15話:グラナ鉱洞
初めての実戦を終えた翌朝。
ヒロは、まだ薄暗い森の中で目を覚ました。
身体を起こした瞬間、昨夜の光景が頭に浮かぶ。
牙を剥いて飛びかかってきたブラックハウンド。
剣を振り下ろしたときの感触。
頬に飛んだ、生温かい血。
思い出しただけで、胃の奥がわずかに重くなる。
焚き火の跡では、アリアがすでに朝の支度を始めていた。
アリア「起きたか」
ヒロ「……はい」
ヒロは立ち上がり、昨夜使った剣へ視線を向けた。
刃はすでに綺麗に拭われている。
アリアが手入れしてくれたのだろう。
ヒロ「これ、ありがとうございます」
アリア「血を残せば刃が傷む」
ヒロ「そういう意味じゃなくて」
アリア「礼なら、次から自分で手入れを覚えろ」
ヒロ「はい」
短い返事をして、ヒロは剣を腰へ下げた。
昨夜の戦いを忘れることはできない。
けれど、立ち止まっているわけにもいかなかった。
朝食を済ませ、二人は再び馬へ乗った。
それから数日。
グラナ鉱洞へ向かう旅は続いた。
山道を進み。
浅い川を渡り。
風の強い丘を越える。
途中、小型の魔物と遭遇することもあった。
岩陰から飛び出してきた角兎は、アリアが細剣の一突きで仕留めた。
群れからはぐれたゴブリンが二体現れたときは、ヒロも戦った。
最初のように身体が完全に固まることはなかった。
それでも、剣を振るたびに怖さは残る。
アリアの助けを借りながら、どうにか一体を倒した。
夜になれば野営をした。
ヒロが簡単な料理を作り。
アリアが周囲を警戒し。
交代で見張りをする。
馬に乗ることにも、少しずつ慣れてきた。
初日は半日もしないうちに腰が痛くなっていたが、今では一日乗っていても耐えられる。
そうして旅を続けた六日目の昼。
二人は、山道の先に大きな岩山を見つけた。
緑の少ない灰色の山肌。
その中腹に、黒く口を開けた穴が見える。
周囲には崩れかけた木製の足場や、古い採掘道具が残されていた。
アリア「あれがグラナ鉱洞だ」
アリアは馬を止め、岩山を見上げた。
ヒロも隣で足を止める。
ヒロ「やっと着いた……」
思わず声が漏れた。
長かった。
ここへ来るために、剣を振った。
魔法を覚えた。
初めて魔物とも戦った。
そして今、ようやく目的の場所が目の前にある。
鞄の中には、動かないままのトランシーバーが入っている。
魔力蓄積石があれば、再び元の世界と繋がるかもしれない。
ヒロ「本当に、石があるんですよね」
アリア「記録では、この鉱洞から採掘されていた」
ヒロ「今も残ってるかは分からない、と」
アリア「そういうことだ」
アリアは馬から降り、周囲へ視線を巡らせた。
ヒロも続いて地面へ降りる。
鉱洞の入口までは、古い道が伸びていた。
かつては荷車が頻繁に行き来していたのだろう。
だが今は、雑草が生え、木の板も所々腐っている。
錆びた鉄の車輪。
横倒しになった荷台。
柄の折れたつるはし。
人がいた痕跡だけが、時間に取り残されていた。
ヒロ「静かですね」
アリア「ああ」
風が岩肌を撫でる音だけが聞こえる。
鳥の声もない。
虫の音すら、ほとんど聞こえなかった。
ヒロ「魔物の気配は?」
アリア「今のところは感じない」
ヒロ「それなら、少し安心ですね」
アリア「安心するには早い」
アリアは入口の周辺へ膝をつき、地面を確認する。
乾いた土の上には、いくつかの跡が残っていた。
