第九話 蓋のない茶器
——私は、議場の端から、彼女の背中を見た。
父王から、出席だけは許された。発言権はなかった。議事の進行に関わる権利も、議案に異議を唱える権利も、私には、もはや、残されていなかった。端の席に座り、眼前で父王が議題を読み上げるのを聞いた。
『国益のため、第二王子エドワードと、ノーラン公爵令嬢クラリス・フォン・ノーラン嬢との婚約を、議会の承認のもとに再締結し、クラリス嬢を、王太子妃候補として迎える件』
読み上げる父王の声に、迷いはなかった。
それは父王の声ではなかった。父王の背後で、母上が何日もかけて整えられたご意向が、議案の形になっている、と、私の耳には聞こえた。
私は席の上で動かなかった。
動けなかった、というほうが正しい。
母上が、私の廃嫡を避けるために、最後に打てる手を打たれようとしていることを、私はこの議案の形で、ようやく理解した。
私が望んだのではない。
望む資格も、もう、私には残っていないはずのものだった。
◇
議場の扉が開いたとき、王宮侍従の声が、静まり返った広間に響いた。
「ノーラン公爵令嬢、クラリス・フォン・ノーラン嬢、ご入場」
私は敷居をまたいだ。
白亜の床に、大理石の円柱。高い天井からは、金で縁取られた旗が、三方向に下がっていた。議員たちの座席は、中央に向かって段々に下がっていく形に組まれている。中央の、議員席に取り囲まれた低い床の上に、証言台があった。
証言台の前には、小さな台が置かれていた。
台の上に、銀の盆。盆の上に、茶器がひとつ。
茶器には、蓋が添えられていた。
私は台のほうへ歩いた。
歩きながら、視線を上げた。議員席の上段、客席にあたる位置には、各国大使の姿があった。ルエル公国の席に、ヴィクトル・フォン・エッセルの姿が見えた。彼は、目を伏せていた。伏せた目は、落ち着いていた。
証言台の前で、足を止めた。
茶器には、触れなかった。
蓋にも、触れなかった。
両手を、腹の前で、静かに重ねた。
「ノーラン公爵令嬢、クラリス・フォン・ノーラン」
司会の老議員が、私の名を繰り返した。
「陛下が本日、貴殿をお召しになった議題につきまして、ご意向を、この場でお聞かせ願いたく存じます」
「承知いたしました」
私はそれだけ答えた。
父王は、議長席で、私を見ていた。
母上は、議長席のすぐ下の、王族席に着席していた。装いは派手ではなかった。簡素だった。簡素を選ぶ衣装を、母上は、ご自身の誠意の表現として、今日のためにおととい頃から選ばれていたことだろう。
父王が、先ほどの議案を、私に向かって、改めて読み上げた。
読み上げる声は、先ほどよりも、わずかに低くなっていた。読み上げながら、父王もまた、この議案の据わりの悪さを、ご自身の中で量り直しておられるようだった。
読み上げが終わった。
議場は静まり返っていた。
議員たちの視線が、私の背中のあたりに集まっているのがわかった。
各国大使の席からも、視線があった。
私は顔を上げ、父王のほうを真っ直ぐに見た。
「謹んで、お答え申し上げます」
私はそう切り出した。
「さすがにこれは、お断りしたく存じます」
議場が、音を止めた。
紙をめくる音も、咳払いも、ざわめきも、一瞬のうちに、すべてが静まった。
私は続けた。
「理由を、三つ、申し上げます」
父王は、私を止めなかった。
母上も、止めなかった。
「一つ。王家は、私に対し、半年前の婚約破棄に伴う慰謝料を、いまだ、お支払いになっておられません。これは、公爵家の側の請求の怠りではなく、王家の側の不履行にございます。お支払いのない契約事項を持ったまま、新たな契約の締結をご提案いただくことは、公爵家の名誉において、お受けいたしかねます」
議員たちのあいだに、短い、鋭い視線の動きがあった。財務大臣の顔色が、一段、変わった。
「二つ。先ほど陛下がお読み上げになりました議案の中に、『国益のため』との文言がございました。その『国益』の内実に、私はいくらか、心当たりがございます。過去三年にわたり、私が自らの手で執筆いたしました領地改革案が、議会に筆者不明のままご採用いただき、数年にわたる税収増の基礎となっている旨、本日、この場にて、申し上げます。私が執筆した原本、草稿、および日付入りの筆写本は、ノーラン公爵家において、厳重に保管されております。王家よりご要請あらば、いつなりとも、議会にご提出させていただきます」
議場の空気が、動いた。
ざわめきではなかった。
息が、一斉に、吸い込まれた音だった。
「三つ。以上より、私の王家への奉公は、すでに終えた後のものでございます。しかも、終えたのちに、未精算のまま、お呼びいただいております。新たな奉公を受諾する以前に、すでに終えた奉公の精算を、正式な書面と、正式な手続きをもって、お済ませいただくことが、筋かと存じます」
私は一礼した。
