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さすがにこれは、お断りしたく存じます  作者: 九葉(くずは)


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第九話 蓋のない茶器

——私は、議場の端から、彼女の背中を見た。


父王から、出席だけは許された。発言権はなかった。議事の進行に関わる権利も、議案に異議を唱える権利も、私には、もはや、残されていなかった。端の席に座り、眼前で父王が議題を読み上げるのを聞いた。


『国益のため、第二王子エドワードと、ノーラン公爵令嬢クラリス・フォン・ノーラン嬢との婚約を、議会の承認のもとに再締結し、クラリス嬢を、王太子妃候補として迎える件』


読み上げる父王の声に、迷いはなかった。

それは父王の声ではなかった。父王の背後で、母上が何日もかけて整えられたご意向が、議案の形になっている、と、私の耳には聞こえた。


私は席の上で動かなかった。

動けなかった、というほうが正しい。

母上が、私の廃嫡を避けるために、最後に打てる手を打たれようとしていることを、私はこの議案の形で、ようやく理解した。

私が望んだのではない。

望む資格も、もう、私には残っていないはずのものだった。



議場の扉が開いたとき、王宮侍従の声が、静まり返った広間に響いた。


「ノーラン公爵令嬢、クラリス・フォン・ノーラン嬢、ご入場」


私は敷居をまたいだ。

白亜の床に、大理石の円柱。高い天井からは、金で縁取られた旗が、三方向に下がっていた。議員たちの座席は、中央に向かって段々に下がっていく形に組まれている。中央の、議員席に取り囲まれた低い床の上に、証言台があった。

証言台の前には、小さな台が置かれていた。

台の上に、銀の盆。盆の上に、茶器がひとつ。

茶器には、蓋が添えられていた。


私は台のほうへ歩いた。

歩きながら、視線を上げた。議員席の上段、客席にあたる位置には、各国大使の姿があった。ルエル公国の席に、ヴィクトル・フォン・エッセルの姿が見えた。彼は、目を伏せていた。伏せた目は、落ち着いていた。


証言台の前で、足を止めた。

茶器には、触れなかった。

蓋にも、触れなかった。

両手を、腹の前で、静かに重ねた。


「ノーラン公爵令嬢、クラリス・フォン・ノーラン」


司会の老議員が、私の名を繰り返した。


「陛下が本日、貴殿をお召しになった議題につきまして、ご意向を、この場でお聞かせ願いたく存じます」


「承知いたしました」


私はそれだけ答えた。


父王は、議長席で、私を見ていた。

母上は、議長席のすぐ下の、王族席に着席していた。装いは派手ではなかった。簡素だった。簡素を選ぶ衣装を、母上は、ご自身の誠意の表現として、今日のためにおととい頃から選ばれていたことだろう。


父王が、先ほどの議案を、私に向かって、改めて読み上げた。

読み上げる声は、先ほどよりも、わずかに低くなっていた。読み上げながら、父王もまた、この議案の据わりの悪さを、ご自身の中で量り直しておられるようだった。


読み上げが終わった。


議場は静まり返っていた。

議員たちの視線が、私の背中のあたりに集まっているのがわかった。

各国大使の席からも、視線があった。

私は顔を上げ、父王のほうを真っ直ぐに見た。


「謹んで、お答え申し上げます」


私はそう切り出した。


「さすがにこれは、お断りしたく存じます」


議場が、音を止めた。

紙をめくる音も、咳払いも、ざわめきも、一瞬のうちに、すべてが静まった。


私は続けた。


「理由を、三つ、申し上げます」


父王は、私を止めなかった。

母上も、止めなかった。


「一つ。王家は、私に対し、半年前の婚約破棄に伴う慰謝料を、いまだ、お支払いになっておられません。これは、公爵家の側の請求の怠りではなく、王家の側の不履行にございます。お支払いのない契約事項を持ったまま、新たな契約の締結をご提案いただくことは、公爵家の名誉において、お受けいたしかねます」


議員たちのあいだに、短い、鋭い視線の動きがあった。財務大臣の顔色が、一段、変わった。


「二つ。先ほど陛下がお読み上げになりました議案の中に、『国益のため』との文言がございました。その『国益』の内実に、私はいくらか、心当たりがございます。過去三年にわたり、私が自らの手で執筆いたしました領地改革案が、議会に筆者不明のままご採用いただき、数年にわたる税収増の基礎となっている旨、本日、この場にて、申し上げます。私が執筆した原本、草稿、および日付入りの筆写本は、ノーラン公爵家において、厳重に保管されております。王家よりご要請あらば、いつなりとも、議会にご提出させていただきます」


議場の空気が、動いた。

ざわめきではなかった。

息が、一斉に、吸い込まれた音だった。


「三つ。以上より、私の王家への奉公は、すでに終えた後のものでございます。しかも、終えたのちに、未精算のまま、お呼びいただいております。新たな奉公を受諾する以前に、すでに終えた奉公の精算を、正式な書面と、正式な手続きをもって、お済ませいただくことが、筋かと存じます」


