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さすがにこれは、お断りしたく存じます  作者: 九葉(くずは)


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第一話 紅茶の朝

『過去の誤解を、水に流そう』——半年前に私を捨てた男からの書面は、その一文で始まっていた。

驚きはしなかった。

驚いたのは、書面の余白に小さく添えられた、もうひとりの名前のほうだった。


書面は朝のうちに銀盆で運ばれてきた。封は王家の蝋、差出人は『第二王子エドワード』。私は封を解き、目を通し、机の端にいったん置いた。


「奥様。紅茶を、淹れ直しますか」


マデリンの声は低かった。気遣いは彼女の癖で、ノーラン公爵家の離れで二人きりの生活が始まってから、その癖にはさらに丸い角がついていた。


「同じ茶葉で。温度だけ、少し落としてちょうだい」


「かしこまりました」


マデリンが退いたあと、書面を改めて取り上げた。


文面は、明るく、高慢だった。『過去の誤解を、水に流そう』から始まり、『私は君を、再び婚約者の座に迎える用意がある』と続く。私の側の誤解が具体的にいかなるものだったのかは、どこにも書かれていない。半年前、社交界の広間で私を断罪した男の筆跡は、あの日から、何ひとつ変わってはいなかった。


文末のさらに下、余白の端に、小さな書き込みがあった。

他とは筆跡が異なる。王子のものではない。王妃のものでもない。


——本件、エッセル公爵の後見下にて処理されたし。


私は、その一文を声に出さずに読み返した。


エッセル公爵。隣国ルエル公国の外交特使、と肩書だけは知っている。お会いしたことはない。書いた者の顔も、筆跡の癖も、私の手元の情報では追えない。


それでも、書面の本文と余白とを並べて見たとき、分かることはあった。

王家の書面の余白に、王家の人間ではない誰かの意向が書き添えられている。

それは、王家が王家だけで判断できなくなった、ということだ。


半年のあいだに、誰が、どこで、なにを動かしていたのか。私はまだ、その全体像を知らない。


ただ、この書面を前にして、私に書ける返事は、もう決まっていた。



「マデリン」


「はい、奥様」


「便箋を」


彼女は余計なことを尋ねなかった。引き出しから無地の紙を取り出し、ペン立てと一緒に机上に並べてくれた。


「短く書くわ」


「……はい」


ペンを取った。

宛名に「エドワード殿下」と書く。

本文を書く。


——さすがにこれは、お断りしたく存じます。


それだけだった。

署名を添え、紙を畳み、封筒に収めた。封蝋はノーラン公爵家の印。父の印ではなく、次女である私のもの。小ぶりの、あまり使われることのなかった印を選んだ。


「殿下の執務机に、直接置かれるように手配してちょうだい。人伝に渡らないように」


「かしこまりました」


マデリンが封筒を両手で受け取り、一礼して部屋を出ていった。


足音が遠ざかる頃、私は紅茶のカップに手を伸ばした。

飲むためではない。

カップの口に、銀の蓋をそっと載せた。


カタン。


乾いた、小さな音が鳴った。会話を打ち切ったという意思表示。ヴェルネシア王国の貴婦人の作法のひとつ。目の前に相手がいなくても、この音は成立する。ここしばらく、私はこの音を、自分のためだけに鳴らしている。


窓の外、庭木の枝に、名を知らない小鳥がとまっていた。


書面にあった『過去の誤解』という言葉を、私はもう一度思い返した。


誤解ではなかった。誤解などではなかった。彼はただ、私から目を逸らした。逸らした先に、もっと愛らしい声と、もっと涙目の睫毛があったというだけの話だ。

それを『誤解』と呼ぶのであれば、私のほうから訂正しておく必要がある。

私は誤解されていない。私は、見限られたのだ。


そして、見限ったのは、私のほうでもある。


蓋の下で、紅茶は静かに冷えていった。


机の引き出しを、私は指先で閉じた。

そこには、かつて私が書き上げた領地改革案の草稿が、日付入りの筆写本とともに収まっている。社交界のごく限られた相手にしか見せなかった書類だ。見せた相手のなかには、当時の婚約者がいた。私はそれを、彼の執務の手助けになればと、素直に渡した。


その後、その書類が誰の手で、どこの議場で読み上げられたのかを、私はまだ、自分から調べてはいなかった。

調べてくれる者が、私の側にいなかったからだ。



午後。

マデリンが戻ってきたときには、庭の光の向きが変わっていた。


「奥様。もう一通、お届け物が届いております」


私は窓辺の椅子で本を読んでいた。目を上げると、彼女が白い封筒を両手で捧げていた。

封蝋の色は、朝のそれとは違う。深い紫。見慣れない紋章——Vを斜めに交わらせた意匠。


「どちらから」


「……隣国ルエル公国、エッセル公爵閣下から、とのことでございます」


私は本を膝に伏せ、封筒を受け取った。紙の手触りは、薄いが、しっかりと張っていた。輸入紙だ。


封を解く。


  『ノーラン公爵令嬢 クラリス様


  明後日の午後、貴家の離れに、ご挨拶を申し上げたく存じます。

  後見人としての儀礼に過ぎません。

  差し支えなくば、紅茶をご用意いただけますと幸甚に存じます。


    ヴィクトル・フォン・エッセル』


短い手紙だった。飾りはない。儀礼、と本人が書いている。だが、儀礼という言葉を選んで書く相手ほど、儀礼では済まない話を持ってくる。社交界で私が学んだ、ささやかな身を守る知恵のひとつだった。


手紙を畳み、机に置いた。


「マデリン」


「はい」


「明後日の午後、紅茶を二人分。——それと、蓋は出さないでちょうだい」


マデリンは、私の顔を見た。何かを言いかけて、やめた。


「……かしこまりました」


彼女が退く。扉が閉まる音が、午後の光の中に、静かに落ちた。


私は手紙に目を戻した。『後見人としての儀礼に過ぎません』。その一行の呼吸を、私はしばらく見つめていた。


午前中、私は短い一行で、元婚約者を断った。

その返信を、まだ王子が読みもしないうちに——私の離れには、見知らぬ隣国の公爵が、儀礼の名の下に訪れる手筈がすでに整っていた。


書面の余白にあの一文を添えたのは、誰だったのか。

『エッセル公爵の後見下にて処理されたし』。

私の目の前にある手紙の署名と、その余白の筆跡とは、同じ者の手によるものだろうか。あるいは、まったく別の手だろうか。


明後日。


庭の小鳥は、いつの間にかいなくなっていた。

その日の空は、半年前によく似た色をしていた。

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