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さすがにこれは、お断りしたく存じます  作者: 九葉(くずは)


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第十話 蓋のない朝

雪が、しんしんと降っていた。


ルエル公国、エッセル公爵邸の庭は、ヴェルネシア王都の庭とはつくりが違っていた。石の積み方にも、木の植え方にも、どこか素朴な曲線が残されていた。庭の中ほどに、小さな四阿が設けられていて、屋根の下に白木の卓と椅子が据えられている。この朝、その卓に、紅茶がふたつ、出されていた。


私は椅子に腰を下ろしていた。

向かい側に、ヴィクトル・フォン・エッセルが、同じように腰を下ろしていた。

卓の上の茶器には、どちらにも、蓋はなかった。

四阿の外では、雪が、木々の葉の上に、音もなく積もり続けていた。



ヴィクトルは、自分の茶器を、まだ持ち上げていなかった。

私も、持ち上げていなかった。

二人の茶碗から、湯気が、ゆっくりと昇っていた。湯気は四阿の屋根の下で、少しのあいだ留まり、それから、庭の冷えた空気のほうへ、静かに逃げていった。


「寒さは、厳しくはございませんか」


彼が訊いた。


「慣れぬ寒さでございますが、嫌いではございませんわ」


「それなら、よろしゅうございます」


私たちの言葉は、それほど多くはなかった。

多くある必要も、もう、なかった。


クラリスという名を、ヴィクトルは、初めて口にした。

ヴェルネシア王国を出てから、幾日かが経っていた。

名を呼ばれたのは、この朝が、最初だった。


「クラリス様」


「はい」


「こちらの国では、茶器に蓋を載せる作法は、ございません」


「存じております」


「載せなくて、よろしいのです」


「はい」


彼は、そう言って、ふと、手を動かした。

卓の脇の銀の皿に、小さな蓋が置かれていた。こちらの国の作法にはないその蓋を、彼は、私のために、わざわざ取り寄せておいたのだった。

ヴィクトルは、その蓋を指先でつまんだ。私の茶器の口のあたりに、一度、載せかけた。そして、載せずに、銀の皿の上へ、そっと戻した。


「ここでは、蓋はいりません」


彼はそう言った。


「はい」


私は、うなずいた。

茶器の口は、蓋のないまま、湯気を昇らせ続けていた。

私は、初めて、自分の手で、茶碗を持ち上げた。

口に含んだ紅茶は、ルエル公国東岸の、あの茶葉だった。

もう、産地を問うこともなかった。


ヴィクトルも、自分の茶碗を取り上げた。

私たちは、同じ茶葉の紅茶を、同じ朝に、並んで飲んだ。



庭の奥の小径のほうから、話し声がかすかに聞こえた。

振り返ると、マデリンが、ヴィクトルの従者ユハンと、並んで歩いていた。

マデリンは、この国に来てから、咳が少しずつ減っていた。ユハンが、彼女の薬草のために、庭の片隅に小さな畝を用意してくれていた。マデリンは、その畝の世話の仕方を、ユハンに教えている様子だった。ユハンの相槌は、こまごまとしていて、素直だった。

二人の背中を、私はしばらく目で追った。

ヴィクトルも、同じ方向を見ていた。彼の口元に、ごくかすかな笑みが、落ちていた。笑み、と呼ぶには、控えめすぎる動きではあったけれど。


「マデリンは、こちらの暮らしに、すぐに馴染みましたわね」


「本人に、その用意が、おありだったのでございましょう」


「ええ」


「ユハンが、あの者に、世話をかけております」


「いえ。マデリンのほうが、お世話になっております」


私たちは、そのあたりのことで、小さく微笑んだ。

微笑みを、どちらが先に崩したかは、はっきりとは覚えていない。

崩さないまま、しばらく、庭の雪を眺めた。



ヴェルネシア王国の離宮では、この朝、殿下が、いつもの時刻に庭に出ていた。


離宮の庭には、王城の庭のような装飾はない。季節の花と、石畳と、鳥の水場があるだけだった。殿下は、庭の石のひとつに腰を下ろし、膝の上に一冊の革の表紙の冊子を置いていた。

冊子は、かつてクラリスが殿下に手渡した、あの習作論文だった。

殿下は、その冊子を、毎朝、この庭で読み返していた。

冊子はもう、隅のほうが擦れかけていた。

それでも殿下は、頁を繰り続けていた。


議会の審議で、殿下の王位継承権は、失われていた。廃嫡という重い語は、慎重に避けられた。代わりに『王位継承権の、静かな剥奪』という言い回しが選ばれた。王家は、王家の面子のため、殿下を表舞台から遠ざけることに、静かに同意した。