「陛下の広いお心に、感謝申し上げます」
◇
議場の沈黙は、そのまま続いた。
父王は、手元の議案の紙を、机の上で、そっと、裏返した。
その所作の静けさで、父王がもはや、この議案を押し通すおつもりがないことを、議場全体が、理解した。
財務大臣が立ち上がった。
「陛下、発言、よろしゅうございましょうか」
「許す」
「ノーラン公爵令嬢の述べられた事項のうち、第二項目に関しましては、議会の事務局において、事実関係の確認を、本議題とは別に、早急に進めさせていただきたく存じます」
「許す」
財務大臣は一礼した。
腰を下ろす際、彼は一瞬、目を私のほうへ向けた。目のうちには、長いあいだ、公務の中で彼が抑えていたものの輪郭が、少しだけ、滲んでいた。彼は、かつて議場で、ロゼリアの改革案を絶賛した人だった。彼のご自身の中での始末を、彼は、ご自身でつけようとしておられるようだった。
議長席の父王は、私を見た。
「ノーラン嬢」
「はい」
「本日のご列席、感謝する」
「恐れ入ります」
「退出を、お許しする」
私は深く一礼し、ゆっくりと証言台の前を離れた。
離れる最後に、台の上の茶器に、目をやった。
茶器は、議場が静まり返った直後と、まったく同じ位置にあった。
蓋も、同じ位置にあった。
触れられなかった茶器は、私の退出のあとも、そこに置かれ続けるはずだった。
◇
議場を出て、回廊を歩いた。
長い回廊だった。議場の中で集中していた神経が、歩き出したとたんに、少しずつ、手足の末端のほうへほどけていった。足が少しだけ重くなった。気づかれないように、歩調を崩さぬまま、進んだ。
王城の正面の門を出た。
石段の下に、馬車の列が待っていた。
並んだ馬車のうちの一台のそばに、ヴィクトル・フォン・エッセルが立っていた。
私の父の馬車は、少し離れた場所に控えていた。父は、すでに議員席から先に退出し、執務の別件のために別の部屋に移られている、と、先ほど侍従が耳打ちしてくれていた。
「お疲れさまでございました」
ヴィクトルはそう言った。
「……」
「よろしければ、私の馬車で、離れまでお送りいたします」
私は彼の顔を見た。
彼は目を伏せていなかった。
「ご厚意、いただいてよろしいのですか」
「本日、あなたをお送りする権利は、この場におる者のうちで、私がもっとも離れておりました」
「……」
「ですから、お送りいたします」
理屈のようで、理屈ではなかった。
私は、理屈でないことのほうを、受け取ることにした。
ヴィクトルは馬車の扉を、自らの手で開けた。
段の上に、手が差し出された。
私は、その手を見た。
見たのち、迷わず、取った。
手のひらは、冷たくはなかった。外にいた時間のわりに、落ち着いた温度だった。
その温度を、私は、短い間だけ、受け取った。
そして、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まった。
ヴィクトルが向かい側に腰を下ろした。
馬車は、静かに動き出した。
並木道を走るあいだ、私たちはほとんど話さなかった。
窓の外、午後の光が、並木の葉のあいだから、馬車の中へ、ゆっくりと射し込んでいた。
馬車が離れの門の前に着いたとき、ヴィクトルはもう一度、扉を自らの手で開けた。
「本日は、ここで、失礼いたします」
彼はそう言った。
馬車の段を降りた私に、一礼し、自分は馬車には戻らずに、門の外の道のほうへ歩いていった。
彼の馬車は、彼を追い抜かずに、ゆっくりと、彼の歩みの後をついて進んでいった。
御者は、主人のそういう帰り方に、慣れているようだった。
◇
離れに戻った日の夕方、一通の書状が、王都の各国大使館を経由するかたちで、ノーラン公爵家に届いた。
封蝋は、ルエル公国の正式印。
文面は、形式通りの、重みのある言葉で、書かれていた。
ルエル公国は、
ヴェルネシア王国の、ノーラン公爵令嬢、
クラリス・フォン・ノーラン嬢を、
当国へ、正式にお迎えする用意がございます。
書状の最後に、短い一行が添えられていた。
お答えは、ご都合のよいときに。
お待ちは、ルエル公国の側に、ございます。
添え書きは、ヴィクトル本人のものではなかった。ルエル公国の外務を司る高官の署名だった。
けれども、添え書きの『お待ちは、ルエル公国の側に、ございます』という言い回しが、彼の声の低さに、よく似ていた。
私は書状を、机の上に置いた。
並べ直した書類は、昨晩と同じままだった。
その書類の一番上に、ヴィクトルの朝の紙片が、そのまま載っていた。
『お好きなように、お答えください』。
昨晩の紙片と、夕方の書状とは、同じ机の上で、同じ意味のことを、別の格と別の呼吸で、言っていた。
私は窓辺に寄り、庭を見た。
陽は傾き、木立の影が、離れの石壁のほうへ、ゆっくりと延びていた。
蓋のない紅茶のカップが、今朝から、そのままの位置にあった。




