第3話 僕は君に縛られていない
その冬、エレノアの容態は急速に悪化した。
十七歳になったばかりだった。婚約から三年。結婚の話も、両家の間で具体的に進み始めていた矢先のことだった。
医師たちは口々に、はっきりしたことは言わなかった。ただ、誰の顔にも同じ諦めの色が浮かんでいた。魔力循環がうまくいかない。原因は分からない。対症療法しかない。ここ数十年、変わらず繰り返されてきた診立てだった。
アルベールは、当時まだ学生の身分だった。正式な医師ではない。診断も、治療方針の決定権も持たない。彼にできたのは、屋敷の書庫と医学院の図書室を往復して、片っ端から症例を読み漁ることだけだった。
似たような症例を探した。魔力枯渇症の記録、魔石療法の記録、原因不明のまま改善した記録。だが、それらは断片的で、体系化されていなかった。誰一人として、それらを一つの疾患として繋げて考えた者はいなかった。
時間が、圧倒的に足りなかった。
「アルベール」
窓辺の椅子で、うたた寝から覚めたアルベールに、エレノアが小さく声をかけた。
「……起こしたか」
「ずっとそこにいたの?」
「うん」
当たり前のように頷くアルベールに、エレノアは小さく笑った。もう、以前のような血色は戻らない。頬はこけ、唇にも色がない。それでも彼女は、いつものように穏やかに笑おうとした。
「勉強、進んでる?」
「進んでる。……あと少しなんだ」
嘘だった。あと少しでは、なかった。アルベールは自分でもそれを分かっていた。だが、それ以外の言葉が見つからなかった。
「もう少し待ってて。必ず、治す方法を見つける」
エレノアは何も答えなかった。ただ、少しの間、窓の外を見つめていた。庭の薔薇は、もう何年も彼女の目に映っていなかった。窓辺まで来ることすら、今のエレノアには難しかった。
「……ねえ、アルベール」
「なに」
「もし、私が治らなかったら」
「治る」
食い気味に、アルベールは言った。声に力を込めすぎて、少し掠れた。
「治るよ。だから、そんなこと」
「聞いて」
エレノアの声は、静かだったが、はっきりしていた。
「もし治らなかったとしても、あなたは、ちゃんと自分の人生を生きて。私のために、時間を使いすぎないで」
「エレノア」
「私、ずっと考えてたの。あなたは、こんなに優秀なのに。次男だから家督もない。だから、自由に生きられたはずなのに。……私のせいで、ずっとここに縛りつけてしまっているんじゃないかって」
「違う」
アルベールは即座に否定した。だが、その先の言葉が、いつものように出てこなかった。
――僕は縛られてなんかいない。僕自身が、君を選んでいるんだ。
そう言おうとした。何度も、喉元まで出かかった。だが、エレノアの弱々しい呼吸を前にすると、その言葉はいつも、行き場を失って消えてしまう。まるで、今それを言うことが、彼女に対する押しつけであるかのように感じてしまう。
アルベールは、代わりにただ、エレノアの手を握った。
その手は、以前よりもずっと軽く、冷たかった。
◇◇◇
春の初め、エレノアは静かに息を引き取った。
その数日前、意識がまだはっきりしていたある夜、彼女はアルベールの手を握りながら、こう言った。
「アルベール」
「……なに」
「ありがとう。ずっと、そばにいてくれて」
「エレノア……」
「ごめんね。私にずっと縛り付けてしまって」
その言葉を聞いた瞬間、アルベールの中で何かが崩れた。
「違う。僕は――」
僕は君に縛られていたんじゃない。僕自身が、君を選んでいたんだ。
そう言おうとした。だが、エレノアはもう、ゆっくりと目を閉じていた。まるで、長年抱えてきた罪悪感を、ようやく言葉にできて安堵したかのように。
その安堵した表情が、アルベールにはたまらなく苦しかった。
彼女は最後まで、自分が「縛っていた側」だと思ったまま逝ってしまった。
アルベールがどれだけそばにいたかったか。どれだけ自分の意思で、彼女を選んでいたか。それを、最後まで、正しく伝えられなかった。
葬儀の日、アルベールは誰の前でも涙を見せなかった。
ただ、屋敷に戻ってから、一人で医学書の山の前に座り込み、何時間も動かなかった。
――間に合わなかった。
その事実だけが、鉛のように胸の底に沈んでいった。
もし、もう一度やり直せるなら。
もし、もう一度、あの子に出会えるなら。
今度こそ、間に合わせる。
今度こそ、伝える。
僕は君に縛られていたんじゃない。僕自身が、君を選んでいたんだと。
そして、健康なあなたにも、それでも僕を選んでもらえるように――
その願いが、どこかに届いたのかどうかは、分からない。
だが、次にアルベールが目を開けたとき。
そこは、六歳の自分の部屋だった。




