第4話 焦るな、二周目の僕
六歳のアルベールが最初にしたことは、医学書を読むことではなかった。
――焦るな。
前世の記憶が鮮明であればあるほど、その分だけ危険もある。まだ六歳の身体に、大人の知識と焦燥だけが詰まっている。周囲から見れば、それは「早熟」では済まされない異常に映るだろう。
アルベールは、まず自分を律することから始めた。
六歳らしく笑い、七歳らしく遊び、九歳になる頃にようやく、家庭教師に医学への興味を見せ始めた。前世の記憶に照らせば、それは十歳の頃に医学書へ手を伸ばしたのとほぼ同じ時期だった。
――ここは、変えなくていい。
急ぎすぎれば、周囲に不審がられる。かといって、前世と同じ速度では、間に合わない可能性がある。
その微妙な均衡を、アルベールは幼いながらに慎重に測り続けた。
◇◇◇
七歳の春、アルベールは母に連れられて、隣家であるヴァレンティア侯爵家を訪れた。
前世と、まったく同じ日だった。
庭のベンチに、本を抱えたエレノアが座っている。前世の記憶にあるままの、線の細い、けれど瞳だけは強い光を持った少女。
――エレノア。
込み上げてくるものを、アルベールは奥歯を噛んで抑え込んだ。今、感情のままに駆け寄れば、彼女はきっと戸惑う。まだ、何も始まっていない関係なのだ。
「はじめまして。アルベール・モンフォールです」
口にしたのは、記憶にある通りの言葉だった。
だが、心の中はまったく違った。
前世のアルベールは、ただ自然に隣に座った。今世のアルベールは、その「自然さ」を、意図して作り出している。
――同じことをすればいい。それでいいはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、アルベールはエレノアの隣に腰を下ろした。
「無理に起きなくていい。僕が座るから」
その台詞を口にした瞬間、喉の奥が締めつけられるように痛んだ。
前世では、この言葉のあとに、十年の月日と、ひとつの死が待っていた。
今世では、違う結末にする。
アルベールは、小さな拳を膝の上で握りしめた。
◇◇◇
それから数年、アルベールは前世と似た速度で、しかし前世とはまったく違う密度で、エレノアのそばにいた。
外の景色を伝えることも、庭で本を読むことも、表面上は同じだった。だが今世のアルベールは、前世では気づかなかった些細な変化――エレノアの顔色、呼吸の深さ、咳の頻度――を、常に注意深く観察していた。
十歳になる頃、アルベールは医学書を読み始めた。記憶の中の自分と、同じ時期に。
だが今世のアルベールには、前世の知識という圧倒的な「先取り」がある。
まず読んだのは、魔力循環に関する基礎理論。次に、魔力枯渇症についての既存の症例報告。前世で間に合わなかった分、今世では最初から的を絞って調べることができた。
だが、それでもすぐに壁にぶつかった。
魔力枯渇症についての記録は、断片的だった。治療法が確立していない。原因も特定されていない。前世で見た資料と、大きく変わらなかった。
――当然だ。まだ、誰も気づいていないんだから。
前世のアルベールが最後まで気づけなかった何かが、この病の裏に隠れている。今世でそれを見つけるためには、前世よりも早く、より深く、医学を学ぶ必要がある。
「何を読んでいるの?」
庭で、分厚い本を抱えたアルベールに、エレノアが尋ねた。
前世と、まったく同じ質問だった。
「魔力循環についての本。……君の病気のことが、少しでも分かればと思って」
記憶の中と、同じ返事。
だが今世のアルベールは、そこに一言だけ、前世にはなかった言葉を静かに付け加えた。
「今度こそ、ちゃんと分かるようにする」
エレノアは少し不思議そうな顔をした。「今度こそ」という言葉の意味を、彼女はまだ知らない。
「今度こそ?」
「……独り言だ。気にしないで」
アルベールは目を伏せ、本のページをめくった。
この瞬間、彼女に前世のことを話すつもりはなかった。話したところで、彼女には理解のしようがない。それに何より――前世の記憶を背負わせることは、エレノアにとって新しい重荷になるだけだ。
だから、アルベールは一人で背負うと決めていた。
◇◇◇
この頃、アルベールは並行して、医学院への進学準備も進めていた。次男という立場を利用し、家督を継ぐ兄への配慮という名目で、医学の道への理解を両親から得た。前世では、この進学はもっと後にずれ込んでいた。今世では、二年早い。
わずか二年。だが、その二年が、どれほどの違いを生むか、アルベールには分からなかった。分からないからこそ、一日も無駄にしたくなかった。
十四歳の冬、両家の間で、それとなく将来の話が交わされるようになった。
前世であれば、この時期にはすでに正式な婚約が決まっていた。だが今世のアルベールは、あえてそこに踏み込まなかった。
エレノアの父から、それとなく水を向けられたこともある。
「アルベール君、そろそろ二人のことを、正式に――」
「まだ、早いと思います」
アルベールは、丁寧に、しかしはっきりと答えた。
「僕の気持ちは変わりません。ですが、婚約という形は、エレノア自身が望んでからでも遅くないかと」
エレノア父は、少し意外そうな顔をした。この優秀な少年が、これほど良い縁談を自ら遅らせようとするとは、思っていなかったのだろう。
だがアルベールには、明確な理由があった。
前世では、婚約という約束が先に存在した。だからこそエレノアは、「婚約者だから、彼はそばにいるのだ」と、どこかで思い続けていたのではないか。義務としての献身と、自分の意思としての愛情を、彼女自身、最後まで区別できなかったのではないか。
今世では、それを繰り返したくなかった。
社交界では、二人の関係は誰の目にも明らかだった。
「あの二人は、いずれ結ばれるのだろう」――誰もがそう思っていた。ヴァレンティア家とモンフォール家の間には、暗黙の了解のようなものが、確かに存在していた。
だが、正式な約束はない。
その夜、庭でエレノアと二人きりになったとき、アルベールは静かに口を開いた。
「僕が、君といたいんだ。それだけだよ」
その先に、今世では「婚約」という約束が続かない。
「どうして、婚約しないの?」
エレノアが、不思議そうに尋ねた。父から聞いたのだろう。
「お父様は、あなたが望んでいると思っていたのに」
「望んでいるよ」
アルベールは、迷わず答えた。
「でも、それとこれとは別だと思ってる。……本当に、それだけなんだ。君の病気とは関係ない。もし君が明日、すっかり健康になったとしても、僕は同じことを言う」
「だったら、どうして――」
「婚約は、僕が決めることじゃない」
アルベールは、エレノアの目をまっすぐに見た。
「僕が君といたいと思うことと、君が僕を選ぶことは、別のことだ。僕は、前者しか決められない。後者は、君自身が決めることだと思ってる」
エレノアは、少しの間、言葉を失っていた。
誰もが「当然」だと思っている関係の中で、アルベールだけが、その「当然」を急がなかった。理由をうまく飲み込めないまま、エレノアはただ、彼の横顔を見つめていた。
窓の外では、前世と同じ冬の月が、静かに二人を照らしていた。
だが、この夜から先の未来は、もう前世とは違う道を歩み始めている。
アルベールは、そう確信していた。




