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さすがにこれは、お断りしたく存じます  作者: 九葉(くずは)


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第六話 知っています

——彼女の筆跡を、最後に見たのはいつだっただろう。


ロゼリアが、かつて私に見せたことのある手紙がある。『クラリスが最後に殿下宛に書いたものを、手違いで私のところへ届いてしまった』と、彼女はそう言った。差出人の署名は、確かにクラリスのそれに似ていた。冷たく突き放した内容で、私はそれを読んで、彼女の心の離れ方を確信した。

信じたのだ。


いま、私はその手紙の写しを、机の引き出しから取り出している。

その隣に、議会で採用された改革案の写しを並べた。

改革案の筆跡は、ロゼリアのものだ、と、彼女は言っていた。

この二枚は、ほとんど同じ手による。

ただし、私の記憶の中のクラリスの筆跡は、改革案のほうに、もっと近い。

ロゼリアから受け取った『クラリスの手紙』のほうは、少し違う。少し、丁寧すぎる。少し、練習の跡が見える。


——練習。

その言葉を、私は自分の脳裏に浮かべた。

そして、急いで振り払った。

誰のことを考えている。

考えるべきではない。私は、もう、考える資格のない男だ。


けれども、手紙を引き出しに戻す指先が、どうしても震えていた。



マデリンが朝方に咳込むのを、私は、近頃、ときおり耳にしていた。


本人は何も言わなかった。自分の体のことを口に出す癖が、彼女にはないのだった。ただ、咳の乾き方が、普段の風邪のそれとは違うように思えた。それとなく薬を勧めたことも、以前にあったけれど、田舎で使っていた民間の薬草でなければ体に合わない、と、彼女は控えめに答えた。


