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第五話 対象者の日常を観察してください

 ぴろりん。


 平素よりお世話になっております。このたびミッションを発令させていただきます。本日より二十四時間以内に、本来の対象者様の日常を三場面以上ご観察いただけますでしょうか。なお観察中の対象者様への干渉は一切お控えいただけますでしょうか。干渉が確認された場合は即死となります。未達成の場合も死亡となります。何卒よろしくお願いいたします。


 何卒よろしくお願いいたします、と書いてある。

 干渉したら即死、と書いてある。

 見ているだけでいい、と書いてある。


「来た来た」りりが言った。「今回は楽じゃん」


「干渉したら即死、と書いてある」


「見てるだけでいいじゃん」


「本来の対象者、というのは」


「誤配の話、覚えてる?」


「覚えている」


「本来ミッションを送るべきだった男がいるじゃん」


「俺の代わりに送られるべきだった人間か」


「そう」りりはポップコーンを食べた。「今日はその人を見に行くよ」


 俺はしばらく黙っていた。


「どんな人間だ」


「見ればわかるよ」


 りりは笑った。いつもの軽い笑い方だった。ただどこか、目が笑っていなかった。



 地獄の力で透明になれる、とりりが言った。


「すごいな地獄の能力」


「でしょ」りりは当然のように言った。「ただし対象者には見える場合があるから近づきすぎないで」


「近づいたら干渉になるのか」


「即死になる」


「近づかない」


「あと喋っても聞こえないから安心して」


「俺の声も聞こえないのか」


「周囲の人間には聞こえない。対象者にも聞こえない。ただ」りりが少し間を置いた。「対象者と目が合ったときだけ、なんか感じる人もいるから。気をつけて」


「感じる、とはどういうことだ」


「なんか視線を感じる、くらいの話だよ。そんな怖がらなくて大丈夫」


 大丈夫、という言葉をりりが使うとき、たいてい大丈夫ではない。ただ確認する時間はなかった。


 透明になった。なった、というか、周囲から認識されなくなった、という感覚に近い。存在はしているが、誰にも見えない。見えないはずなのに、自分の輪郭がどこかぼんやりしているような気がして落ち着かなかった。


 りりが隣にいる。ポップコーンを食べている。


「透明でもポップコーンを食べるのか」


「食べるよ」


「音は聞こえないのか、周囲に」


「聞こえない」


「それは少し羨ましいな」


「何が」


「いつでもポップコーンを食べられる」


「あなた、ポップコーン好きなの?」


「好きではないが」


 りりは笑った。今度は目も笑っていた気がした。


 向かった先は都内の居酒屋だった。



 男の名前は聞いていない。


 ただ見た瞬間にわかった。


 二十代後半。身長が高く、顔が整っている。服装に気を遣っている。笑い方を知っている、というか、笑い方を使っている。カウンター席に座った女性に声をかけるとき、体をわずかに傾けて、少し距離を縮めて、名前を早めに聞く。名前を覚えたふりをして、すぐ使う。親しい友人の振る舞いで近づく。


 まるで慣れた男のように女性に近づく。


 女性は笑っていた。楽しそうに見えた。


「あれが」


「そう」りりが言った。笑顔だった。「あれが本来のターゲット」


 俺は黙って見ていた。


 男はうまかった。会話の間の取り方、褒め方、聞き方。どれも自然に見えた。本当に自然に見えた。見えるように、やっている。


 声が通る。話しながら相手の言葉を繰り返す。繰り返すことで、ちゃんと聞いていると伝える。聞いているふりで伝える。女性が話すたびに少し前に体を傾ける。傾けるだけで、距離は縮まる。


