見えない傷
『たすけて』
その声が聞こえた瞬間。
クロエは思わず息を呑んだ。
昼休みの教室。
笑い声。
机を囲む生徒たち。
窓の外の青空。
全部いつも通りだった。
なのに。
一人だけ。
そのクラスメイトの影だけが、床へ黒く滲んでいる。
「……っ」
クロエの手が小さく震える。
隣でレイナが気づいた。
「聞こえた?」
クロエは小さく頷く。
「うん」
レイナもその方向を見る。
だが何も見えない。
見えるのは普通のクラスメイトだけ。
友達と話している。
笑っている。
どこにも異常はない。
「……本当に?」
「間違いない」
クロエは唇を噛む。
あの声は偽物じゃない。
確かに苦しんでいた。
でも。
本人は笑っている。
その違和感が不気味だった。
◇
放課後。
二人は教室へ残っていた。
他の生徒はほとんど帰っている。
夕陽だけが静かに差し込んでいた。
「……どうする」
レイナが聞く。
クロエは窓の外を見る。
グラウンドから運動部の声が聞こえる。
「分からない」
正直な答えだった。
話しかけるべきなのか。
放っておくべきなのか。
そもそも。
本当に影界が関係しているのかすら分からない。
「普通に相談乗るとか?」
レイナが言う。
「いきなり影がどうとか言うのはなし」
「それは分かってる」
クロエは苦笑した。
そんなこと言ったら変人扱いされる。
いや。
たぶん変人で済めばいい方だ。
「でも……」
クロエは少し迷う。
「助けてって聞こえたんだよ」
その言葉に。
レイナは少しだけ黙った。
聞こえてしまった以上、 クロエは無視できない。
それはもう分かっている。
「じゃあ」
レイナが言う。
「まずは普通に様子見」
「様子見?」
「一人で抱え込まない」
クロエを見る。
「約束したでしょ」
クロエは少しだけ目を丸くした。
それから。
「……うん」
小さく頷く。
◇
その日の帰り道。
夕焼けの空の下。
二人は並んで歩いていた。
「レイナ」
「ん?」
「ありがとう」
不意に言われて、レイナが首を傾げる。
「何が」
「止めなかったから」
クロエは前を向いたまま言う。
「昨日は止めてたじゃん」
「今も本当は止めたい」
レイナは苦笑する。
「でも」
そこで言葉を区切る。
「クロエが放っておけないのも知ってる」
クロエは少しだけ笑った。
風が吹く。
夕陽が長い影を作る。
その時だった。
クロエの視界の端で。
何かが動いた。
「……え」
反射的に振り返る。
誰もいない路地。
夕暮れ。
静かな住宅街。
でも。
一瞬だけ。
電柱の影の奥に。
赤い光が見えた気がした。
まるで。
目。
影界で見たあの赤い目に似た何か。
「クロエ?」
レイナの声で我に返る。
「どうした」
「……なんでもない」
そう答えた。
けれど。
胸のざわつきは消えなかった。
◇
その夜。
クロエはベッドの上で天井を見ていた。
眠れない。
最近また増えている。
こういう夜が。
静かな部屋。
時計の音。
薄暗い天井。
そして。
頭から離れない声。
『たすけて』
あの声は確実に強くなっていた。
最初よりも。
昨日よりも。
少しずつ。
まるで何かが近づいてくるみたいに。
クロエはゆっくり起き上がる。
窓の外を見る。
夜の街。
街灯。
静かな住宅街。
何もない。
はずだった。
だが。
向かいの家の塀へ伸びた影が。
ほんの一瞬だけ。
人の手のような形に見えた。
「……っ」
瞬きをする。
次の瞬間には元に戻っていた。
ただの影。
ただの夜。
それだけ。
でも。
クロエには分かってしまった。
これはまだ終わっていない。
以前閉じたはずの闇は。
どこかで静かに動き続けている。
そして。
その気配は少しずつ、 こちらへ近づいていた。
第21話を読んでいただきありがとうございました。
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それでは、また次話で。