アリア「何かが出入りしている」
ヒロ「足跡ですか?」
アリア「足跡というより、擦った跡だ」
ヒロも覗き込む。
地面には、細い溝のようなものが何本も伸びていた。
獣の足跡とは違う。
硬いものが地面を引っ掻いたような跡だった。
ヒロ「何の跡でしょう」
アリア「分からない」
アリアが立ち上がる。
アリア「馬はここへ繋ぐ。荷物は最低限にしろ」
ヒロ「全部持っていかないんですか?」
アリア「狭い場所で荷物が多ければ、動きを妨げる」
必要なものだけを鞄へ詰め直す。
水筒。
保存食。
薬。
採掘用の小さなつるはし。
そして、トランシーバー。
ヒロは腰の剣を確認した。
アリアは松明へ火をつけ、細剣を抜く。
アリア「中では私より前へ出るな」
ヒロ「分かりました」
アリア「勝手に離れるな」
ヒロ「分かってます」
アリア「何か見つけても、すぐ触るな」
ヒロ「子供じゃないんですから」
アリア「水浴びの件を考えると、信用できない」
ヒロ「それ、今言います?」
アリアは答えず、鉱洞の中へ足を踏み入れた。
ヒロも少し遅れて後を追う。
入口を抜けた瞬間、空気が変わった。
外よりも冷たい。
湿った土と石の匂いが鼻を突く。
松明の明かりは、数歩先までしか届かない。
奥は完全な闇に包まれていた。
水滴が天井から落ちる。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
小さな音が、洞窟の奥へ何度も反響する。
ヒロ「思ったより寒いですね」
アリア「声を落とせ」
ヒロ「すみません」
ヒロは声を潜めた。
二人分の足音が、やけに大きく響く。
少し進むと、壁に木の支柱が残されていた。
多くは腐り、一部は崩れ落ちている。
地面には古いレールのような溝が続いていた。
ヒロ「ここ、本当に鉱山だったんですね」
アリア「記録では、百人以上が働いていた時期もある」
ヒロ「それが今は誰もいない」
アリア「魔物が住み着けば、人は近づかなくなる」
しばらく進む。
道は緩やかに下っていた。
途中でいくつか分かれ道があったが、アリアは壁に残された古い印を確認しながら進んでいく。
ヒロ「道、分かるんですか?」
アリア「採掘場の地図を頭に入れてきた」
ヒロ「全部?」
アリア「必要な範囲だけだ」
ヒロ「十分すごいと思いますけど」
アリアは振り返らなかった。
だが、足取りがほんの少しだけ軽くなったように見えた。
さらに奥へ進んだとき。
ヒロは足元へ白いものが落ちていることに気づいた。
ヒロ「これ、何ですか?」
しゃがみ込み、触れようとする。
アリア「触るな」
低い声が飛んできた。
ヒロは手を止める。
地面に張りついていたのは、細い糸だった。
白く、わずかに光を反射している。
ヒロ「糸?」
アリア「魔物のものだ」
アリアは松明を持ち上げ、周囲を照らす。
よく見ると、壁にも天井にも同じ糸が張り巡らされていた。
太さはまちまちだ。
細いものもあれば、指ほどの太さがあるものもある。
ヒロ「蜘蛛……ですかね」
アリア「可能性は高い」
その瞬間。
上から、小さな石が落ちた。
ヒロは反射的に顔を上げる。
松明の明かりの向こう。
天井に、何かが張りついていた。
丸く膨らんだ腹。
節のある八本の脚。
人間よりも大きな身体。
無数の赤い目が、二人を見下ろしている。
ヒロ「うわっ……!」
蜘蛛型の魔物が、天井から飛び降りた。
