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さすがにこれは、お断りしたく存じます  作者: 九葉(くずは)


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第五話 門前の馬車

門の鈴が、乱暴に鳴らされた。

マデリンが玄関に駆けていく足音が、廊下の奥から私の耳に届いた。

私は本を膝に伏せた。この離れで、鈴を乱暴に鳴らす客を、私は、幸いなことに、それまで一人しか想定していなかった。


想定が当たってほしくはなかった。

けれども当たるだろうという予感は、廊下を近づいてくる足音の乱れ方で確定した。


「奥様、殿下が、お見えでございます」


マデリンの声は、かすかに震えていた。

朝のうちに、本邸の執事から短い報せが届いていた。父の使者が無事に王宮まで届き、支援金契約の解約通知は正しい手続きで受理された、という報せだった。殿下のご来訪は、その通知が殿下のお手元に届いた後、ほどなくのことだった。


「お通ししてちょうだい」


「……よろしいのですか」


「ええ。それから、紅茶を、お一人分」


「お一人分、でございますか」


「ええ」


マデリンは目を伏せて、退いた。

私は本を閉じ、表紙を机の引き出しの上に置いた。窓辺の椅子から、応接の椅子のほうへ移る。背筋を伸ばした。

呼吸を、ひとつだけ、整えた。



扉が開いた。


「クラリス」


エドワード殿下が、応接間に入ってきた。

半年ぶりに見る姿は、記憶の中の姿と、どこか輪郭がずれていた。肩の線がわずかに落ちている。髪もきちんと整えられているようで、ところどころ乱れていた。


「急に訪ねてすまない。……いや、すまない、などと、私が口にしていい言葉ではないのだろうが」


彼は椅子を勧められる前に、勝手に向かい側の椅子に腰を下ろした。礼を失していた。

私は立ったまま、彼の着席を見届けた。


「おかけになるのは、私が勧めてからのことかと存じますわ」


彼は目を上げた。


「すまない」


「どうぞ」


私は椅子を差した。彼はすでに座っていたが、言葉だけ、勧めた。


マデリンが紅茶を運んできた。

盆の上には、茶碗がひとつ。

エドワードの前にだけ、置かれた。


「……」


彼はマデリンを見て、それから盆を見て、それから私を見た。


「君の分は」


「本日、私は、紅茶をいただく気分ではございませんの」


「……」


彼は言葉に詰まった。


マデリンは、盆を脇へ退けてから、一礼して応接間を出ていった。

扉が閉まる音が、小さく響いた。


「クラリス」


「はい」


「半年前の、あの場での私の判断は、誤っていた」


「さようでございますか」


「水に流す、と、書面で申し入れただろう」


「拝見いたしました」


「返事が、一行だった」


「ええ」


「君らしい」


彼は少し笑おうとした。笑えなかった。紅茶の茶碗に手を伸ばしたが、持ち上げずに、指先だけで縁を触った。


「ロゼリアのことで、いろいろと、君の耳に入っているかもしれない」


「少しだけ」


「それから、今朝、君のお父上からの使者が、王宮に参った」


「はい」


「支援金を、止める、と」


「父がそう判断いたしましたなら、そういうことかと存じます」


「君は、知っていたのか」


「昨日、お父様から伺いました」


彼は、しばらく黙った。茶碗の縁を触っていた指先が、静かに戻された。


「ロゼリアは、最初、私の傍にいてくれていた頃とは、違ってきている」


「さようでございますか」


「君がいないせいだ、とは、言わない。だが、君が傍にいたあいだ、私の執務には、よくも悪くも、一定の形があった。あの形を、私はずっと、当たり前のものとして受け取っていた。形がなくなってみて、はじめて、あれが君のおかげでできていた形だったと、気づいた」


「過分なお言葉でございます」


「過分ではない」


彼の声は、少し熱を帯びた。


「クラリス。やはり、君でなければならない」


「……」


「私は誤っていた。もう一度、君を、迎え入れたい」


私は目を伏せなかった。

彼の言葉の熱を、ひとつひとつ、記憶していった。


『君でなければならない』という台詞は、誰のために言われている台詞か、私はよく知っていた。それは、言った本人のための台詞だ。自分の判断が間違っていなかったことにするために、もう一度、同じ場所に、同じ女を戻そうとしているだけだ。


