第五話 門前の馬車
門の鈴が、乱暴に鳴らされた。
マデリンが玄関に駆けていく足音が、廊下の奥から私の耳に届いた。
私は本を膝に伏せた。この離れで、鈴を乱暴に鳴らす客を、私は、幸いなことに、それまで一人しか想定していなかった。
想定が当たってほしくはなかった。
けれども当たるだろうという予感は、廊下を近づいてくる足音の乱れ方で確定した。
「奥様、殿下が、お見えでございます」
マデリンの声は、かすかに震えていた。
朝のうちに、本邸の執事から短い報せが届いていた。父の使者が無事に王宮まで届き、支援金契約の解約通知は正しい手続きで受理された、という報せだった。殿下のご来訪は、その通知が殿下のお手元に届いた後、ほどなくのことだった。
「お通ししてちょうだい」
「……よろしいのですか」
「ええ。それから、紅茶を、お一人分」
「お一人分、でございますか」
「ええ」
マデリンは目を伏せて、退いた。
私は本を閉じ、表紙を机の引き出しの上に置いた。窓辺の椅子から、応接の椅子のほうへ移る。背筋を伸ばした。
呼吸を、ひとつだけ、整えた。
◇
扉が開いた。
「クラリス」
エドワード殿下が、応接間に入ってきた。
半年ぶりに見る姿は、記憶の中の姿と、どこか輪郭がずれていた。肩の線がわずかに落ちている。髪もきちんと整えられているようで、ところどころ乱れていた。
「急に訪ねてすまない。……いや、すまない、などと、私が口にしていい言葉ではないのだろうが」
彼は椅子を勧められる前に、勝手に向かい側の椅子に腰を下ろした。礼を失していた。
私は立ったまま、彼の着席を見届けた。
「おかけになるのは、私が勧めてからのことかと存じますわ」
彼は目を上げた。
「すまない」
「どうぞ」
私は椅子を差した。彼はすでに座っていたが、言葉だけ、勧めた。
マデリンが紅茶を運んできた。
盆の上には、茶碗がひとつ。
エドワードの前にだけ、置かれた。
「……」
彼はマデリンを見て、それから盆を見て、それから私を見た。
「君の分は」
「本日、私は、紅茶をいただく気分ではございませんの」
「……」
彼は言葉に詰まった。
マデリンは、盆を脇へ退けてから、一礼して応接間を出ていった。
扉が閉まる音が、小さく響いた。
「クラリス」
「はい」
「半年前の、あの場での私の判断は、誤っていた」
「さようでございますか」
「水に流す、と、書面で申し入れただろう」
「拝見いたしました」
「返事が、一行だった」
「ええ」
「君らしい」
彼は少し笑おうとした。笑えなかった。紅茶の茶碗に手を伸ばしたが、持ち上げずに、指先だけで縁を触った。
「ロゼリアのことで、いろいろと、君の耳に入っているかもしれない」
「少しだけ」
「それから、今朝、君のお父上からの使者が、王宮に参った」
「はい」
「支援金を、止める、と」
「父がそう判断いたしましたなら、そういうことかと存じます」
「君は、知っていたのか」
「昨日、お父様から伺いました」
彼は、しばらく黙った。茶碗の縁を触っていた指先が、静かに戻された。
「ロゼリアは、最初、私の傍にいてくれていた頃とは、違ってきている」
「さようでございますか」
「君がいないせいだ、とは、言わない。だが、君が傍にいたあいだ、私の執務には、よくも悪くも、一定の形があった。あの形を、私はずっと、当たり前のものとして受け取っていた。形がなくなってみて、はじめて、あれが君のおかげでできていた形だったと、気づいた」
「過分なお言葉でございます」
「過分ではない」
彼の声は、少し熱を帯びた。
「クラリス。やはり、君でなければならない」
「……」
「私は誤っていた。もう一度、君を、迎え入れたい」
私は目を伏せなかった。
彼の言葉の熱を、ひとつひとつ、記憶していった。
『君でなければならない』という台詞は、誰のために言われている台詞か、私はよく知っていた。それは、言った本人のための台詞だ。自分の判断が間違っていなかったことにするために、もう一度、同じ場所に、同じ女を戻そうとしているだけだ。
誤りを認めているのではない。
誤りを、なかったことにしたがっているのだ。
私は手を伸ばした。
自分の前に茶碗はない。
エドワードの前の茶碗にも、手は伸ばさなかった。
その代わり、盆の脇に、マデリンが置いたままにしていた銀の皿に、指を伸ばした。
皿の上には、銀の小さな蓋がひとつ、載っていた。
私はその蓋を、エドワードの茶碗の口に、静かに載せた。
カタン。
乾いた音が、応接間の空気を、縦に切った。
エドワードは、蓋を見た。それから、私を見た。
「さすがにこれは、お断りしたく存じます」
私は、ひとことだけ言った。
