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さすがにこれは、お断りしたく存じます  作者: 九葉(くずは)


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第二話 茶葉の産地

朝のうちから、マデリンは茶器を磨きなおしていた。

それは彼女が自分の緊張を口にしない日の所作だ。

私自身、机に向かってペンを取ろうとしては、紙から目を逸らした。窓辺に立ち、また机に戻る。そんな繰り返しのうちに午前が過ぎた。


離れの応接間は、日頃から客を招くような部屋ではない。父の館の本邸とは違い、装飾は抑えられている。壁には亡き母が好きだった水彩画がひとつ、暖炉の脇には父から贈られた小ぶりの彫像。それだけだ。訪ねてくる者があるとすれば、年に数えるほどの医師か、遠縁の伯母くらい。


「奥様。よろしければ、茶器は正客用のものを」


マデリンが控えめに言った。


「いえ。いつものでいいわ」


「……かしこまりました」


彼女は一拍、言葉を呑んだ。この日に私が正客用の茶器を使わないことに、いくらか意味を読み取ったのかもしれない。それはそれで、彼女の自由にさせておく。


昼に近い時刻、窓の外の石畳に車輪の音が届いた。


私は窓辺に寄り、布越しに庭を見下ろした。

黒塗りの馬車が、離れの門の前に停まっている。馬の息が白く上がっていた。御者が降り、扉を開ける。中から、背の高い人影がゆっくりと地面に足を下ろした。外套の裾が石畳を軽く掃いた。


マデリンが玄関に向かう足音がした。

私は窓辺から離れ、応接間の椅子に戻った。



「エッセル公爵閣下、お見えでございます」


マデリンの声。扉が開く。


暗い色の外套。その下の礼装は派手ではない代わりに、仕立てに迷いがなかった。髪は黒く、やや長めに後ろで束ねられている。瞳は暗い灰か、深い緑か、光の具合で揺れるような色をしていた。

年齢は、私より一回り上ほど。


「ノーラン公爵令嬢。ヴィクトル・フォン・エッセルと申します」


低く、柔らかい声だった。抑揚は控えめで、敬意は過不足がなかった。


「クラリス・フォン・ノーランでございます。どうぞおかけになって」


私は椅子を勧めた。


「恐れ入ります」


彼は腰を下ろした。所作は武官のそれではなかった。外交官の身のこなしと、その前にあったかもしれない何か別の職業の残り香が、かすかに混ざっている気がした。ただ、そう思ったのは、私自身の勝手な想像だ。社交界に長く身を置いた娘の、下手な読みの癖にすぎない。


マデリンが紅茶を運んでくる。

盆に載った茶器はふた組。蓋は、本当に出さなかった。

茶碗を置く所作を、ヴィクトルは目だけで追ったように思えた。


「本日は、後見人としての儀礼のご挨拶に伺いました」


彼は前置きなく切り出した。


「お父上のノーラン公爵から、正式な依頼を頂戴しております。書面のやりとりは、先月のうちに済ませてございます」


「父からは、聞いております」


厳密には、父からはひとこと聞いただけだ。「隣国の方が、お前の後見を引き受けてくださる」。それ以上は、父自身、多くを語らなかった。


「形式上の役割でございます。奥様の日常に関与するものではございません」


「承知しております」


「ただ、王家からの書面が奥様のお手元に届く折には、余白にひとことだけ、私の名を添えさせていただくことがございます」


彼は淡々と言った。目は伏せられていた。


「添える位置は、常に、余白の端でございます」


私は彼の顔を見た。

彼は、目を上げなかった。


朝、王子からの書面の余白に書かれていたあの一文のことを、彼は言っている。

自分が書いたとは言わなかった。

書かせたとも、書き添えるよう頼んだとも言わなかった。

ただ、「添えさせていただくことがございます」と、今後起こり得ることの説明の形で、そう告げた。


丁寧な人だった。

丁寧すぎるほどに。



「紅茶を、どうぞ」


私は勧めた。


「いただきます」


彼は茶碗を取り、一口、含んだ。飲み込むまでの間が、ほんの少し長かった。

そして茶碗を置いた。


「ルエル公国の、東岸のものですね」


私は茶碗を置こうとしていた手を、そのまま止めた。


「やや熟成の浅い葉ですので、摘み時期は、去年の春の遅い頃でしょうか」


「……お分かりになるのですね」


「故郷の茶葉でございますので」


彼は静かに言った。そして、淡く微笑んだ。微笑みは短く、すぐに顔の輪郭の中に戻った。


私は、茶碗を持ち上げなかった。


この茶葉は、私がひそかに取り寄せているものだった。父の館の茶葉倉から分けてもらった銘柄ではない。母が使っていたものでもない。離れに移されて以来、街の小さな輸入商を介して、私の名義で、少量ずつ入れているものだ。

父も母も、この茶葉のことは知らない。マデリンが知っている。輸入商が知っている。そして、その輸入商の帳簿に目を通せる立場の者が、もし仮にいれば、その者も知っているだろう。


