第2話 僕が座るから
ヴァレンティア侯爵家の一人娘、エレノアが初めてアルベールと出会ったのは、彼女が七歳の春だった。
庭の隅、日当たりの良いベンチに寝かされて本を読んでいたエレノアのもとに、隣家の侯爵家から来たという少年が、母親に連れられてやってきた。
「はじめまして。アルベール・モンフォールです」
きちんと頭を下げる少年に、エレノアは少し驚いた。年の近い令息たちは大抵、病弱な自分を遠巻きにするか、憐れむような目を向けるかのどちらかだった。けれどこの少年の目には、そのどちらもない。
ただ、まっすぐにエレノアを見ていた。
「……エレノア・ヴァレンティアです」
起き上がろうとして、小さく咳き込む。すぐに侍女が駆け寄ろうとするのを、アルベールが手で制した。
「無理に起きなくていい。僕が座るから」
そう言って、エレノアの隣にごく自然に腰を下ろした。特別なことをしている顔ではなかった。ただ、そこにベンチがあって、隣に座るのが一番自然だから座った、というような顔だった。
それが、二人の始まりだった。
◇◇◇
それから、アルベールは月に何度も、ヴァレンティア邸を訪れるようになった。
庭で一緒に本を読むこともあれば、エレノアの体調が悪い日は、ただ寝室の窓辺に座って、外の景色を教えてくれることもあった。
「今日は、薔薇が三輪咲いていた」
「庭師が新しい苗を植えていたよ。冬には花が咲くらしい」
エレノアが自分の目で見られないものを、アルベールはいつも言葉にして持ってきてくれた。まるで、外の世界と彼女を繋ぐ細い糸のように。
やがてアルベールが医学書を読み始めたのは、十歳になる頃だった。
「何を読んでいるの?」
分厚い本を抱えたアルベールに、エレノアが尋ねたことがある。
「魔力循環についての本。……君の病気のことが、少しでも分かればと思って」
あっさりとそう言われて、エレノアは何も言えなくなった。次男であるアルベールに、家業のような義務はない。それなのに彼は、誰に頼まれたわけでもなく、彼女のために分厚い医学書を積み上げていた。
「そんなに勉強しなくても……」
「したいからしてるんだ。それに」
アルベールは本から顔を上げ、少しだけ笑った。
「治療法が見つかったら、君と一緒に遠くまで出かけられるようになるだろう。海とか、山とか。……そういうのを見たいんだ、僕は」
僕は、という言葉に、エレノアの胸の奥が小さく疼いた。
彼はいつも「君のため」ではなく「僕がそうしたいから」という言い方をする。それがエレノアには、少しだけ苦しかった。
◇◇◇
十四歳の冬、二人の婚約が正式に決まった。
両家にとって、それは自然な流れだった。幼い頃からの付き合い、家格の釣り合い、そして何より、アルベール自身の強い希望があった。
「本当に、私でいいの?」
婚約が決まった夜、エレノアはアルベールに尋ねた。
「私、こんな身体だから……アルベールの人生の、足枷になってしまうかもしれない」
「足枷なんかじゃない」
アルベールの返事は早かった。迷いのかけらもなかった。
「僕が、君といたいんだ。それだけだよ」
その言葉は、確かに嬉しかった。けれど同時に、エレノアの中には小さな棘のように、ある考えが根を張り始めていた。
――アルベールは優しいから、そう言ってくれるだけなのかもしれない。
――本当は、もっと自由な人生を歩めたはずなのに。
夜会にも出られず、遠出もできず、いつ床に伏せるかも分からない自分。そんな自分の隣に、健康で優秀な彼を縛りつけてしまっている。そう思うたび、エレノアは笑顔の裏で、少しずつ自分を責めるようになっていった。
アルベールがそれに気づいていたかどうかは、分からない。
彼はただ、エレノアのそばにいることをやめなかった。医学の勉強の合間を縫って会いに来て、新しい治療の可能性を探し、それでも上手くいかない日は、黙って彼女の手を握った。
その手の温度だけが、エレノアにとって唯一、疑いようのない真実だった。
けれど頭の中では、いつも同じ声が響いていた。
――ごめんね。私のせいで。
その言葉は、まだ声になっていなかった。だがそれは、確実に、二人の未来へと近づいていく足音でもあった。




