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第二話 業務時間内に抱きしめてください

 ミッションから四日が経過した。

 俺、厄神涼(やくがみりょう)は生きていた。


 生きていた。

 これは当然のことのように聞こえるが、四日前の時点では五割を下回ると踏んでいたので、素直に安堵している。


 変わったことが一点ある。


 柚木のあ(ゆずきのあ)が廊下で会うたびに話しかけてくるようになった。天気のこと。電気ケトルが壊れていること。鈴木さんの誕生日が近いこと。悪意はない。ただ喋る。喋るたびに俺は何かが刺さるような気がして、刺さった痛みを確認している間に彼女はふんわりと去っていく。


 社内の視線が変化していた。田中に至っては昨日「おまえ、柚木さんと仲良くなってんの、正気か」と三回聞いてきた。三回だ。一回聞いて答えが得られなかったのでもう一回聞いて、それでもよくわからなかったのでもう一回聞いた。正気かどうかは俺にもわからない。ただ生きている。


 りりは今日も隣にいる。ポップコーンを食べている。


「なんか馴染んできたじゃん、柚木ちゃんと」


「馴染んでいない。話しかけられているだけだ」


「それ馴染んでるって言うんだよ」


 言い返せなかった。


 ぴろりん。



 平素よりお世話になっております。このたびミッションを発令させていただきます。本日より三時間以内に、所属職場において最も親しみやすいと評判の女性従業員様を、五秒以上抱擁していただけますでしょうか。なお対象の女性様の同意は必須ではございません。未達成の場合は死亡となります。何卒よろしくお願いいたします。


 何卒よろしくお願いいたします、と書いてある。

 同意は必須ではない、と書いてある。

 三時間以内、と書いてある。


 俺はスマートフォンを伏せた。


「来たね」りりが言った。「今回はなかなか」


「同意は必須ではない、と書いてある」


「書いてあるね」


「これはセクハラだ」


「本来のターゲット、女性を弄んできた男へのミッションとしては妥当なラインだよ。向こうは同意なく傷つけてきたんだから」


「俺は女性を弄んだことがない。恋愛経験がほとんどないので物理的に不可能だと四日前にも言った」


「誤配だから」


 わかってた。わかってたが今回は前回より腹が立つ。


「抱擁の定義は」


「ハグ」


「五秒以上」


「うん」


「同意を取ればいいのか」


「取れるなら取ったほうがいいと思う。ミッション的には不問だけど」


 不問だけど、という言い方が嫌だった。地獄のシステムは倫理に興味がない。俺には興味がある。その差が今後どう響くか、考えたくなかった。


「最も親しみやすいと評判の女性は誰だ」


 りりがポップコーンを止めた。一瞬だけ。


「それはあなたが一番わかってるんじゃないの」


 わかっていた。



 社内で最も親しみやすいと評判の女性は、橘咲良(たちばなさくら)という。


 三十一歳。営業部。社内全員が知っている。身長は高く、笑うとえくぼができ、声が通る。話しかけると必ず名前で呼び返してくれる。誰かが失敗すると真っ先にフォローに回る。飲み会の幹事を毎回引き受ける。後輩の相談に乗るのが得意だ。社内アンケートの「一緒に働きたい人」で三年連続一位を取っている。


 俺とは接点がほぼない。挨拶はする。それだけだ。


「あの人か」りりが言った。「確かに親しみやすそう」


「親しみやすいのと突然抱きつかれるのを許容するのは別の話だ」


「まあそうだね」


「三時間以内だぞ」


「今何時?」


 午前十時二十二分。つまり午後一時二十二分までに、俺は橘咲良に五秒以上、彼女の同意なく抱きついても構わないと地獄が判断している状況で、可能な限り倫理的に抱擁しなければならない。