知らないはずの男が、それを知っている。

偶然、故郷の茶葉だから分かった、と言う。


丁寧な嘘の添え方だった。


それが嘘であるのかどうかは、私にも断じられない。

ただ、彼がここに到着する前に、私の茶葉の出所を、何らかの形で承知していたことだけは、動かない。


茶葉は、もちろん、どこで入手しても匂いは匂いだ。

けれど、産地を言い当てた者に、私のほうから「どこでお知りになって」と尋ね返すには、理由がいる。

そして、私にはまだ、彼にその種の質問をする理由がなかった。


ヴィクトル・フォン・エッセルは、そのまま茶碗を置き続けた。続きの一口を飲むでもなく、話題を広げるでもない。紅茶の香が、部屋の空気にゆっくりと広がっていくのを、互いに眺めているような沈黙だった。


「美味しい紅茶でした」


やがて、彼はそれだけを言った。


「ありがとうございます」


私の答えは、やや遅れた。


「儀礼のご挨拶は、これにて、失礼いたします」


彼は立ち上がった。


「本日、お話したいことは、特にございませんでした。そのことをお伝えしたく、参上いたしました」


おかしな言い方だった。

「話したいことがない」ことを伝えに来る客を、私は他に知らない。

けれども、この人がそう言うときには、字義通りに受け取るべきだ、という勘が働いた。彼は、話すべきことができたとき、あるいは、話すべきことが私のほうに生じたときに、もう一度来る。そういう意味だ。


「お見送りを」


私は立ち上がろうとした。


「どうか、このままで」


彼は柔らかく、静かに言った。


「玄関までは、私の者が存じておりますので」


「左様ですか」


私は座り直した。

ヴィクトルは一礼して応接間を出ていった。外套が床を掃く音が扉の向こうに続き、やがて消えた。



応接間に、私と、ふた組の茶器が残された。


彼の茶器は、ほとんど飲み残しがなかった。

私の茶器は、口をつけないまま冷えかけていた。


手を伸ばし、銀の皿に目を落とした。

指先が蓋に触れた。触れたが、蓋を茶碗の口には運ばなかった。

手は皿の縁に置かれたまま、しばらく動かなかった。


玄関の向こうで馬車が動き出す音がした。蹄の音が離れの門を越え、並木道のほうへ遠ざかっていく。


マデリンが応接間に戻ってきたとき、私はまだ同じ姿勢だった。


「奥様。お下げしても」


「……ええ。下げてちょうだい」


マデリンは盆を持ち上げる前に、ヴィクトルの茶碗のほうへ目をやった。


「珍しいお方でございますね」


「そう思う?」


「茶葉を、お口にされる前に、香りだけで決めておいでのようでございましたから」


マデリンの声は、淡々としていた。

彼女はそれ以上、何も言わなかった。盆を持ち、一礼して、応接間を出ていった。



夕方、マデリンが街から戻ってきた。

買い出しの帰りだった。


「奥様。お耳汚しでございますが」


彼女はためらいつつ切り出した。


「街の青物屋で、昨夜の夜会のお話を、ある伯爵家の侍女さんが話しておりました。ロゼリア様が、ご自身の王太子妃教育の進捗について、周りの方々にお話しになっていた、と」


「そう」


「それで、伺ったお話を、そのまま申し上げてよろしいでしょうか」


「ええ」


マデリンは目を伏せた。


「ロゼリア様は、王太子妃教育の進捗を、詳しくは、お話しになりませんでした。細かいことは、まだ教わっている最中で、と」


「……」


「聞いておいでの方々のなかに、ご自身の娘御が王太子妃教育を受けていた頃のお話と、比べながら聞いておいでだった方が幾人か。話が、かみ合わなかったようでございます」


私は窓辺に目を向けた。

日が低い位置に傾きかけていた。庭の木立の向こう、本邸の屋根が、鈍い金色に染まりつつある。


王太子妃教育の内容は、大きく三つに分かれる。礼法、政務、宗儀。それぞれに教師がつき、カリキュラムの順序にも伝統的な決まりがある。その順序を頭に入れておくだけで、進捗の話はそれらしく語れる。それらしく語れるが、中身は嘘の上に積まれた嘘になる。


私がそれを知っているのは、かつて、その教育を受けていたからだ。


マデリンは、少し間を置いて続けた。


「もうひとつ、申し上げてもよろしければ」


「いいわ」


「ロゼリア様がお話になっている途中で、伯爵夫人が、銀の蓋を、ご自身のカップに、載せられたそうでございます」


マデリンはそう言って、口を閉じた。


応接間に、小さな沈黙が落ちた。


蓋の音は、その場には聞こえなかっただろう。広間の話し声の合間に紛れ、他の誰にも届かなかったかもしれない。それでも、伯爵夫人は鳴らしたのだ。自分の手元で、自分の意思で、そうしたのだ。


私は、手元の茶器に目を落とした。

昼に飲みそびれた紅茶は、とうに冷えていた。

蓋は、まだ、載せられないままだった。

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