名前
白い天井だった。
ぼんやりと滲む視界の中、最初に見えたのは蛍光灯の光だった。
規則正しい電子音。
消毒液の匂い。
薄いカーテンが朝風に揺れている。
レイナは重たい瞼をゆっくり開いた。
「……ぅ」
喉が乾いていた。
身体も妙に重い。
まるで長い間、水の底に沈んでいたみたいだった。
ゆっくりと視線を動かす。
白い壁。
点滴。
窓から差し込む朝日。
そこでようやく、自分が病室にいることを理解した。
「……病院」
掠れた声で呟く。
その瞬間。
記憶が断片的に脳裏を過った。
黒い世界。
赤い目。
響く声。
誰かの悲鳴。
白い光。
伸ばされた手。
「――っ」
頭が痛む。
レイナは思わず額を押さえた。
夢。
そう思いたかった。
だが、胸の奥に残る感覚が、それを否定していた。
あれは夢じゃない。
確かに、あそこにいた。
その時だった。
「……起きた?」
静かな声。
レイナの呼吸が止まる。
窓際。
朝日を背に、一人の少女が立っていた。
黒髪。
制服姿。
細い指先がカーテンをそっと掴んでいる。
その姿を見た瞬間、レイナの胸が大きく揺れた。
「……っ」
少女は少し困ったように笑った。
「おはよ」
聞き慣れた声。
それだけで、張り詰めていた感情が一気に崩れる。
「……ばか」
気づけば涙が零れていた。
「ほんと、ばか……」
「え、なんで泣くの」
「泣くでしょ普通……!」
レイナは乱暴に目元を擦る。
少女は少し目を丸くしたあと、小さく笑った。
「そんな心配されてたんだ、私」
「当たり前じゃん……」
震える声。
生きてる。
本当に。
ちゃんとここにいる。
それだけで胸がいっぱいだった。
少女はゆっくりとベッドの横へ歩いてくる。
朝日が彼女の黒髪を淡く照らしていた。
けれどその姿は、どこか前より儚く見えた。
「身体、大丈夫?」
「……まだ重い」
「三日寝てたからね」
「……三日?」
レイナは目を瞬かせる。
「うそ」
「ほんと」
少女は椅子へ腰掛けた。
「急に倒れたから、みんなびっくりしてた」
「……そっか」
レイナは小さく息を吐く。
三日。
そんなに時間が経っていたのか。
妙に現実感が薄い。
まるで自分だけ、まだ夢の続きを見ているみたいだった。
病室には静かな朝の空気が流れていた。
遠くから看護師の足音が聞こえる。
窓の外では鳥が鳴いていた。
平和だった。
信じられないくらいに。
「……覚えてる?」
レイナはぽつりと呟く。
少女の表情が少しだけ静かになる。
「……うん」
短い返事。
それだけで十分だった。
全部、本当にあったんだ。
影界。
侵食。
白煌レイナ。
最後の光。
思い出そうとすると、胸の奥がじくりと痛む。
少女は窓の外を見ながら小さく言った。
「私、結局戻ってこれたんだね」
「戻したの」
レイナは即座に言い返す。
「勝手に消えようとしたから」
「ごめんって」
「軽い」
「厳しいなぁ」
少しだけ笑い声が混ざる。
そのやり取りが嬉しかった。
何気ない会話。
いつもの空気。
もう戻らないと思っていたもの。
レイナは胸の奥が熱くなるのを感じた。
だが同時に。
少女の横顔に、どこか影が差して見えた。
窓の外を見る目が遠い。
まるでまだ半分、別の場所にいるみたいだった。
「……ねぇ」
少女が静かに口を開く。
「私さ」
レイナは顔を上げる。
「もう普通じゃないと思う」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
少女は自分の胸元をぎゅっと掴む。
「まだ時々聞こえるんだ」
「声?」
「うん」
小さく頷く。
「苦しい、とか」
「消えたい、とか」
「助けて、とか」
レイナは何も言えなかった。
少女の声は穏やかなのに、どこか酷く疲れて聞こえた。
「前よりは小さいよ」
少女は苦笑する。
「でも、残ってる」
病室へ沈黙が落ちる。
カーテンが揺れる音だけが聞こえた。
レイナはゆっくりと少女を見る。
確かに前とは違う。
どこか危うくて、儚い。
でも。
だからこそ。
一人にしたくなかった。
「じゃあさ」
「?」
レイナは少し考えてから口を開く。
「名前、変えようよ」
「……は?」
少女が間抜けな声を出す。
「なんでそうなるの」
「だって、“普通じゃない”んでしょ」
「いや理屈が分からない」
「今までのあんたはさ」
レイナは静かに言う。
「ずっと一人で苦しんでた」
少女の瞳が揺れる。
「誰にも言えなくて」
「助け求めるのも下手で」
「勝手に抱え込んで」
「勝手に沈みかけてた」
「……否定できない」
「でしょ」
レイナは少し笑った。
「だから区切り」
「区切り?」
「うん」
朝日が差し込む。
白い光が病室を照らしていた。
「これからは、“戻ってくる側”の名前」
少女は少し黙る。
長い睫毛が伏せられる。
まるでその言葉を、ゆっくり噛み締めるみたいに。
「……変なの」
「そう?」
「レイナらしいけど」
レイナは少し考える。
黒髪の少女。
影。
闇。
それでも、ちゃんとこちらへ戻ってきた人。
そして。
朝日を浴びるその姿が、ほんの少し綺麗だと思った。
「――夕凪 クロエ」
少女が目を瞬かせる。
「夕凪 クロエ?」
「うん」
「なんで?」
「なんとなく」
「絶対今適当だった」
「うるさい」
少女――クロエは小さく吹き出した。
その笑い方が少しだけ自然で。
レイナは胸の奥が温かくなる。
「……クロエ」
彼女は自分の名前を確かめるように呟く。
「うん」
「今日から、あんたの名前」
クロエはしばらく黙っていた。
やがて。
本当に小さく笑う。
「……悪くないかも」
その笑顔を見た瞬間。
レイナは思った。
あぁ。
ちゃんと、戻ってきてくれたんだって。
窓の外では、春の風が静かに吹いていた。
はい。二章です。日常編だー!
今回はその導入です。ここから二人は日常に戻っていきます。
もし、“こういう展開がみたい!”って要望があれば連絡ください!なるべく書きます。
もし少しでも続きが気になったり、世界観が好きだと思っていただけたら、ブックマークや感想など頂けるととても励みになります。
それでは、また次話で。