誤りを認めているのではない。

誤りを、なかったことにしたがっているのだ。


私は手を伸ばした。

自分の前に茶碗はない。

エドワードの前の茶碗にも、手は伸ばさなかった。

その代わり、盆の脇に、マデリンが置いたままにしていた銀の皿に、指を伸ばした。

皿の上には、銀の小さな蓋がひとつ、載っていた。


私はその蓋を、エドワードの茶碗の口に、静かに載せた。


カタン。


乾いた音が、応接間の空気を、縦に切った。


エドワードは、蓋を見た。それから、私を見た。


「さすがにこれは、お断りしたく存じます」


私は、ひとことだけ言った。

それだけだった。



彼はしばらく動かなかった。

茶碗に蓋が載せられている状態が、貴婦人のどういう意思表示に当たるかを、彼は、幼い頃から習っているはずだった。

ただ、自分に対して、それが行われた経験は、おそらくなかったはずだった。


「……クラリス」


「……」


「君は、私を」


「申し上げたとおりでございます。お断りいたしましたの」


「それは、許されないことだぞ」


彼の声には、怒りが混ざり始めていた。


「許される、許されない、というお話は、かつては、殿下のご裁量にございました。けれども、いまは、私の裁量のうちにも、その判断は、含まれてございますの」


「……!」


彼は椅子を蹴るようにして立ち上がった。

茶碗の蓋が、振動でごくわずかに鳴った。


「いずれ、後悔することになる」


「かしこまりました」


「いずれ」


「ええ」


彼は言葉を失った。

肩で息をしながら、応接間の扉に向かって歩き出した。

扉のところで、一度、振り返った。

振り返った顔には、もう、情熱ではなく、ただの疲労が浮いていた。

振り返ったことを後悔するような顔をして、彼はそのまま、扉を出ていった。


マデリンが、彼を玄関まで見送りに出た。

私は応接間の椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。

窓のほうに、目をやった。

庭の木の葉が、午後の風に、少しだけ揺れていた。


玄関のほうから、扉が開く音、続いて、閉まる音が聞こえた。

エドワードは、帰った。



私は席を立ち、窓辺に寄った。

門の外を見下ろした。


殿下の馬車が、門を出ていくところだった。

そして、その殿下の馬車が通り過ぎた直後——少し離れた道の端に、もう一台の馬車が停まっていた。

黒塗り。

屋根の下に銀色の紋章が、一瞬、光った。

Vを斜めに交わらせた、あの意匠。


馬車の扉は開かなかった。

窓からは、誰も顔を出さなかった。

ただ、窓の内側に、誰かが座っている気配だけは、確かにあった。


殿下の馬車と黒塗りの馬車とが、すれ違う間合いを、私は見ていた。

殿下は、おそらく黒塗りの馬車を視界の端に捉えていた。捉えた瞬間に、御者に速度を上げるよう指示したように見えた。

気圧されたというより、近づきたくないという判断が、半ば反射のように出た、そういう馬車の走り方だった。


黒塗りの馬車は、殿下の馬車が並木道の向こうに消えた後も、しばらくのあいだ、その場に停まり続けていた。



やがて、黒塗りの馬車から、若い男が降りてきた。

焦げ茶の外套に、薄い灰色の首巻き。

あの日、路地で私を助けた従者だった。


彼は離れの門まで歩いてきて、マデリンに、短い何かを渡した。

会話はほとんどなかった。

若い男は一礼して、馬車に戻っていった。

黒塗りの馬車は、ゆっくりと動き出し、並木道の反対側へ、静かに去っていった。


マデリンが、応接間に戻ってきた。

手に、小さな封書を持っていた。

封蝋の色は、深い紫。

見覚えのある紫だった。


「お届けものでございます」


「ええ」


私は封を解いた。

中には、折り畳まれた紙片が一枚。

そこには、あの人らしい、飾りのない筆致で、短い一行だけが書かれていた。


  呼ばれれば、いつでも。


   ヴィクトル・フォン・エッセル


私はその一行を、しばらく眺めた。

それから紙片を畳み、机の上の、書物の横に置いた。

薔薇のあった陶器の花入れは、今朝、マデリンが水を替えてくれたばかりだった。花は、ほんのわずかに、昨日より、開いていた。



翌朝、マデリンがいつもより早い時間に、街から戻ってきた。


「奥様。少々、お耳に入れたいお話が」


「どうしたの」


「昨晩の夜会の話を、私の弟が帰り際に、遠回しに教えてくれました」


「弟さん?」


「私の弟は、王立劇場の楽団の下働きでございます。夜会の後片付けに、駆り出されることがございまして」


「……そう」


「昨晩の夜会では、ロゼリア様のお名前が、いままでとは少し違う調子で囁かれていたそうでございます」


「どのように」


マデリンは、少しだけ間を置いた。


「ある種の集団の方々と、つながりがあるのではないか、と。具体的な集団の名まで、口にされる方もおいでだったとか」


「……」


「ロゼリア様は、昨晩の夜会にも、ご出席になっておられませんでした」


私は窓の外を見た。

昨日の黒塗りの馬車が停まっていた場所には、今朝はもう、何もなかった。

けれども、何もない道の上に、まだ、馬車の輪郭が残っているような気がした。


呼ばれれば、いつでも。

その一行の紙片は、昨晩から、机の上にそのまま置かれていた。

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