
地面が、低く揺れた。
ズン。
天井から細かな砂が落ちてくる。
二人の足が止まった。
出口の光を塞ぐように、巨大な影がゆっくりと降りてきた。
最初に見えたのは、異様に長い脚だった。
普通の蜘蛛型魔物の倍以上。
節くれ立った八本の脚が岩壁へ突き刺さり、巨大な胴体を支えている。
腹部は不自然に膨れ、人間の顔のような模様が浮かんでいた。
苦しげに歪んだ目。
裂けたような口。
まるで何人もの人間が、腹の内側から外へ出ようとしているようだった。
頭部には赤い目が八つ並び、そのすべてがヒロとアリアを見下ろしている。
口元から伸びる牙の先では、黒紫色の液体が滴っていた。
ヒロ「……なんだよ、あれ」
見た瞬間に分かった。
さっきまで戦っていた蜘蛛とは違う。
生き物としての形そのものが、どこか壊れている。
巨大な蜘蛛が甲高い鳴き声を上げた。
耳を刺すような音が洞窟内へ響き渡る。
背後から追ってきていた蜘蛛たちが、一斉に動きを止めた。
そして、巨大な個体へ従うように身体を低くする。
アリア「蜘蛛型のユニークモンスター……」
アリアが細剣を構え直した。
ヒロは前と後ろを見比べる。
前には巨大なユニーク。
後ろには、数え切れない蜘蛛の群れ。
完全に挟まれていた。
ヒロ「どうします?」
アリア「私がユニークを抑える」
ヒロ「後ろは?」
アリア「お前がやれ」
ヒロ「さらっと無茶言いません?」
アリア「私が後ろを相手にすれば、あれを止められる者がいない」
反論できなかった。
アリアの目は、巨大な蜘蛛から一度も離れていない。
アリア「倒す必要はない。私がユニークを仕留めるまで持ちこたえろ」
ヒロ「それ、どれくらいですか」
アリア「分からん」
ヒロ「そこは格好よくすぐ終わらせるって言ってくださいよ」
アリア「善処する」
巨大な蜘蛛が前脚を持ち上げた。
アリア「来るぞ!」
鋭い脚が槍のように突き出される。
アリアはヒロを押し退け、自らも横へ跳んだ。
巨大な脚が二人の間に突き刺さり、石床が大きく砕ける。
その隙にアリアが走った。
細剣へ青白い雷を纏わせ、巨大な蜘蛛の前脚を斬りつける。
甲殻と剣がぶつかり、激しい火花が散った。
アリア「硬い……!」
浅い傷しか入っていない。
ユニークは前脚を横薙ぎに振るう。
アリアが身を屈めた頭上を、巨大な脚が風を裂いて通過した。
そのまま身体を回転させ、脚の関節へ細剣を突き込む。
アリア「雷穿!」
切っ先から雷が炸裂した。
蜘蛛の脚の一部が弾け飛び、黒い体液が岩壁へ飛び散る。
ユニークが怒り狂ったように鳴いた。
だが、倒れない。
残った脚で壁を蹴り、アリアへ向かって巨体を叩きつける。
アリアは寸前で飛び退いた。
その背後で、ヒロにも蜘蛛の群れが迫っていた。
ヒロ「こっちも来るよな!」
先頭の蜘蛛が跳ぶ。
ヒロは剣を両手で握り、横へ振り抜いた。
甲殻を叩く鈍い感触。
蜘蛛の身体が横へ弾かれ、壁へ激突する。
だが、倒し切れていない。
次の一体が足元へ噛みつこうとする。
ヒロは後ろへ跳び、蜘蛛の頭部へ剣を振り下ろした。
ヒロ「重くなれ!」
剣が当たる瞬間、蜘蛛の身体へ重力をかける。
甲殻が石床へ叩きつけられ、嫌な音を立てて割れた。
成功した。
訓練で覚えた重力操作を、実戦で初めてまともに当てられた。
だが喜ぶ暇はない。
右から二体。
天井から一体。
さらに奥からも、赤い目が次々と迫ってくる。
ヒロ「数が多すぎる!」
剣を振り、足を動かし、蜘蛛の牙を避ける。
一体を重くして動きを止め、その頭へ剣を叩き込む。
別の個体が吐いた糸を身体を捻ってかわす。
糸が背後の岩へ付着し、石を削り取った。
あれに捕まったら終わる。
ヒロは必死に動き続けた。
だが、洞窟は狭い。
徐々に逃げ場がなくなっていく。
剣を振る腕が重い。
息が続かない。
視界の端で、アリアとユニークの戦いが見えた。
アリアは速い。
巨大な脚の間を縫うように走り、細剣で関節を狙い続けている。
しかし、決定打には至らない。
ユニークの甲殻は異常なほど厚く、雷を受けてもすぐには倒れなかった。
さらに、腹部から白い糸を大量に吐き出す。
アリア「っ!」
アリアが横へ跳ぶ。
だが、避けた先を狙うように二本目の糸が放たれた。
白い糸が左腕へ絡みつく。
アリアの身体が強く引かれ、岩壁へ叩きつけられた。
ヒロ「アリアさん!」
アリア「見るな! 自分の敵に集中しろ!」
叫んだ直後、ユニークの脚がアリアの肩を薙いだ。
白銀の鎧が大きくへこみ、アリアの身体が地面を転がる。
肩口から血が流れた。
その姿を見た瞬間、ヒロの意識がわずかに逸れた。
足元から蜘蛛が飛びかかる。
ヒロ「しまっ……!」
牙が左腕へ食い込んだ。
焼けるような痛みが走る。
ヒロ「ぐっ!」
ヒロは蜘蛛を蹴り飛ばし、噛みつかれた腕を押さえた。
制服の袖が裂け、血が滲んでいる。
痛い。
指先が少し痺れる。
それでも、蜘蛛は待ってくれない。
正面から二体が迫り、背後では別の個体が牙を鳴らしている。
ヒロは剣を振るった。
一体の脚を折る。
もう一体へ重力をかける。
だが、焦りで制御が乱れた。
狙った蜘蛛ではなく、その手前の石床が沈み込む。
ヒロ「違う!」
蜘蛛の脚がヒロの脇腹を切り裂いた。
鋭い痛みとともに身体が弾かれ、地面へ転がる。
背中を強く打ち、息が止まった。
剣が手から離れ、遠くへ滑っていく。
起き上がろうとしても、腕に力が入らない。
視界が揺れる。
蜘蛛たちが、ゆっくりとヒロを囲んだ。
アリアも片膝をついていた。
左腕には糸が絡みつき、肩から血を流している。
その正面では、傷だらけのユニークが牙を鳴らしていた。
まだ倒れていない。
むしろ、怒りによってさらに凶暴になっているように見えた。
アリア「ヒロ……立て!」
立たなければ。
分かっている。
だが身体が動かない。
蜘蛛の群れが、少しずつ距離を詰めてくる。
牙が鳴る。
脚が石床を擦る。
耳障りな音が、洞窟中から押し寄せる。
逃げても逃げても増える。
倒しても倒しても終わらない。
ようやく見つけた石を持ち帰ることすらできない。
アリアは傷つき、自分は地面を這っている。
また守られるだけなのか。
また何もできずに終わるのか。
蜘蛛の一体が、ヒロへ向かって跳んだ。
その瞬間。
胸の奥で、何かが切れた。
ヒロ「……うざいって」
洞窟の空気が、沈んだ。