 女性のグラスが空になる前に注文する。気づいていないふりをして、さりげなく。


 一杯。二杯。三杯。


 女性の笑い方が変わってきた。少し大きくなった。少し遅くなった。


 スキルが反応した。


 あの女性は今、自分がどこにいるかわからなくなっている。


 根拠はない。ただそう思った。


 俺は一歩踏み出しそうになった。


 りりが腕を掴んだ。


「だめ」


 笑顔のまま言った。


「わかってる」


「わかってるならいい」


 離した。


 俺は見ていた。見ているだけだった。それしか許されていなかった。


 男が女性の耳元で何かを言った。聞こえなかった。女性が笑った。男も笑った。二人分の笑い声が居酒屋の雑音に溶けていった。


「りり」


「なに」


「あの女性、どうなる」


「さあ」りりが言った。笑顔のまま。「わからない」


「わからない、か」


「あなたが心配することじゃないよ」


「俺が心配することじゃない、というのはどういう意味だ」


 りりはポップコーンを食べた。答えなかった。


 男が立ち上がった。女性に手を差し伸べた。女性は手を取った。笑いながら取った。


 二人が店を出ていった。


 俺は出口を見ていた。


「追うのか」


「ミッションは観察三場面。一場面目はここまで」りりが言った。「今夜はもう帰っていいよ」


「帰っていいのか」


「うん」


 俺は店を出た。夜の空気が冷たかった。りりがついてきた。ポップコーンを食べていた。


「あの後、あの女性は」


「ミッションの範囲外」りりが言った。軽い口調だった。「今日の観察はここまで」


 それ以上は聞かなかった。

 聞いても答えは来ないとわかっていたし、答えを聞いたところで俺にできることは何もなかった。



 翌日。昼間。


 公園だった。


 男は別の女性と歩いていた。昨夜とは別の女性だった。当然のように別の女性だった。穏やかな顔をしていた。昨夜の居酒屋とは別の顔だった。こちらの方が素に近いのか、あるいはこれも別の顔なのか、俺にはわからなかった。


 ただ、昨夜より丁寧だった。


 歩く速度を合わせている。荷物を持っている。自分から話すより、相手の話を聞く比率が高い。うなずく回数が多い。昨夜の居酒屋での動き方とは違う。こちらは長期戦の動き方だ、と思った。分析型なので、そういうことがわかる。わかりたくなかった。