私は一礼した。


「陛下の広いお心に、感謝申し上げます」



議場の沈黙は、そのまま続いた。

父王は、手元の議案の紙を、机の上で、そっと、裏返した。

その所作の静けさで、父王がもはや、この議案を押し通すおつもりがないことを、議場全体が、理解した。


財務大臣が立ち上がった。


「陛下、発言、よろしゅうございましょうか」


「許す」


「ノーラン公爵令嬢の述べられた事項のうち、第二項目に関しましては、議会の事務局において、事実関係の確認を、本議題とは別に、早急に進めさせていただきたく存じます」


「許す」


財務大臣は一礼した。

腰を下ろす際、彼は一瞬、目を私のほうへ向けた。目のうちには、長いあいだ、公務の中で彼が抑えていたものの輪郭が、少しだけ、滲んでいた。彼は、かつて議場で、ロゼリアの改革案を絶賛した人だった。彼のご自身の中での始末を、彼は、ご自身でつけようとしておられるようだった。


議長席の父王は、私を見た。


「ノーラン嬢」


「はい」


「本日のご列席、感謝する」


「恐れ入ります」


「退出を、お許しする」


私は深く一礼し、ゆっくりと証言台の前を離れた。


離れる最後に、台の上の茶器に、目をやった。

茶器は、議場が静まり返った直後と、まったく同じ位置にあった。

蓋も、同じ位置にあった。

触れられなかった茶器は、私の退出のあとも、そこに置かれ続けるはずだった。



議場を出て、回廊を歩いた。

長い回廊だった。議場の中で集中していた神経が、歩き出したとたんに、少しずつ、手足の末端のほうへほどけていった。足が少しだけ重くなった。気づかれないように、歩調を崩さぬまま、進んだ。


王城の正面の門を出た。

石段の下に、馬車の列が待っていた。

並んだ馬車のうちの一台のそばに、ヴィクトル・フォン・エッセルが立っていた。

私の父の馬車は、少し離れた場所に控えていた。父は、すでに議員席から先に退出し、執務の別件のために別の部屋に移られている、と、先ほど侍従が耳打ちしてくれていた。


「お疲れさまでございました」


ヴィクトルはそう言った。


「……」


「よろしければ、私の馬車で、離れまでお送りいたします」


私は彼の顔を見た。

彼は目を伏せていなかった。


「ご厚意、いただいてよろしいのですか」


「本日、あなたをお送りする権利は、この場におる者のうちで、私がもっとも離れておりました」


「……」


「ですから、お送りいたします」


理屈のようで、理屈ではなかった。

私は、理屈でないことのほうを、受け取ることにした。


ヴィクトルは馬車の扉を、自らの手で開けた。

段の上に、手が差し出された。


私は、その手を見た。

見たのち、迷わず、取った。

手のひらは、冷たくはなかった。外にいた時間のわりに、落ち着いた温度だった。

その温度を、私は、短い間だけ、受け取った。

そして、馬車に乗り込んだ。


扉が閉まった。

ヴィクトルが向かい側に腰を下ろした。

馬車は、静かに動き出した。


並木道を走るあいだ、私たちはほとんど話さなかった。

窓の外、午後の光が、並木の葉のあいだから、馬車の中へ、ゆっくりと射し込んでいた。


馬車が離れの門の前に着いたとき、ヴィクトルはもう一度、扉を自らの手で開けた。


「本日は、ここで、失礼いたします」


彼はそう言った。

馬車の段を降りた私に、一礼し、自分は馬車には戻らずに、門の外の道のほうへ歩いていった。

彼の馬車は、彼を追い抜かずに、ゆっくりと、彼の歩みの後をついて進んでいった。

御者は、主人のそういう帰り方に、慣れているようだった。



離れに戻った日の夕方、一通の書状が、王都の各国大使館を経由するかたちで、ノーラン公爵家に届いた。


封蝋は、ルエル公国の正式印。

文面は、形式通りの、重みのある言葉で、書かれていた。


   ルエル公国は、

   ヴェルネシア王国の、ノーラン公爵令嬢、

   クラリス・フォン・ノーラン嬢を、

   当国へ、正式にお迎えする用意がございます。


書状の最後に、短い一行が添えられていた。


   お答えは、ご都合のよいときに。

   お待ちは、ルエル公国の側に、ございます。


添え書きは、ヴィクトル本人のものではなかった。ルエル公国の外務を司る高官の署名だった。

けれども、添え書きの『お待ちは、ルエル公国の側に、ございます』という言い回しが、彼の声の低さに、よく似ていた。


私は書状を、机の上に置いた。

並べ直した書類は、昨晩と同じままだった。

その書類の一番上に、ヴィクトルの朝の紙片が、そのまま載っていた。

『お好きなように、お答えください』。


昨晩の紙片と、夕方の書状とは、同じ机の上で、同じ意味のことを、別の格と別の呼吸で、言っていた。


私は窓辺に寄り、庭を見た。

陽は傾き、木立の影が、離れの石壁のほうへ、ゆっくりと延びていた。

蓋のない紅茶のカップが、今朝から、そのままの位置にあった。

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