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さすがにこれは、お断りしたく存じます  作者: 九葉(くずは)


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第四話 V字のカード

自分の誕生日であることを、朝のうち、私は忘れていた。

思い出しても、驚きはなかった。

忘れていたことも、忘れていたことに驚かなかったことも、どちらも、この離れの私らしいことだった。


窓の外では、鳥の声がいつもより濃くなっていた。夜明けのうちに降ったらしい薄い雨が、庭木の葉を濡らして光らせている。季節は、本格的に動き始めているようだった。


机の上に積まれていた手紙の束を、私は順に確認した。父からのものはなかった。本邸では近頃、人の出入りが絶えない。陛下の体調の件で宮中からの使者が毎日のように詰めている、とマデリンから聞いたのは、昨日の夕方のことだった。


本邸にも、この離れにも、私宛の祝辞は届かなかった。それはそれで、構わないと思った。


書物を開いた。父から頼まれた、あの関税の古書だった。第一章は、諸州の関税の歴史から始まっていた。古い文体の固く読みにくい文章が、しかし、思いがけない速度で頭に入ってくる。かつて自分の手元で書いた改革案の、核になっていた部分の根拠が、この書物の中に、はっきりと書かれていたからだ。


父は、どうしてこの書物を私に読ませようとしたのだろう。

その問いは、頁をめくる指より先には進まなかった。



昼前になって、階下から甘い焼き上がりの匂いが昇ってきた。バターと、蜂蜜と、それから、シナモンではない、柑橘の皮の匂いが混ざっていた。私は書物を閉じ、階段を下りた。


マデリンが、布をかぶせた皿をテーブルに置くところだった。


「お誕生日でございますね、奥様」


「……覚えていてくれたのね」


「忘れましたら、私の落ち度でございますから」


彼女は淡々と言った。


菓子は、彼女が田舎にいた頃から焼いていたものらしかった。小ぶりで、外側はかすかに焦げ、中に、柑橘の皮の細かなものが刻み込まれている。焼き上がった表面の割れ目から、湯気が細く昇っていた。私は、言葉にしなかった礼を、その菓子のひとかけで受け取った。


「柑橘は、どちらの」


「南の辺境領の、今年の初物でございます。街の市場で、たまたま目につきまして」


「……そう」


「召し上がり方がお気に召さぬようでしたら、おっしゃってくださいませ」


「気に入りましたわ」


マデリンは目を伏せて、軽く微笑んだ。



午後も遅くなってから、玄関に呼び鈴があった。

マデリンが応対に出て、戻ってきたとき、手に細い包みを持っていた。


「お届け物でございます」


「どちらから」


「……差出人は、書かれておりませんでした」


「使いの方は」


「見かけたことのない方でございました。若くも老いてもない男の方で、包みを渡すと、一礼して、そのまま下がっていかれましたので」


マデリンは淡々と説明した。


包みの外からでも、花の形がほのかに透けていた。包装紙は白く、薄く、しっかりと張っていた。見覚えのある手触りだった。先日、エッセル公爵閣下からの手紙に使われていた紙と、同じ種類の紙に見えた。


マデリンが紐をほどき、紙を開いた。

中には、白い薔薇が、一輪。棘は、丁寧に取られている。切り口はきれいに斜めに整えられていた。

そして、薔薇の茎の根元に、添えられた小さな紙片。


紙片には、一見、何も書かれていなかった。

だが、紙を日の光に透かすと、端のほうに、一字だけ書き添えられているのが見えた。


  V。


字体は黒で、細く、余計な飾りがなかった。書き添えの位置は、紙片のぎりぎり端。読み飛ばされるための位置、と言ってもよかった。


私は、しばらくその文字を眺めた。

V。

知人の名を、頭の中で並べてみた。Vで始まる名前を持つ親族はいない。友人と呼べる程度の者たちのあいだにも、思い当たらなかった。

父の名は、ヴィンセントだ。Vではあった。

けれども、父が、娘の誕生日を覚えていて、名を書かずに薔薇を寄越す人物ではないことは、私がよく知っている。本当にそうしてくれるなら、もっと早くに、もっと別の形で、そうしていただろう。


それとも、ただの悪戯だろうか。

名無しの紙片で、白い薔薇を、離れにいる私に寄越す者が、この王都のどこかにいるのだろうか。それほどに、私のことを覚えている者が。

思い当たらなかった。


私は、薔薇をテーブルの上の陶器の花入れに挿した。マデリンが水を替えてくれた。

花の香りは、菓子の柑橘とは違う、もっと淡く、もっと遠い香りだった。



日が沈みかけたころ、本邸のほうから馬車の音が届いた。父が帰宅したらしい。

私は書物を閉じ、薔薇をもう一度眺めてから、外套を羽織った。母が生きていた頃から使われている、離れと本邸をつなぐ渡り廊下を、久しぶりに歩いてみたかった。


本邸の二階、父の執務室から明かりが漏れていた。扉は半分ほど開いていた。

廊下を歩く私の足音に、父は気づいたようだった。


「クラリスか」


「はい、お父様」


「入りなさい」


彼の声は、低く、疲れていた。


執務室の机の上には、革の綴じ紐で結ばれた書類の束が、いくつか積まれていた。蝋燭は台に二本。そのうちの片方の蝋が、燭台の縁を越えて、静かに流れ落ちていた。

父は眼鏡をかけ、机の中央に広げた一冊の書類を見ていた。厚い紙で、上部には金の刻印が押されている。


「お仕事中でございましたのね」


「いや。もう目を通すだけの段階だ」


「……」


「誕生日だったな」


父は顔を上げずに言った。


「すまない。今日は、祝辞を書く時間がなかった」


「お気になさらないでください」


「うむ」


父は手元の書類に、小さな印を押していた。

印を押している位置は、書類の端のほうだった。


「お父様、その書類は」


「……見ておきなさい」


父は書類を私のほうへ向けた。

表題は、『ヴェルネシア王家ならびにノーラン公爵家における歳入支援に関する契約』。

私は机に近寄った。

父の指が、書類の下のほう、小さく番号のついた条項のひとつの上に置かれていた。


  第七条。解約事由。


父は指先を、その文面の上で、左から右へゆっくりと滑らせた。


「明日、使者を王宮に送る」


「……」


「これで、来月からの支援金の拠出は止まる。正確には、止めることができる、という段取りになる」


「そうですか」


「異論はあるか」


「ございません」


父は眼鏡を外して、私を見た。


「誕生日の日に話す内容では、なかったな」


「私は、そういうの、気にしておりませんわ」


「そうか」


父は小さく息を吐いた。


「お父様」


「うむ」


「近頃、殿下のご執務は、どのように」


父は一瞬、間を置いた。


「穴が空いている、と、臣下のあいだで少しずつ囁かれ始めている」


「……」


「公然と、ではない。ただ、誰もがその穴の形を知り始めている」


父は短く言った。


「今日、薔薇が届きました」


私はふと、口にした。

父は眉を軽く上げた。


「誰から」


「差出人は、書かれておりませんでした」


「ふむ」


父はそれ以上、尋ねなかった。尋ねなかったことで、父の仕業ではないことだけは、はっきりした。


「お前に届いたのなら、お前が持っておきなさい」


「はい」


執務室を出るとき、私は扉のところで一度、振り返った。

父の指先は、第七条の上にもう一度戻っていた。

明日。

父は、そう言った。

本邸の廊下の窓から外を見下ろすと、離れのほうに、小さな明かりがひとつともっていた。マデリンが、私の帰りを待ってくれている明かりだった。

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