第八話 一人で見上げる夜
——彼女が書いた論文を、私はとうとう最後まで読んだ。
議場で読み上げられた改革案の原文を、もう一度、机の上に広げた。ロゼリアのものとされたその原文の筆致は、私の記憶の中の、クラリスの手のそれと、もはや区別がつかなかった。
私は立ち上がり、執務室の奥の書棚へ向かった。ずっと以前、クラリスが『殿下に、学問の進み方を見ていただきたくて』と微笑みながら手渡してきた、彼女自身の習作論文があった。革の表紙の薄い冊子。私はそれを当時、軽く目を通したと思い込んでいた。目を通した、と、自分の中で処理していた。
夜のあいだ、蝋燭の下で、私はその冊子を最初から最後まで読んだ。
頁を繰る指が、だんだん重くなっていった。
最終頁に、短い一段落があった。
『人は、自分の価値を、自分で決めるべきです。他者の評価に依存した価値は、他者に奪われる』
私は、その一文の前で、動けなくなった。
半年前の広間で、私が誰に何を奪ったつもりでいたのか。
奪えると信じていた男の傲慢の輪郭が、ようやく、私自身の前に姿を現した。
◇
議会の前夜、離れの応接間の机には、いつもより多くの紙が並べられていた。
過去に私が書いた書類の控え。殿下宛に送った手紙の写し。改革案の草稿と、日付入りの筆写本。領地の経済指標をまとめた帳面の綴り。机の上に、時系列で並べ直した。
明日の議場で、私がなぜ呼ばれるのかは、わからなかった。わからないからこそ、呼ばれる自分のこれまでのすべてを、もう一度、自分の目の前に並べてみたかった。
蝋燭の炎が、紙の端でかすかに揺れていた。
窓は閉じられていて、夜の冷気は部屋の中までは入ってこなかった。けれども、床の石からは、昼には感じない冷たさが、脚のほうへ立ち昇ってきていた。
マデリンが、湯の入った陶器を持って、廊下からやってきた。
「奥様。お茶を淹れ直しますか」
「いいえ。湯だけで結構よ。ありがとう」
「少し、お休みくださいませ」
「あと、しばらくだけ」
マデリンは湯を机の脇に置き、何か言いかけて、言わなかった。
代わりに、短く一礼して、灯りの位置を私の手元に近い側へ、少しだけ動かしてから、下がっていった。
書類の並びが整うのには、時間がかかった。
帳面の綴りの中には、私が当時、殿下と並んで目を通したことのある数字も含まれていた。あの頃、私が数字の誤りを指摘すると、彼は『よく気がつく』と、笑ってくれたこともあった。
そのときの笑顔を、私はいまでも、正確に思い出せた。
思い出すことと、受け入れることとは、別のことだった。
◇
紙の並びは、やがて、整った。
私は椅子から立ち上がった。首と肩に、自分でも気づかないほどの硬さが溜まっていた。
窓辺に寄り、布越しに庭を見下ろした。
離れの門の向こう、並木道の街灯のあたりに、黒塗りの馬車が停まっていた。
そして、その馬車の脇に、人影がひとつ、立っていた。
背の高い人だった。
暗い色の外套。
街灯の光の円の縁に、彼の姿は、半分だけ掛かっていた。残り半分は、夜の影の中にあった。
彼は離れのほうを見上げていた。
馬車の中に戻るでもなく、呼び鈴を鳴らすでもなく、玄関に近づくでもなかった。
ただ、立ち、見上げていた。
私は窓辺から動かなかった。
彼が私の姿に気づいたかは、わからなかった。窓に薄いカーテンの布が掛かっていて、こちらからは、彼の視線の正確な向かう先までは、確かめられなかった。
気づいていた、と、思いたかった。それでも、気づいていてほしいと願うこと自体が、私の側の弱さだった。
庭の木の枝が、夜風にわずかに揺れた。
街灯の光も、一瞬、揺れた。
彼の輪郭は、揺れる光の中でも揺れなかった。
しばらくのあいだ、私たちはそうしていた。
彼は、立ち続けた。
私は、立ち続けた。
やがて、彼は、外套の前を軽く合わせるような動作をして、馬車のほうへ歩いていった。
馬車の扉が開き、閉まる。
御者台に短く声をかける気配があった。
馬車はゆっくりと動き出し、並木道の奥へ、静かに去っていった。
私は窓辺に立ったまま、馬車の蹄の音が完全に聞こえなくなるまで、動かなかった。
窓辺から離れて、机のほうへ戻った。
書類は、先刻と同じ並びのまま、整っていた。
けれども、それを並べた自分の手の温度が、少しだけ、違っていた。
私は改めて、椅子に腰を下ろした。
湯の入った陶器に、手を触れてみた。
マデリンが運んできてくれた湯は、まだ、ほんのりと温かかった。
◇
朝、マデリンが封書を持ってきた。
封蝋は深い紫。
「エッセル公爵閣下から、先ほど、お使いの方が」
「ええ」
私は封を解いた。
中には、短い文章が記されていた。
お好きなように、お答えください。
私はあなたのお答えを、あなたのお答えとして、
受け取ります。
ヴィクトル・フォン・エッセル
それだけだった。
私はその紙片を、しばらく眺めた。
彼は昨夜、私に何かを求めに来たのではなかった。
何も求めない、ということを伝えに来たのだ。
馬車の扉を開けず、呼び鈴も鳴らさず、ただ立ち、ただ見上げ、去っていったのは、私の意思を、彼自身の望みよりも先に置くためだった。
『お好きなように』の一行は、彼のゆうべの立ち姿を、文字にしたものだった。
私はその紙片を、机の上の、書類の一番上に置いた。
それから、マデリンを呼び、身支度を整えると告げた。
◇
議会の開会時刻までに、私は装いを整え、マデリンを伴って馬車に乗り込んだ。
本邸で父は、すでに先に馬車で出ていた。
馬車の中で、私は膝の上に両手を置いていた。
ふと、気づいた。
今朝、私は、紅茶のカップに手を伸ばしていなかった。
蓋のあるなしを考える間もなく、朝食の時刻が過ぎていた。
いつもの朝の習慣を、今朝、私は省いていた。
「奥様」
マデリンが、静かに言った。
「なに」
「膝の上の、お手でございますが」
「……」
「指が、お揃いでいらっしゃいますわ。いつもより、丁寧に」
彼女はそう言って、目を伏せた。
私は膝の上の両手を見た。
指は確かに、いつもより、ぴったりと揃えられていた。
無意識だった。
無意識に、形を整えていた。
私は両手を、もう一度、膝の上の自然な位置に戻した。
それから、小さく息を吐いた。
窓の外、王都の並木道が、朝の光の中を流れていた。
白亜議会の白い尖塔が、並木の向こうに、見え始めていた。