 文章にすると余計に無理だった。


「方法はあるか」


「教えてあげてもいいけど〜」りりはポップコーンを再開した。「自分で考えた方が成長するじゃん?」


「成長している場合ではない。死ぬ」


「まあそれもそうか」りりは少し考えた。本当に少しだけ。「あの人、今日なんかあるよ」


「なんかとは」


「見てればわかるよ。たぶん」


 たぶん、というのがまた引っかかった。



 橘咲良を観察することにした。


 観察、と言うと聞こえはいいが、要するに動向を追うということだ。二十人の会社でそれをやると不審者になる可能性があったが、死ぬよりはましだった。


 十時三十分。デスクで電話をしていた。明るく話している。いつも通りに見えた。

 十時五十分。コピー機の前で後輩と話していた。笑っていた。えくぼができていた。

 十一時十分。給湯室に向かった。俺は書類を持って自然な流れで同じ方向に歩いた。自然ではなかったかもしれない。


 給湯室に入ると、橘咲良はコーヒーを淹れていた。俺に気づいて「あ、厄神さん」と言った。名前で呼んだ。これが親しみやすさの正体だ。


「コーヒーですか」


「そう。今日ちょっとしんどくて」


 しんどい、と言った。笑いながら言った。ただ笑い方がどこか違う。


 スキルが反応した。


 これはコーヒーを飲みたいわけじゃない。


 根拠はない。ただそう思った。


「何かありましたか」


 踏み込みすぎかと思ったが、口が先に動いた。橘咲良が少し止まった。コーヒーを持ったまま。


「……なんでわかるの」


「なんとなく」


 また同じ答えしか出てこなかった。橘咲良はコーヒーを一口飲んで、給湯室の壁を見た。


「担当してる取引先があってさ。先月からちょっとこじれてて。今日また連絡来て、たぶん先輩に報告しなきゃいけないんだけど、報告する前に少し落ち着きたくて」


「先輩というのは」


「営業部長。怖いってわけじゃないんだけど、なんか、ちょっと」


 言いにくそうに笑った。えくぼができた。


 時計を確認した。十一時十四分。残り二時間八分。


「厄神さん、急いでた?」


「いや、書類を持ってきただけです」


 シュレッダーにかけに来ただけで、別に急いでいない。


「ならよかった。なんかちょっと話しちゃった、ごめんね」


「いえ」


 橘咲良はコーヒーを持って出ようとした。出口で少し足が止まった。振り返った。


「厄神さんって、あんまり喋るイメージなかったけど、聞くの上手いね」


 そう言って出ていった。えくぼを残して。


 俺はシュレッダーに書類を入れながら、現状を整理した。


 橘咲良は今日しんどい。問題を抱えている。そこに俺が五秒以上抱きつかなければ死ぬ。


 最悪だった。

 前回の昼食より最悪だった。



 デスクに戻るとりりが待っていた。


「状況が最悪になった」


「え、なんで」


「あの人、今日しんどいらしい。仕事のトラブルを抱えている」


「あー」りりが言った。「そっか」


「そっかじゃない。そこに抱きつくのか、俺は」


 りりがポップコーンを止めた。さっきより長く止まった。


「……まあ、ミッションだから」


「ミッションだから、で済むか」


「済まないと死ぬじゃん」


「わかってる。ただ」


 ただ、の先が出てこなかった。俺には良心がある。死を回避するために動くが、良心もある。この二つが今日、初めて本格的にぶつかっていた。


 りりがポップコーンを一粒食べた。なぜかその一粒だけ、妙に丁寧な食べ方だった。


「ねえ」


「なんだ」


「あなたさ、しんどそうな人に声かけるの、スキル使う前からできてたじゃん」


「給湯室でのことか」


「そう。ああいう動き、できる人ってあんまりいないよ」


「何が言いたい」


「別に」りりはポップコーンを再開した。「ミッションの達成方法くらい、自分で考えられるんじゃないのって思っただけ」


 珍しく、観戦している雰囲気ではなかった。



 昼過ぎ、橘咲良が自席に戻ってきた。


 報告が終わったのだと思った。ただ様子が違った。歩き方が少し遅い。デスクに座って、パソコンを開いて、すぐに閉じた。スマートフォンを見た。見ただけで、何もしなかった。