殿下は、抗わなかった。

殿下には、抗う根拠が、もう、何も残されていなかった。


殿下は、このごろ、新しい論文の下書きを始めていた。

下書きの紙の束は、離宮の執務机に、几帳面に揃えて置かれていた。題目は、『諸州関税における一貫性について、ひとつの補論』。

かつてクラリスが書き上げた改革案への、殿下自身の、小さな応答だった。

発表の予定はなかった。

発表するあてがあるかどうか、殿下は、まだ、ご自身でも決めかねていた。


庭の鳥の水場に、小さな鳥が降りてきた。

殿下は、冊子から目を上げ、鳥のほうを見た。

鳥は水を飲み、羽を振り、すぐに飛び立った。

殿下の膝の上の冊子は、開いたままだった。

頁のいちばん下に、クラリスの筆跡で、短い一節があった。


『人は、自分の価値を、自分で決めるべきです』


殿下は、その一節を、この朝も、低い声で読み直した。



ヴェルネシア王国の北の国境に向かう街道を、一台の馬車が走っていた。

馬車の中には、ロゼリア男爵令嬢が、一人だった。

彼女の身柄は、詐欺集団との関わりの件で、ヴェルネシア王国の司法によって、国外追放の処分を受けていた。執行には、王妃陛下のご意向も、最後まで影響しなかった。

馬車の座席は、薄い布張りで、長旅に向いているものではなかった。

ロゼリア嬢は、膝の上に手を置いたまま、窓の外を見ていた。


馬車が王都を離れてからのしばらく、彼女は、集団の者たちが迎えに来てくれるはずだ、と、どこかで信じ続けていた。

街道を半日も走ったころ、彼女は、その考えを、ようやく、手放した。

集団の者たちは、来なかった。

誰も、来なかった。


彼女の膝の上の両手は、握りしめられるでもなく、ほどけるでもなく、ただ、置かれていた。

窓の外、ヴェルネシア王都の白い尖塔が、遠ざかっていった。

遠ざかるにつれ、彼女は、自分がかつて『家族』だと信じていたものの輪郭を、窓ガラス越しに、ゆっくりと、見直していた。

愛されていた、と、信じていた。

その信は、もはや、ロゼリア嬢のどこにも、残っていなかった。


馬車は走り続けた。

御者は、うしろに座る者の心のことは、何も知らなかった。



ルエル公国、エッセル公爵邸の執務室に、机の上に置かれた古い書面があった。


それは、半年以上前、ヴィクトルが、ヴェルネシア王家の第二王子からクラリス宛に出された書面の余白に、ひとことを書き添えたときの、その書面の控えだった。


  本件、エッセル公爵の後見下にて処理されたし。


その一行は、いまも、控えの余白に、細い黒で記されていた。

執務机の主は、この日の朝、部屋を訪れていた。

彼は、その一行の下に、ひとつだけ、新しい文字を書き足した。

書き足したのは、私信だった。誰にも読ませる予定のないものだった。

それでも、彼はその一行を、書き足しておきたかった。


  この一行を書くまでに、長い時間がかかりました。


字は、細く、黒く、飾りがなかった。

彼はペンを置き、机の引き出しを静かに閉じた。

部屋を出るとき、扉を閉める所作は、彼の他のどんな所作とも同じ、控えめなものだった。



四阿の茶会は、長くはかからなかった。

紅茶は、熱いうちに、きちんと飲み切られた。

庭の雪は、私たちが席を立つ頃にも、静かに、降り続いていた。


「クラリス様」


「はい」


「本日、昼からは、市参事官への短いご挨拶がございます。お疲れでなければ、ですが」


「大丈夫でございますわ」


「それから、明日は、少し遠くまで馬車で出てみましょう」


「どちらへ」


「茶葉畑のほうへ」


「……嬉しゅうございます」


「本日、夕刻には、お戻りになります」


「はい」


私たちは、四阿を降りた。

庭の小径を、屋敷のほうへ向かって、ゆっくりと歩いた。

マデリンとユハンの姿は、薬草の畝のほうで、まだ続いていた。

ヴィクトルは、庭の途中で、一度、立ち止まった。


「クラリス様」


「はい」


「この国には、あなたの人生を、他人のものにしようとする者は、おりません」


「存じております」


「それだけを、お伝えしたく存じました」


彼はそう言った。

彼の辞書には、いまも、『愛する』という語は置かれていないのかもしれなかった。

置かれていなくてよかった、と、私はふと、思った。

置かれていない言葉の代わりに、彼は、置かれている言葉のほうを、丁寧に、私の前に並べてくれていた。



屋敷の玄関まで、私たちは、黙ったまま歩いた。

玄関の段を上がる私の手に、ヴィクトルの手が、今朝初めて、軽く添えられた。

段の一段を、二人で、ゆっくりと上がった。

扉のところで、彼は手を離した。

扉の中に入るとき、私は、彼をもう一度見た。

彼は、目を伏せなかった。

伏せないまま、うなずいた。


屋敷の中は、薪の火の匂いがした。

廊下の奥の窓から、庭の雪が、まだ、見えていた。


蓋は、もう、どこにも、いらなかった。

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