第六話 知っています
——彼女の筆跡を、最後に見たのはいつだっただろう。
ロゼリアが、かつて私に見せたことのある手紙がある。『クラリスが最後に殿下宛に書いたものを、手違いで私のところへ届いてしまった』と、彼女はそう言った。差出人の署名は、確かにクラリスのそれに似ていた。冷たく突き放した内容で、私はそれを読んで、彼女の心の離れ方を確信した。
信じたのだ。
いま、私はその手紙の写しを、机の引き出しから取り出している。
その隣に、議会で採用された改革案の写しを並べた。
改革案の筆跡は、ロゼリアのものだ、と、彼女は言っていた。
この二枚は、ほとんど同じ手による。
ただし、私の記憶の中のクラリスの筆跡は、改革案のほうに、もっと近い。
ロゼリアから受け取った『クラリスの手紙』のほうは、少し違う。少し、丁寧すぎる。少し、練習の跡が見える。
——練習。
その言葉を、私は自分の脳裏に浮かべた。
そして、急いで振り払った。
誰のことを考えている。
考えるべきではない。私は、もう、考える資格のない男だ。
けれども、手紙を引き出しに戻す指先が、どうしても震えていた。
◇
マデリンが朝方に咳込むのを、私は、近頃、ときおり耳にしていた。
本人は何も言わなかった。自分の体のことを口に出す癖が、彼女にはないのだった。ただ、咳の乾き方が、普段の風邪のそれとは違うように思えた。それとなく薬を勧めたことも、以前にあったけれど、田舎で使っていた民間の薬草でなければ体に合わない、と、彼女は控えめに答えた。
「そちらの薬草は、この王都にはないの」
「市場の表のほうでは、お見かけしたことがございません。裏手の、職人通りの奥に、昔からの薬草商がひとつございまして、そちらでなら、ときおり」
「私が、お使いに行きましょう」
「奥様が、そのようなこと」
「貴女の体のことだもの」
マデリンは目を伏せた。
強くは言い返さなかった。断れば、私がより強く出ることを、彼女は知っていた。
◇
街の表通りを馬車で抜け、職人通りの奥まで、徒歩で入った。
御者には待つように伝えた。通りの幅が、馬車を通すには狭かった。
薬草商は小さな店だった。店先には乾いた葉が束になって吊るされている。窓越しに、奥の机で帳面を書く店主の姿が見えた。
扉を押すと、草の、少し苦い匂いが漂ってきた。
店主は顔を上げ、私を見て、軽く目を細めた。名を聞かれなかった。それが、この種の店の礼儀のようでもあった。
マデリンから書き付けでもらった薬草の名を、そのまま伝えた。店主はうなずきながら、奥の棚へ消えていった。
◇
店を出たところで、声をかけられた。
「あら」
明るく、可憐な声だった。
私は顔を上げた。
職人通りのこの奥までは、めったに人の通らない場所だ。その通りの反対側から、若い女性が供を連れて歩いてきていた。
薄い桃色のドレス。髪は緩やかに編まれ、宝石ではない小さな生花が、編み込みに挿してある。
顔に見覚えがあった。社交界の広間で、遠くから見たことのある顔だった。
「ロゼリア、でございますわね」
私は静かに、相手の名を口にした。
ロゼリア嬢の表情の下で、一瞬、何かが強張るのが見えた。それから、微笑が戻された。
「クラリス様でいらっしゃいますか」
「ええ」
「こちらで、お会いするとは、思いませんでしたわ」
「私も」
彼女の目が、瞬きの合間に、私のうしろのほうへ流れた。薬草商の店先のほうへ、それから、通りの奥、私の来た方向へ。何かを測るような目の動きだった。
「街の、このあたりに、お店がおありなのですね」
「ええ。古くからある、良いお店でございますわ」
「まあ、そうなのですね」
会話は、そこまでで止まった。
止めたのは、私ではなかった。
ロゼリア嬢の微笑がほんのわずかに崩れかけたとき、供の者が小声で何かを告げた。彼女はかすかにうなずいた。
「では、失礼を」
「ええ」
彼女は、供と共に、元来た道を戻っていった。
薄い桃色のドレスの裾が、石畳の上を、すすと滑った。
足元の動きに迷いはなかった。行き先が、初めから決まっていたような歩き方だった。
職人通りの奥に、彼女のような装いの令嬢が訪ねる用事は、私には思い当たらなかった。
◇
薬草を受け取り、代金を支払い、店を出た。
馬車のほうへ戻る途中、通りの端で、しばし立ち止まった。
ロゼリア嬢が戻っていった方向を、しばらく見た。
何が気になったのかは、自分でも、はっきりとは言えなかった。
馬車に乗り、離れへ向かう道に入った。
並木道の途中で、私は窓の外を、後ろに向かって覗いた。
私の乗る馬車から少し距離を置いて、黒塗りの馬車が、同じ方向へゆっくりと進んでいた。
屋根の下に、銀色の紋章が時折光る。
Vを斜めに交わらせた意匠。
馬車は、早すぎもせず、遅すぎもせず、一定の距離を保ったまま、私の馬車の後ろについてきていた。
◇
離れに着いたとき、黒塗りの馬車は、並木道の先で止まっていた。
私が御者に礼を言い、玄関のほうへ歩き出そうとしたとき、マデリンが早足で玄関から出てきた。