 しばらくして、給湯室に向かった。


 時計を確認した。残り五十分。


 給湯室に入ると、橘咲良は蛇口の前に立っていた。水を出したまま、飲んでいなかった。ただ水の音を聞いていた。


 俺が入ってきた気配に気づいて振り返った。えくぼが出なかった。


「……厄神さん」


「お疲れ様です」


 蛇口を閉めた。


「報告、終わったんですか」


「終わった」短く言った。「怒られなかった。でも取引先に電話したら、『橘さんじゃなくて上の人に出てほしい』って言われた」


 俺は何も言わなかった。


「普通のことなんだけどね。よくある話だし」橘咲良はタオルで手を拭いた。「なんか、今日に限ってちょっとだけ、刺さった」


 スキルが反応した。


 今この人は、誰かに触れてほしい。


 根拠はない。ただそう思った。


「あの」


「うん?」


「その、ちょっと聞きにくいんですが」


「うん」


「えっと」


「うん」


「あの、俺が言いたいのは」


「うん」


 橘咲良が首を傾けた。待っている。待たせていた。俺は何かを言おうとしていたが何をどう言えばいいかわからなかった。「抱きしめてもいいですか」という文章は頭の中にあった。口から出す方法が見つからなかった。


 そのとき、給湯室の隅で何かが動いた。


 黒かった。

 触覚があった。

 速かった。


「っ」


 橘咲良が声にならない声を上げて、俺の胸に飛び込んできた。


 抱きついた、というより、しがみついた。両手でシャツを掴んで、顔を埋めて、足が少し浮いていた。


 俺は反射的に腕を回した。


 一秒。


 黒い何かはシンクの下に消えた。


 二秒。三秒。


 消えた。完全に消えた。もういない。


 四秒。五秒。


 俺は腕を回したままだった。


 六秒。七秒。


 橘咲良もしがみついたままだった。


 八秒。


「……いなくなりましたよ」


「……うん」


 九秒。十秒。


「いなくなりましたよ」


「……うん、知ってる」


 十一秒。


 離れた。


 橘咲良は真っ赤な顔をしていた。えくぼどころではなかった。


「今の、ゴキブリだよね」


「そうだと思います」


「私、得意じゃなくて」


「そうでしたか」


「なんか、ごめん」


「いえ」


 間があった。橘咲良がシャツを直した。俺もシャツを直した。


「なんかいろいろあったけど、すっきりした。なんでだろう」


 いろいろの中にゴキブリが含まれているのか取引先の件が含まれているのか、あるいは両方なのかは聞かなかった。


「よかったです」


「変な午後だったな」橘咲良は少し笑った。えくぼができた。「厄神さんって、なんか、変なタイミングでいるよね」


「そうかもしれません」


 橘咲良は笑って出ていった。廊下で後輩に声をかけながら歩いていくのが見えた。声がいつもの明るさに戻っていた。


 ぴろりんと音がした。


 お疲れ様でございます。ミッション達成が確認されました。報酬スキルを付与いたします。当該スキルの内容は「相手が今、触れられたいかどうかが直感でわかる能力」でございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


 今後ともよろしくお願いいたします、と書いてある。また続きがあるらしい。


 デスクに戻ると、りりがポップコーンを食べていた。


「同意、取れなかったじゃん」


「向こうから来た」


「それはそう」りりが言った。「でも離さなかったのはあなたでしょ」


 否定しなかった。


「抱きしめてる時間が長くなかった?久しぶりだった?」


 否定しなかった。


「それはさておき、スキル来た。相手が触れられたいかどうかがわかる能力らしい」


「なんか前のと繋がってるな」


「食べたいものと、触れられたいかどうか。どちらも相手の今の状態を読む系だ」


「そういうの、スキルもらう前から得意だったんじゃないの」


 りりがポップコーンを食べた。


「それで、達成したんでしょ」


「した」


「じゃあよかったじゃん」


 ポップコーンを食べた。話は終わった。


 翌朝、橘咲良が出社してきて「おはよう、厄神さん」と言った。ただそれだけだった。でもえくぼが、昨日より少し深い気がした。


 気のせいかもしれない。

 気のせいでないかもしれない。


 どちらでも、今日のエクセルには関係がなかった。



第二話 了

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