第七話 強制されません
王妃マルガの声は、慈母のそれだった。
私はそれが、よく練習された声であることを、腰を下ろす前から察していた。
彼女が本当に慈母であったことのある相手は、実の息子である殿下の他に、私は思い当たらなかった。
◇
馬車の窓から見える王都の並木道は、離れから王宮まで、ほとんど一直線に続いている。
私はマデリンと向かい合って座っていた。マデリンは膝の上に両手を重ねて置いていた。膝の上の指の間隔を、彼女はときおり、わずかに動かして直していた。気を張っているときの、彼女の小さな癖だった。
「奥様」
「なに」
「ご気分は、いかがですか」
「普段通りよ」
「……はい」
彼女はそれ以上、何も尋ねなかった。
王妃陛下からの私信への返信は、短いものにしていた。『お時間をいただきますこと、畏れ多く存じます。指定の日時に、お伺いいたします』。それだけだった。余計なことは、何も書き添えなかった。
王宮の東門が近づいてきた。
御者が、馬の速度を落とし始めた。
◇
案内された部屋は、王宮の奥にある、小さな茶室の趣きの部屋だった。壁は薄い色の絹布で覆われている。窓からは、王宮の中庭の、手入れされた緑が見えた。
王妃マルガは、先に部屋にいた。
「クラリス嬢」
「王妃陛下にお目にかかり、光栄に存じます」
「そんな、お固くなさらないで。どうぞ、おかけになって」
王妃の所作は、やわらかかった。やわらかさを、幼い頃から身につけてきた人のやわらかさだった。
紅茶が、女官によって、私たちの前に置かれた。
「今日は、お詫びを申し上げたくて、あなたをお呼びしましたのよ」
王妃はそう切り出した。
私は、微笑むかたちに、口元を動かした。
「息子のしたことは、母として、胸が痛みます。半年前のあの日のことは、母親の私が出ていくべきことではありませんでしたが……あの子の判断が、感情に流されていたことは、いまでは、私もわかっております」
「……」
「あなたを、傷つけてしまいましたわね」
「傷、という言葉は、いささか、過分に思われます」
「あら」
「私はただ、あの日、殿下のお言葉に、お答えをいたしました。お答えを申し上げた以上のことは、していないかと存じます」
王妃は紅茶のカップに指を触れていた。触れたまま、持ち上げなかった。
「あなたは、変わらないのね」
「私が、半年前と変わっておりましたら、殿下の判断が正しかったことになってしまいます」
「……」
王妃は微笑を崩さなかった。崩さないまま、紅茶のカップから指を離した。
「母として、お願いがあるのです」
彼女は、柔らかく続けた。
「あの子の今後のために、あなたに、社交界で、ひとこと、ふたこと、言っていただきたいの。あなたは、もう、あの子を恨んではいない、と。寛容な心を、あなたは、お持ちになっている、と」
ここが、この面会の本体だった。
王妃のお詫びは、ここへ導くための、入り口にすぎなかった。
「陛下」
「はい」
「お詫びは、公の場で、公の書面でなさるべきものと存じます」
私はそう言った。
声は、高くなかった。
「私信にて、母としてのお詫びをいただきました。母としてのお詫びに対しては、一私人として、ありがたく、受け取らせていただきます」
「……」
「ただし、それを社交界に広めさせる役目は、私のものではございません。殿下の名誉の修復は、殿下ご自身と、王家のご判断のもとで、お進めいただくべきものかと存じます」
王妃の微笑は、そのままだった。
ただ、紅茶のカップに、再び指が伸びた。
今度はカップそのものに触れなかった。カップの横の、銀の皿に置かれた、小さな蓋のほうに、指先が触れた。
触れた、だけだった。載せは、しなかった。
私はそれを、目の端で見ていた。
王妃は、この場で、蓋を載せる権利を、自らに認めていなかった。自らに認められるだけの立場を、自らが持ち合わせていないということを、彼女は、指先が触れた段階で、悟ったのだろう。
「そう」
「ご配慮、痛み入ります」
「わかりました」
「恐れ入ります」
王妃はそれ以上、お詫びも、お願いも、口にしなかった。
面会は、そこで終わった。
◇
茶室を辞し、回廊を歩いた。
マデリンが、すこし後ろを、静かについてきた。
王宮の回廊は、長かった。床の石はよく磨かれていて、自分の靴音が、いつもより鮮明に耳に返ってきた。