それだけだった。
◇
彼はしばらく動かなかった。
茶碗に蓋が載せられている状態が、貴婦人のどういう意思表示に当たるかを、彼は、幼い頃から習っているはずだった。
ただ、自分に対して、それが行われた経験は、おそらくなかったはずだった。
「……クラリス」
「……」
「君は、私を」
「申し上げたとおりでございます。お断りいたしましたの」
「それは、許されないことだぞ」
彼の声には、怒りが混ざり始めていた。
「許される、許されない、というお話は、かつては、殿下のご裁量にございました。けれども、いまは、私の裁量のうちにも、その判断は、含まれてございますの」
「……!」
彼は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
茶碗の蓋が、振動でごくわずかに鳴った。
「いずれ、後悔することになる」
「かしこまりました」
「いずれ」
「ええ」
彼は言葉を失った。
肩で息をしながら、応接間の扉に向かって歩き出した。
扉のところで、一度、振り返った。
振り返った顔には、もう、情熱ではなく、ただの疲労が浮いていた。
振り返ったことを後悔するような顔をして、彼はそのまま、扉を出ていった。
マデリンが、彼を玄関まで見送りに出た。
私は応接間の椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
窓のほうに、目をやった。
庭の木の葉が、午後の風に、少しだけ揺れていた。
玄関のほうから、扉が開く音、続いて、閉まる音が聞こえた。
エドワードは、帰った。
◇
私は席を立ち、窓辺に寄った。
門の外を見下ろした。
殿下の馬車が、門を出ていくところだった。
そして、その殿下の馬車が通り過ぎた直後——少し離れた道の端に、もう一台の馬車が停まっていた。
黒塗り。
屋根の下に銀色の紋章が、一瞬、光った。
Vを斜めに交わらせた、あの意匠。
馬車の扉は開かなかった。
窓からは、誰も顔を出さなかった。
ただ、窓の内側に、誰かが座っている気配だけは、確かにあった。
殿下の馬車と黒塗りの馬車とが、すれ違う間合いを、私は見ていた。
殿下は、おそらく黒塗りの馬車を視界の端に捉えていた。捉えた瞬間に、御者に速度を上げるよう指示したように見えた。
気圧されたというより、近づきたくないという判断が、半ば反射のように出た、そういう馬車の走り方だった。
黒塗りの馬車は、殿下の馬車が並木道の向こうに消えた後も、しばらくのあいだ、その場に停まり続けていた。
◇
やがて、黒塗りの馬車から、若い男が降りてきた。
焦げ茶の外套に、薄い灰色の首巻き。
あの日、路地で私を助けた従者だった。
彼は離れの門まで歩いてきて、マデリンに、短い何かを渡した。
会話はほとんどなかった。
若い男は一礼して、馬車に戻っていった。
黒塗りの馬車は、ゆっくりと動き出し、並木道の反対側へ、静かに去っていった。
マデリンが、応接間に戻ってきた。
手に、小さな封書を持っていた。
封蝋の色は、深い紫。
見覚えのある紫だった。
「お届けものでございます」
「ええ」
私は封を解いた。
中には、折り畳まれた紙片が一枚。
そこには、あの人らしい、飾りのない筆致で、短い一行だけが書かれていた。
呼ばれれば、いつでも。
ヴィクトル・フォン・エッセル
私はその一行を、しばらく眺めた。
それから紙片を畳み、机の上の、書物の横に置いた。
薔薇のあった陶器の花入れは、今朝、マデリンが水を替えてくれたばかりだった。花は、ほんのわずかに、昨日より、開いていた。
◇
翌朝、マデリンがいつもより早い時間に、街から戻ってきた。
「奥様。少々、お耳に入れたいお話が」
「どうしたの」
「昨晩の夜会の話を、私の弟が帰り際に、遠回しに教えてくれました」
「弟さん?」
「私の弟は、王立劇場の楽団の下働きでございます。夜会の後片付けに、駆り出されることがございまして」
「……そう」
「昨晩の夜会では、ロゼリア様のお名前が、いままでとは少し違う調子で囁かれていたそうでございます」
「どのように」
マデリンは、少しだけ間を置いた。
「ある種の集団の方々と、つながりがあるのではないか、と。具体的な集団の名まで、口にされる方もおいでだったとか」
「……」
「ロゼリア様は、昨晩の夜会にも、ご出席になっておられませんでした」
私は窓の外を見た。
昨日の黒塗りの馬車が停まっていた場所には、今朝はもう、何もなかった。
けれども、何もない道の上に、まだ、馬車の輪郭が残っているような気がした。
呼ばれれば、いつでも。
その一行の紙片は、昨晩から、机の上にそのまま置かれていた。