アリア「下がれ!」
アリアがヒロを押し退ける。
直後。
蜘蛛の腹部から、白い糸が勢いよく吐き出された。
アリアは横へ跳ぶ。
糸は地面へ張りつき、石を覆った。
ヒロ「食らったら、まずいですよね」
アリア「見れば分かるだろう」
蜘蛛が脚を鳴らしながら迫る。
アリアが前へ出た。
細剣が閃く。
蜘蛛の前脚へ刃が走った。
硬い音が響く。
切れない。
アリア「外殻が硬い」
ヒロ「どうするんですか?」
アリア「関節を狙う」
蜘蛛が脚を振り下ろす。
アリアは身を翻し、攻撃を避ける。
狭い洞窟の中では、普段のように大きく動けない。
蜘蛛の脚が壁へ当たり、石片が飛び散った。
ヒロは剣を抜く。
だが、どこから攻撃すればいいのか分からない。
八本の脚が絶えず動き、近づく隙がない。
アリア「右へ回れ!」
ヒロ「はい!」
ヒロは蜘蛛の側面へ走る。
蜘蛛の赤い目がこちらへ向いた。
腹部が持ち上がる。
ヒロ「また糸!」
白い糸が飛んでくる。
ヒロは避けようとした。
だが、足元の石へつまずく。
体勢が崩れた。
糸が左腕へ絡みつく。
ヒロ「っ!」
強く引かれる。
身体が蜘蛛の方へ引き寄せられた。
剣を持つ右手で糸を斬ろうとする。
だが、刃が滑る。
ヒロ「切れない!」
蜘蛛が口元の牙を開く。
アリアが雷をまとわせた細剣を突き出した。
青白い光が蜘蛛の脚を貫く。
魔物が甲高い声を上げた。
アリア「ヒロ! 腕を引け!」
ヒロ「無理です!」
糸は強く張り、腕が動かない。
蜘蛛が再びヒロを引き寄せる。
このままでは噛みつかれる。
ヒロは糸を見た。
剣では切れない。
なら、別の方法を使うしかない。
重くする。
自分ではなく、糸を。
ヒロは左腕へ絡んだ糸へ意識を集中させた。
魔力を流す。
細い糸一本へ力を伝えるのは難しい。
だが、蜘蛛に引かれて強く張っている今なら、位置が分かる。
ヒロ「重く……なれ!」
糸がわずかに沈んだ。
蜘蛛がさらに引く。
だが、先ほどより動きが鈍い。
ヒロは魔力を流し続ける。
糸そのものの重さが増す。
張力に耐えきれず、壁へ貼りついていた部分が剥がれた。
蜘蛛の体勢が崩れる。
アリア「今だ!」
アリアが一気に踏み込んだ。
細剣が蜘蛛の脚の関節へ突き刺さる。
一本。
二本。
立て続けに切り落とす。
蜘蛛が横へ倒れた。
ヒロは重くした糸を地面へ落とし、左腕を引き抜く。
まだ完全には外れない。
だが、動くことはできる。
ヒロ「はあっ!」
ヒロは蜘蛛へ向かって走った。
残った脚が振り上げられる。
剣へ魔力を流す。
軽くする。
一瞬だけ、手の中の重さが消える。
振り下ろされた脚を避けながら、剣を横へ薙ぐ。
刃が関節へ入った。
硬い殻の隙間。
そこなら通る。
蜘蛛が身体を大きく震わせる。
アリア「頭部を狙え!」
ヒロは剣を構え直した。
赤い目がいくつもこちらを向いている。
気持ち悪い。
怖い。
それでも、止まらない。
蜘蛛が牙を剥く。
ヒロは正面から踏み込んだ。
ヒロ「うおおっ!」
剣を両手で握り、頭部へ突き刺す。
刃が赤い目の一つを貫いた。
蜘蛛が甲高い声を上げる。
身体が激しく暴れ、ヒロは剣ごと振り落とされそうになる。
アリアが反対側から細剣を突き込んだ。
雷が蜘蛛の身体を走る。
青白い光が洞窟を照らした。
蜘蛛の動きが止まる。
脚が力を失い、地面へ崩れ落ちた。
しばらくの間。
ヒロは剣を刺したまま動けなかった。