 女性は少し疲れた顔をしていた。でも男と話しているときは少し表情が緩んだ。


 話している内容は聞こえなかった。


 ただ、しばらくして、女性が財布を取り出すのが見えた。


 男が受け取った。

 自然に受け取った。

 当然のように受け取った。


「……あれは」


「うん」りりが言った。笑顔だった。「そういうこと」


 女性は笑っていた。笑いながら渡していた。渡したくて渡しているように見えた。そうしたくなるように、されている。


 俺は何も言わなかった。


 男が財布を受け取った後、女性の肩に手を置いた。軽く。ごく自然に。女性が少し照れたような顔をした。


 スキルが反応した。


 あの女性は今、この男を信じている。


 根拠はない。ただそう思った。確信に近いものがあった。そして、そのことが、居酒屋で感じたものより重くのしかかってきた。


 知らなければよかった。


「りり」


「なに」


「あの女性は、いつかわかるのか」


「何を」


「あの男が何をしているか」


 りりは少し間を置いた。


「わかる人もいるし、わからない人もいる」


「わかったときはどうなる」


「それは人による」


 答えになっていなかった。なっていないとわかっていて答えている。俺もそれ以上は聞かなかった。


 男と女性が公園のベンチに座った。二人並んで、空を見ていた。


 絵になる景色だった。

 絵になるように、座っている。



 三場面目は夜だった。


 同じ日の夜だった。公園で女性と別れてから四時間後、男は別の場所にいた。別の女性と一緒だった。また別の女性だった。


 マンションのエントランス。男が女性の肩を支えていた。女性はふらついていた。足元がおぼつかない。男が声をかけている。表情は穏やかだった。介抱しているように見えた。


 見えた。


 スキルが反応した。


 あの女性は今、助けてほしい。


 根拠はない。ただそう思った。助けてほしい、という感覚が、この場所から十メートル離れた俺にまで伝わってきた。


 俺は動けなかった。

 動いたら死ぬ。

 動かなかったら。


 動かなかったら、何が起きるか、俺には想像がついた。


「りり」


「だめだよ」りりが言った。笑顔だった。「ルールだから」


「ルールか」


「ルール」


 笑顔のまま言った。いつもの軽い笑い方だった。ただ、ポップコーンを食べていなかった。


 男がエレベーターのボタンを押した。


 ドアが開いた。


「りり」


「だめ」


「わかってる」


「わかってるならいい」


 ドアが閉まった。


 エレベーターの数字が上がっていく表示を、俺はしばらく見ていた。二階。三階。四階。五階。止まった。


 止まった数字を見ていた。


 りりは何も言わなかった。ポップコーンも食べなかった。


 俺も何も言わなかった。


 言えることが何もなかった。


 しばらくして、俺は踵を返した。りりがついてきた。エントランスを出た。夜の空気が昨夜より冷たかった。



 帰り道。


 電車に乗った。りりが隣に座った。ポップコーンの袋を持っていたが、開けなかった。


 俺も何も言わなかった。


 駅と駅の間をいくつか過ぎてから、りりが口を開いた。


「ねえ」


「なんだ」


「あなた、さっき動きそうになったじゃん」


「なった」


「二回」


「……そうだな」


「死ぬとこだったよ」


「わかってる」


 りりはポップコーンの袋を手に持ったまま、開けなかった。


「なんで止まれたの」


 俺は少し考えた。


「動いたら死ぬから」


「それだけ?」


「……ああ」


 りりは少し間を置いた。


「そっか」


 ポップコーンをようやく開けた。一粒食べた。一粒だけ食べて、また閉じた。


 ぴろりんと音がした。


 お疲れ様でございます。ミッション達成が確認されました。なお今回の報酬スキルはございません。お疲れ様でした。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


 スキルなし、と書いてある。

 初めてだった。


「スキルがない」


「そういう回もあるよ」りりが言った。「見るだけのミッションだから」


「何のためのミッションだったんだ」


 りりは答えなかった。ポップコーンを開けた。今度はちゃんと食べた。


「見て、どうだった」


「最悪だった」


「そっか」


「あの男、顔が整っているな」


「うん」


「笑い方がうまい」


「うん」


「女性の話を聞くのも、距離の縮め方も、全部うまい」


「うん」


「俺より全部うまい」


 りりが少し止まった。


「……それ、今言う必要ある?」


「思ったことを言っただけだ」


「自己評価低すぎでしょ」


「事実の確認だ」


「あなたも聞くの上手いって橘さんに言われてたじゃん」


「あれとこれは違う」


「何が違うの」


 俺は少し考えた。


「あの男は目的のために聞いている。俺は聞きたいから聞いている」


「それ、自分で言う?」


「言っていけないのか」


 りりは少し間を置いた。それからポップコーンを食べた。


「……まあ、そうかもね」りりが言った。「違うかもね」


 珍しく、断言しなかった。


 窓の外を見た。夜の街が流れていく。


「りり」


「なに」


「おまえは何回、あいつを見た」


 りりは少し間を置いた。


「何回も」


「何回見ても、止められないのか」


「止めるのが私の仕事じゃないから」


「じゃあ誰の仕事だ」


 りりは答えなかった。


 電車が駅に着いた。降りた。りりもついてきた。


 改札を出て、少し歩いて、俺は立ち止まった。


「なあ」


「なに」


「あいつへのミッション、どんな内容なんだ」


「あの男への?」


「ああ。本来のターゲットに送るはずだったミッション。どんな内容だ」


 りりは少し間を置いた。


「女性を弄んできた男に、同じ目に遭わせる。それが本来のミッションの趣旨」


「同じ目に遭わせて、それで何かが変わるのか」


 りりは少し間を置いた。


「地獄がやることに正しいも正しくないもないよ」


「そうか」


「そういうシステムだから」


「ただ」俺は言った。「今夜、あのエレベーターの前で、俺は何もしなかった。ルールだったから。死ぬから。それ以外の理由は何もない」


「うん」


「それは正しかったのか」


 りりは答えなかった。


「本来は俺の仕事だったんだろ」


 りりはポップコーンを食べた。


「もしかして」俺は言った。「スキルをつけて、慣れさせて、将来あいつへの制裁の仕事を俺にやらせるつもりなのか。地獄のシステムは」


 りりは少し間を置いた。


「さあ」


「さあ、か」


「私もそこまでは知らない」


 本当に知らないのか、知っていて言わないのか、俺にはわからなかった。


「なあ」


「なに」


「あの女性、大丈夫だったか」


 りりは答えなかった。

 ポップコーンも食べなかった。


 それが答えだった。


 俺は歩き始めた。りりがついてきた。


 街灯の下を歩いた。夜の空気は冷たかった。りりのポップコーンの音だけがしていた。


 今夜俺は三場面を見た。見ただけだ。何もしていない。何もできなかった。ルールだったから。


 死ぬから。


 死ぬから、だ。



第五話 了

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