途中、すれ違った女官が、私に会釈をし、マデリンに会釈をし、通り過ぎた。女官の視線は、わずかに、私の顔に長く止まった。
彼女が何を見ていたのかは、わからなかった。見ていた、ということだけは、わかった。
東門のほうへ向かう、最後の角を曲がった。
そこに、男がひとり、立っていた。
◇
ヴィクトル・フォン・エッセルだった。
彼は、私が現れるのを待っていた。
「お疲れさまでございました」
彼は短く、そう言った。
「お呼びしたわけではございませんが」
「存じております」
彼は軽く頭を下げた。
「外の並木道まで、お供してもよろしいでしょうか」
「……どうぞ」
私たちは並んで歩き出した。マデリンは距離を置いて、後ろからついてきた。
回廊の終わりから、外の庭の日差しが射していた。石畳は乾いていた。
「ヴィクトル様」
「はい」
「なぜ、ここへ」
「王宮の廊下に、知己の者がおります。今朝、王妃陛下の私信の件を耳にいたしまして、出口のあたりで、お待ちしておりました」
私は歩みを、少しだけ緩めた。
「招かれて、ではないのでしょう」
「私用での王宮出入りは、外交官には、自由にございます」
彼はそう言った。
自由、という言葉は、彼の口から出るときに、すこしだけ違った響きを持った。
私たちは、庭園の端の、小さな石の門の手前まで歩いた。門の向こうには、王宮の外の並木道があった。
ヴィクトルはそこで立ち止まった。
私も立ち止まった。
「余計なことを、申し上げてもよろしいでしょうか」
「はい」
「私の国では、そのような面会は、強制されません」
彼はゆっくりと、そう言った。
目は、石畳の上に伏せられていた。
「お詫びの名目の面会も、社交界での証言のご依頼も、王家からの令嬢への、こうしたかたちでの呼び出しも」
「……」
「私の国では、そもそも、そういう慣習が成立しにくくなっております。立ち上げるに至らなかった、と申し上げるほうが、正確かもしれません」
彼はそう付け加えた。
私は石畳の継ぎ目を、しばらく見ていた。
彼が口にしたのは、余計なことではなかった。
彼は、私がもし別の国に身を置く選択をするならば、今日のような面会に向き合わずに済む、と、そう言っていた。
そう言っていた。
そのことを、彼は一度も、『守りたい』という語にはしなかった。
彼の辞書には、そういう語は置かれていないらしかった。
置かれていないらしい、ということを、私は彼の声の低さのあたりで理解した。
「……ご厚意に、感謝いたします」
私はそう答えた。
「本日は、お役目、ご苦労さまでございました」
ヴィクトルはそう言って、軽く頭を下げた。
彼は馬車には戻らなかった。王宮の別の門から徒歩で出ていく姿が、ちらりと見えた。
歩き方に、迷いはなかった。
私はマデリンを伴って、馬車に乗り込んだ。
◇
離れに戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
応接間の机の上に、マデリンが、郵便物を揃えて置いていた。
見慣れない封書が、ひとつ混ざっていた。
封蝋は王家の赤。ただし、先日の王妃の私信の封とは、蝋の押し方が違った。こちらのほうが、より正式で、硬い押し方だった。
封を解いた。
中は、厚い紙だった。
ヴェルネシア王立議会
ノーラン公爵令嬢 クラリス・フォン・ノーラン様へ
来る審議日、王城・白亜議会の間において、
王家に関する重要議題が、審議されます。
つきましては、ご列席賜りたく、
ここにご通知申し上げます。
私はその書面を、もう一度、読んだ。
『証言者としてのご列席と、解してよろしいのでしょうか』
私は書面に、心の中で尋ねかけた。
書面は、答えてくれなかった。
書面はただ、『ご列席を賜りたし』と、それだけを記していた。
その夕方、父からも、本邸の執事を通して、短い知らせが届いた。
殿下が、王位継承権剥奪の候補として、議会の内々のご審議にかけられることが決まった。
陛下のご意向は、まだ最終段階ではない。
私は、窓辺の椅子に戻り、外を見た。
庭の木立の向こう、本邸の屋根に、夕方の日差しがゆっくりと降りていた。
蓋のない紅茶のカップが、手元で冷えていくまでのあいだ、私は何の言葉も、思いつかなかった。