ヒロ「……倒した?」
アリア「ああ」
ヒロはゆっくり剣を引き抜いた。
粘ついた液体が刃へまとわりついている。
思わず顔をしかめる。
ヒロ「見た目も中身も気持ち悪いな……」
アリア「洞窟蜘蛛だ。糸と外殻が厄介だが、関節は脆い」
ヒロ「先に教えてほしかったです」
アリア「実物を見た方が覚える」
ヒロ「命がけで覚えたくないんですけど」
アリアは蜘蛛の死体を確認した。
腹部を細剣で切り開き、中から小さな黒い石を取り出す。
ヒロ「それは?」
アリア「魔石だ」
ヒロ「これも何かに使えるんですか?」
アリア「売れる。だが、今の目的ではない」
アリアは魔石を袋へ入れた。
ヒロは腕に残った糸を外す。
触ると粘り気があり、かなり丈夫だった。
ヒロ「重くしたら、壁から剥がれました」
アリア「糸自体へ魔法を使ったのか」
ヒロ「たぶん」
アリア「相変わらず、使い方が妙だな」
ヒロ「褒めてます?」
アリア「妙だと言った」
ヒロ「やっぱり違うか」
短い休憩を取り、二人は再び奥へ進んだ。
先ほどの蜘蛛が一体だけだったとは限らない。
アリアはこれまで以上に慎重になっていた。
松明を高く掲げ、天井や壁を何度も確認する。
ヒロも剣を抜いたまま歩いた。
糸は奥へ進むほど増えていく。
壁の隅。
天井の割れ目。
古い支柱の間。
白い糸が、複雑に絡み合っていた。
ヒロ「この辺、さっきの蜘蛛の縄張りなんですかね」
アリア「その可能性はある」
ヒロ「一体だけならいいですけど」
アリア「期待するな」
ヒロ「少しくらい安心させてくださいよ」
しばらく進むと、前方の壁が淡く光っていることに気づいた。
青白い光。
松明とは違う。
ヒロは足を止めた。
ヒロ「あれ……」
アリアも視線を向ける。
壁の一部に、透明な結晶が露出していた。
小さなものがいくつも集まり、内側から淡い光を放っている。
ヒロの胸が高鳴る。
ヒロ「まさか」
アリアが壁へ近づき、結晶を確認する。
指先を近づけると、光がわずかに強くなった。
アリア「魔力を蓄えている」
ヒロ「それって……」
アリア「ああ」
アリアは結晶から目を離さずに答えた。
アリア「魔力蓄積石だ」
ヒロは言葉を失った。
ようやく見つけた。
トランシーバーを動かせるかもしれない石。
元の世界へ繋がるかもしれない手がかり。
ヒロは鞄へ手を伸ばした。
ヒロ「これを持ち帰れば……」
そのとき。
かさり。
背後で音がした。
ヒロの手が止まる。
アリア「動くな」
低い声。
先ほどまでとは違う。
アリアがゆっくり松明を持ち上げる。
天井の暗闇に、赤い光が浮かんだ。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに、その隣にも。
壁の裂け目。
古い支柱の裏。
通ってきた道の奥。
次々と赤い目が灯っていく。
八本脚の影が、音もなく壁を這っていた。
先ほど倒したものと同じ大きさ。
それが何体もいる。
ヒロ「……嘘だろ」
かさかさという音が、洞窟全体から響いてくる。
一体。
二体。
三体。
数えきれない。
天井から白い糸が垂れ始める。
ヒロは剣を握り直した。
ヒロ「さっき、一体倒すだけでもあんなに苦労したのに……」
アリアが細剣を構える。
その視線は、無数の赤い目へ向けられていた。
アリア「……巣だ」
次の瞬間。
洞窟蜘蛛の群れが、一斉に動き出した。