「そちらの薬草は、この王都にはないの」


「市場の表のほうでは、お見かけしたことがございません。裏手の、職人通りの奥に、昔からの薬草商がひとつございまして、そちらでなら、ときおり」


「私が、お使いに行きましょう」


「奥様が、そのようなこと」


「貴女の体のことだもの」


マデリンは目を伏せた。

強くは言い返さなかった。断れば、私がより強く出ることを、彼女は知っていた。



街の表通りを馬車で抜け、職人通りの奥まで、徒歩で入った。

御者には待つように伝えた。通りの幅が、馬車を通すには狭かった。


薬草商は小さな店だった。店先には乾いた葉が束になって吊るされている。窓越しに、奥の机で帳面を書く店主の姿が見えた。

扉を押すと、草の、少し苦い匂いが漂ってきた。


店主は顔を上げ、私を見て、軽く目を細めた。名を聞かれなかった。それが、この種の店の礼儀のようでもあった。

マデリンから書き付けでもらった薬草の名を、そのまま伝えた。店主はうなずきながら、奥の棚へ消えていった。



店を出たところで、声をかけられた。


「あら」


明るく、可憐な声だった。

私は顔を上げた。


職人通りのこの奥までは、めったに人の通らない場所だ。その通りの反対側から、若い女性が供を連れて歩いてきていた。

薄い桃色のドレス。髪は緩やかに編まれ、宝石ではない小さな生花が、編み込みに挿してある。

顔に見覚えがあった。社交界の広間で、遠くから見たことのある顔だった。


「ロゼリア、でございますわね」


私は静かに、相手の名を口にした。

ロゼリア嬢の表情の下で、一瞬、何かが強張るのが見えた。それから、微笑が戻された。


「クラリス様でいらっしゃいますか」


「ええ」


「こちらで、お会いするとは、思いませんでしたわ」


「私も」


彼女の目が、瞬きの合間に、私のうしろのほうへ流れた。薬草商の店先のほうへ、それから、通りの奥、私の来た方向へ。何かを測るような目の動きだった。


「街の、このあたりに、お店がおありなのですね」


「ええ。古くからある、良いお店でございますわ」


「まあ、そうなのですね」


会話は、そこまでで止まった。

止めたのは、私ではなかった。

ロゼリア嬢の微笑がほんのわずかに崩れかけたとき、供の者が小声で何かを告げた。彼女はかすかにうなずいた。


「では、失礼を」


「ええ」


彼女は、供と共に、元来た道を戻っていった。

薄い桃色のドレスの裾が、石畳の上を、すすと滑った。

足元の動きに迷いはなかった。行き先が、初めから決まっていたような歩き方だった。


職人通りの奥に、彼女のような装いの令嬢が訪ねる用事は、私には思い当たらなかった。



薬草を受け取り、代金を支払い、店を出た。

馬車のほうへ戻る途中、通りの端で、しばし立ち止まった。

ロゼリア嬢が戻っていった方向を、しばらく見た。

何が気になったのかは、自分でも、はっきりとは言えなかった。


馬車に乗り、離れへ向かう道に入った。

並木道の途中で、私は窓の外を、後ろに向かって覗いた。

私の乗る馬車から少し距離を置いて、黒塗りの馬車が、同じ方向へゆっくりと進んでいた。

屋根の下に、銀色の紋章が時折光る。

Vを斜めに交わらせた意匠。


馬車は、早すぎもせず、遅すぎもせず、一定の距離を保ったまま、私の馬車の後ろについてきていた。



離れに着いたとき、黒塗りの馬車は、並木道の先で止まっていた。

私が御者に礼を言い、玄関のほうへ歩き出そうとしたとき、マデリンが早足で玄関から出てきた。


「奥様」


「どうしたの」


「エッセル公爵閣下が……応接間に」


マデリンの声は、驚きを隠しきれていなかった。


「お通ししたの」


「お通しいたしました。閣下が、お戻りをお待ちになる、と、そう仰せでしたので」


私はうなずいた。

薬草の包みを、マデリンに渡した。


「それ、貴女の分ですから。下がって、休んでいて」


「ですが、お茶を」


「紅茶は、お客様のぶんと、私のぶん。それから、蓋は、出さなくて結構よ」


マデリンは、今度は、言葉を呑まなかった。


「かしこまりました」



応接間に入ると、ヴィクトル・フォン・エッセルは、窓辺の、陶器の花入れの前に立っていた。

花入れの中の薔薇は、そろそろ、花弁の端が淡く薄い色に移り始めていた。

彼は薔薇の様子を、じっと見ているようだった。


「お待たせいたしました」


彼は振り返った。


「突然お邪魔して、失礼いたしました」


「構いませんわ」


私は椅子を勧めた。彼は、今回は、勧められてから腰を下ろした。


マデリンが紅茶を運んできた。盆の上には茶碗がふたつ。蓋は出ていなかった。

ヴィクトルは、茶碗を置く所作を、目だけで追った。

マデリンは一礼して、下がっていった。


「本日、お話したいことが、ございます」


ヴィクトルは、前置きなく、そう切り出した。


「はい」


「ロゼリア嬢と、ある集団との関係について、私の国の情報部が、資料を取りまとめました」


私は、茶碗に伸ばしかけていた手を、いったん止めた。


「その集団は、いわゆる詐欺集団の一種でございまして、隣国数ヵ国の王族資産を標的にしてきた経歴がございます。ロゼリア嬢との関わりは、彼女が男爵家のご令嬢であった頃から、続いているもののようでございます」


彼の口調は、淡々としていた。


「……」


「この件は、本日、私より、正式に、ヴェルネシア王家の上層部へご報告いたしました」


「……」


「お父上のノーラン公爵閣下にも、同じ資料の写しをお届けしてございます」


私は茶碗から指を離した。


「なぜ、私に」


私は尋ねた。


ヴィクトルは、しばらく目を伏せた。

それから静かに言った。


「あなたの筆跡を模倣した書簡が、ルエル公国の使節団にも渡っておりました」


「……」


「模倣された書簡の内容は、あなたが、ご自身の婚約者に対する不満と、国政への不満を、隣国の王族に宛てて綴ったもの、という体裁でございました。そのまま流通しておりましたら、あなたは、ヴェルネシア王家への不忠の疑いを、負っておられたかもしれません」


「……」


「その書簡の出所を私の国の情報部が辿ったところ、ある集団に行き着き、その集団の資金の流れの一部から、ロゼリア嬢に行き着きました」


私は、しばらく、何も言わなかった。


「知っていらっしゃったのですか」


やがて、私はそう尋ねた。


「知っています」


彼は短く答えた。


「いつから」


「あなたが、殿下の断罪を受けられた夜からでございます」


私は、息を止めた。


「その夜、私は偶然、王宮の広間に、客分として招かれておりました。あなたのお顔を、あの場で見ました。カップに蓋を載せた、あの所作を」


彼は目を上げなかった。


「あれは、私が、自国で生き延びてきた時の仕草に、似ておりました。似ている、と気づいたときから、私は、あなたを、見ていました」


応接間に、沈黙が落ちた。

紅茶の湯気が、茶碗の縁から、まっすぐに昇っていた。


「お守りするのは、私の国の利益にも、かなっております」


彼はそう言い添えた。

そう言い添えることで、彼は、自分が私を守る行為を、公務の形に収めようとしていた。

私は、それを否定しなかった。

否定する権利も、必要も、まだ、私の側にはなかった。


「……ありがとうございます」


私はそう答えた。

声は低かった。



ヴィクトルは、それ以上を語らず、茶をきちんと飲み干して、席を立った。

応接間を出るとき、彼は、花入れの薔薇をもう一度、目で確かめた。

それから、私に、短く一礼した。


馬車の音が、離れの門を越えて、並木道の向こうへ、ゆっくりと遠ざかっていった。


応接間に、一人になった。

私は窓辺に寄り、花入れの薔薇を、同じ角度から見てみた。

彼が見ていた角度は、ちょうど、花弁の色が変わりつつある位置を、真正面に捉える角度だった。

見送られる時期に入った花の、ひそかな変化を、彼は、黙って見ていたのだ。



夕方、王宮の紋章の入った封書が届いた。

封蝋は、王家の赤。

マデリンが盆で運んできた。


「お届けものでございます」


「どちらから」


「……王妃陛下からの、お使いでございました」


私は封を解いた。

中には、短い私信があった。


   近いうちに、あなたとお茶をいただきたく思っております。

   形式ばらず、二人きりで。

   王妃 マルガ


私はその文字を、しばらく眺めた。


『息子の過ちを、詫びたい』。

私は頭の中で、勝手にそう続けた。

そう続けなければ、この短い私信の行間を読む手がかりが、私にはなかった。


それが、私の誤読であるかどうか。

確かめる日が、どうやら、近く訪れることになっていた。

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