第三話 袖口の紋章
——書類の文字が、妙に見覚えがある気がした。
議場で財務大臣が読み上げていた改革案の写しが、執務机の上に置かれている。ロゼリアが書いたものだ。自分の家の領地のために書き上げたと、彼女自身が言っていた。案を練っている間の彼女の顔は、真剣そのものだった。
だが、どこかで見たことがある気がする。
頁をめくった。関税の段の、あの独特の言い回し。地方税の再配分の着眼点。違和感は文言そのものではない。筆の運びの向こうに、誰か別の人間の呼吸がある気がした。
——『私の机の引き出しに、似た試案がございますの』
微笑んで、そう言った娘がいた。いまとなっては、その名を口にすることすら憚られる娘が。
私は頁を閉じた。無意味な連想だ。私が断罪したあの娘と、ロゼリアの勤勉さとを並べて考える資格は、もはや私にはない。あの娘は、私に対して何もしていない。私が、彼女に何かをしたのだ。それだけのことだ。
書類の束をもう一度手前に寄せた。
閉じた表紙の下で、あの朝の朝食室の、引き出しの取っ手の光を、私はまだ思い出し続けていた。
◇
書物をひとつ頼まれたのは、エッセル公爵閣下のご訪問から数日が経った朝のことだった。
父からの手紙は短かった。経済に関する古い書物で、市場通りの古書店にしか在庫のないもの。店主とは父の代からの付き合いで、頼みのあった旨を口頭で伝えれば、奥から出してくれるはずだ、と書いてあった。
マデリンを先に青物の買い出しに送り出してから、私は馬車を頼んだ。御者は父のところで長く働いている老人で、私が馬車に乗り込むのを見届けてから、静かに鞭を入れた。
古書店の中は、古い紙の匂いで満ちていた。窓が細く、日の光は棚のあいだをゆっくりと降りていく。店主は眼鏡を上げ下げしながら、私の顔を見つけて小さく頷いた。
「ノーラン家のお嬢様」
「ええ。父から、書物の用で参りました」
「かしこまりました。少々お待ちを」
店主が奥へ消えた。足音が、階段を上がる音に変わった。
私は手持ち無沙汰に、近くの棚を眺めた。地誌の段、植物誌の段。かつての私が王太子妃教育の合間に盗み見していた種類の本たちだ。指先が、自然に背表紙のひとつに触れる。
階段の足音が戻ってきた。
頼まれた書物は、想像より厚みのあるものだった。表紙は深い赤で、金の文字が薄く擦れている。表題は『諸州関税における一貫性について』。
店主は紙で包み、紐で結んでくれた。代金を渡し、礼を言って、私は店を出た。
◇
表通りを避けたのは、すこし気分を変えたかったからだ。
古書店の裏手には、職人たちの工房が並ぶ細い路地があり、そこを抜ければ父の館の方角へ遠回りで戻ることができる。午後の日差しは路地には落ちていなかった。石畳は湿り、靴音がこもった。
男の影が前方に見えたのは、角を曲がった直後のことだった。
数名の男たち。みな同じような貧しい身なりをしていて、それが不自然だった。貧しさは、本来、もっとばらばらの貧しさを持つはずだ。
「令嬢さん」
「どちらへお帰りで」
「お待ちくださいませな」
彼らの丁寧語は、場違いに滑らかだった。丁寧語を使い慣れている者と、今日のために練習した者とが混ざっている、そういう滑らかさだった。
私は後ろに下がろうとした。背後の石畳にも足音があった。
「お話、ひとつだけ」
「ロゼリア様のこと、どこかでお耳に入りましたか」
「入りましたなら、それっきりになさっていただけませんか」
名前を、彼らは先に口にした。その迂闊さで、素性がだいたい知れた。脅しに慣れていない、どこかから急遽雇われた手合いだ。慣れていないから、取り返しのつかない言葉を、先に言ってしまう。
書物の包みを抱え直した。身分を名乗るべきか、叫ぶべきか、ただ目を逸らさず睨むべきか。頭の中に幾つか選択肢が並んだが、どれも、自分の今の体で実行するには間に合わない気がした。
そのとき、路地の別の方向から、別の足音が近づいてきた。
若い男だった。焦げ茶の外套に、薄い灰色の首巻き。年は私と近いようにも、少し上にも見えた。顔には、驚いた表情を薄く乗せていた。
「おや、失礼いたしました。道を間違えましてね。そちらのお嬢様、少しお教えいただけませんでしょうか」
自然な声だった。ただ、自然すぎた。
男たちは、若い男の位置を測るように、互いの距離を取り直した。若い男は、そのあいだに、私のすぐ横に立った。
「お嬢様。駅馬車の待合所は、どちらでございましたでしょう」
彼は尋ねた。見れば、外套の袖口が、私の肘にかすかに触れそうな位置にあった。自然を装って、私の横に入り込んだのだ。
男たちは、短く視線を交わした。
そして、うなずくでもなく、捨てる言葉もなく、散るようにして路地の先へ去っていった。
◇
若い男は、男たちが消えた方向をしばらく眺めていた。やがて、外套の胸のあたりを整えるように手を動かした。そのときだった。
袖口の裏地に、刺繍が見えた。
Vを斜めに交わらせた意匠。
私は目を伏せた。見なかったふりをするほうが、この場はお互いのためだろう、という勘が働いた。
「駅馬車の待合所でございましたら、この路地を右に出て、先の辻を左でございます」
私はそう答えた。
「ああ、それはそれは。助かりました」
彼は軽く一礼した。外套の袖口は、もう、もとの位置にきちんと戻っていた。
彼は路地の先へ歩き出し、角を曲がって、姿が見えなくなった。
私は動かなかった。
遠くで馬車の音が鳴っていた。工房のほうから、金槌の音が途切れ途切れに聞こえた。
ようやく歩き出したとき、書物の包みを抱えている腕に、じっとりと汗をかいていたことに気づいた。
◇
離れに戻ったのは、陽が傾く頃だった。
マデリンはすでに戻っていた。私の顔を見て、短く目を細めた。何かを尋ねる気配があったが、私が包みを机に置いた手つきを見て、彼女は問いを呑んだ。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「お茶を」
「ええ」
彼女が退いたあと、私は椅子に座り、包みの紐を解いた。父が求めていた書物は、想像したとおりの、経済についての古い一冊だった。表題の文字は薄く擦れ、頁の角はすこし反り返っている。開いてみる気には、まだなれなかった。
夕方近く、玄関に使者が訪れた。
遠縁筋からの夜会の招待状だった。形式通りの文面で、返信を要するほどのものではない。ただ、招待状の下には、侍女の手で書かれたらしい短い私信が添えてあった。
——奥向きのお話を、お耳汚しに申し上げます。殿下が先日、執務の途中でお倒れになったという話が、昨日から少しずつ囁かれております。医師の診立ては、過労、とのことでございます。ロゼリア様のほうは、昨日の夜会をご欠席になり、本日のお茶会からも、ご遠慮のお使いが届いたご様子でございます。
過労。
その言葉を、私は声に出してなぞった。
マデリンが紅茶を運んできた。盆を置き、下がろうとしたところで、彼女はふと立ち止まった。
「奥様」
「なに」
「蓋は」
「ええ。今日はいいわ」
マデリンは黙ってうなずき、応接間を出ていった。
紅茶のカップは、蓋のないまま、湯気を昇らせていた。
その湯気の向こう、まだ温度の行き渡っていない空気のあたりに、袖口の刺繍の輪郭が、まだ残っているような気がした。