「奥様」
「どうしたの」
「エッセル公爵閣下が……応接間に」
マデリンの声は、驚きを隠しきれていなかった。
「お通ししたの」
「お通しいたしました。閣下が、お戻りをお待ちになる、と、そう仰せでしたので」
私はうなずいた。
薬草の包みを、マデリンに渡した。
「それ、貴女の分ですから。下がって、休んでいて」
「ですが、お茶を」
「紅茶は、お客様のぶんと、私のぶん。それから、蓋は、出さなくて結構よ」
マデリンは、今度は、言葉を呑まなかった。
「かしこまりました」
◇
応接間に入ると、ヴィクトル・フォン・エッセルは、窓辺の、陶器の花入れの前に立っていた。
花入れの中の薔薇は、そろそろ、花弁の端が淡く薄い色に移り始めていた。
彼は薔薇の様子を、じっと見ているようだった。
「お待たせいたしました」
彼は振り返った。
「突然お邪魔して、失礼いたしました」
「構いませんわ」
私は椅子を勧めた。彼は、今回は、勧められてから腰を下ろした。
マデリンが紅茶を運んできた。盆の上には茶碗がふたつ。蓋は出ていなかった。
ヴィクトルは、茶碗を置く所作を、目だけで追った。
マデリンは一礼して、下がっていった。
「本日、お話したいことが、ございます」
ヴィクトルは、前置きなく、そう切り出した。
「はい」
「ロゼリア嬢と、ある集団との関係について、私の国の情報部が、資料を取りまとめました」
私は、茶碗に伸ばしかけていた手を、いったん止めた。
「その集団は、いわゆる詐欺集団の一種でございまして、隣国数ヵ国の王族資産を標的にしてきた経歴がございます。ロゼリア嬢との関わりは、彼女が男爵家のご令嬢であった頃から、続いているもののようでございます」
彼の口調は、淡々としていた。
「……」
「この件は、本日、私より、正式に、ヴェルネシア王家の上層部へご報告いたしました」
「……」
「お父上のノーラン公爵閣下にも、同じ資料の写しをお届けしてございます」
私は茶碗から指を離した。
「なぜ、私に」
私は尋ねた。
ヴィクトルは、しばらく目を伏せた。
それから静かに言った。
「あなたの筆跡を模倣した書簡が、ルエル公国の使節団にも渡っておりました」
「……」
「模倣された書簡の内容は、あなたが、ご自身の婚約者に対する不満と、国政への不満を、隣国の王族に宛てて綴ったもの、という体裁でございました。そのまま流通しておりましたら、あなたは、ヴェルネシア王家への不忠の疑いを、負っておられたかもしれません」
「……」
「その書簡の出所を私の国の情報部が辿ったところ、ある集団に行き着き、その集団の資金の流れの一部から、ロゼリア嬢に行き着きました」
私は、しばらく、何も言わなかった。
「知っていらっしゃったのですか」
やがて、私はそう尋ねた。
「知っています」
彼は短く答えた。
「いつから」
「あなたが、殿下の断罪を受けられた夜からでございます」
私は、息を止めた。
「その夜、私は偶然、王宮の広間に、客分として招かれておりました。あなたのお顔を、あの場で見ました。カップに蓋を載せた、あの所作を」
彼は目を上げなかった。
「あれは、私が、自国で生き延びてきた時の仕草に、似ておりました。似ている、と気づいたときから、私は、あなたを、見ていました」
応接間に、沈黙が落ちた。
紅茶の湯気が、茶碗の縁から、まっすぐに昇っていた。
「お守りするのは、私の国の利益にも、かなっております」
彼はそう言い添えた。
そう言い添えることで、彼は、自分が私を守る行為を、公務の形に収めようとしていた。
私は、それを否定しなかった。
否定する権利も、必要も、まだ、私の側にはなかった。
「……ありがとうございます」
私はそう答えた。
声は低かった。
◇
ヴィクトルは、それ以上を語らず、茶をきちんと飲み干して、席を立った。
応接間を出るとき、彼は、花入れの薔薇をもう一度、目で確かめた。
それから、私に、短く一礼した。
馬車の音が、離れの門を越えて、並木道の向こうへ、ゆっくりと遠ざかっていった。
応接間に、一人になった。
私は窓辺に寄り、花入れの薔薇を、同じ角度から見てみた。
彼が見ていた角度は、ちょうど、花弁の色が変わりつつある位置を、真正面に捉える角度だった。
見送られる時期に入った花の、ひそかな変化を、彼は、黙って見ていたのだ。
◇
夕方、王宮の紋章の入った封書が届いた。
封蝋は、王家の赤。
マデリンが盆で運んできた。
「お届けものでございます」
「どちらから」
「……王妃陛下からの、お使いでございました」
私は封を解いた。
中には、短い私信があった。
近いうちに、あなたとお茶をいただきたく思っております。
形式ばらず、二人きりで。
王妃 マルガ
私はその文字を、しばらく眺めた。
『息子の過ちを、詫びたい』。
私は頭の中で、勝手にそう続けた。
そう続けなければ、この短い私信の行間を読む手がかりが、私にはなかった。
それが、私の誤読であるかどうか。
確かめる日が、どうやら、近く訪れることになっていた。




