第5話 触れそうな静けさ
伏見に案内され、佐伯は静かな通路を歩いた。
照明は柔らかく、影を強く落とさない。
空気は寒くない程度に少し冷たく、呼吸が自然と整う。
「こちらが霧島のブースです。
少しお待ちくださいませ。」
伏見が立ち止まった。
その声は、俺の胸の奥の痛みを
乱さないための最小限の響きだった。
佐伯は、深く息を吸った。
胸の奥がわずかに震えた。
緊張ではなく、期待でもなく──
“何かが変わるかもしれない”
という予感だった。
伏見が扉を軽く叩く。
「霧島、“紹介なしの顧客”だ。……頼む。」
そういって伏見は扉を開け、
佐伯に一礼し下がってゆく。
中から、静かな声が返ってきた。
「おや……分かりました。
お待たせいたしました、どうぞお入りください。」
その声は、低くて、揺れが少なくて、
まるで深い湖の底に響くような静けさを持っていた。
扉の向こう――”霧島のブース”は
なんと森林で、
鳥のさえずりや小川のせせらぎが聞こえ、
東京23区にいることを忘れそうになるほど
澄んだ空気と、深く濃い静けさだった。
室温はブース外と同じくやはり少し低く、
しかしその中で
少し温かみを感じる淡い木漏れ日が、佐伯を照らした。
空気がゆっくりと流れているような空間。
そして──霧島奏人がいた。
スッと通った鼻梁、優しげな目元。
細い体躯。
まっすぐに伸びた背筋。
細さに比例しない落ち着きのある佇まい。
感じたことのない静けさ。
佐伯は息を飲んだ。
顔が熱い。耳まで熱い。
鏡で見たら茹で蛸のように赤らんでいるに違いない。
初めての経験に、自分の反応にうろたえた。
「安心してください。
私たちキャストのブースからは、
お客様のお顔やお姿は見えません。
そこにいらっしゃるな~、
少し身動きされたな~、
くらいの影は見えますけれどね」
霧島は、佐伯の方に一瞬で視線を合わせてきた。
その一瞬で、霧島の空気が変わった。
佐伯の姿は見えていない
と言った霧島のまなざしが、
わずかに深くなる。
いやな感じではない。
でも、静けさの奥が少しだけ動いた感じがした。
霧島は、
佐伯の影があまりにも震えていることに
――佐伯の痛みに共鳴してしまっていた。
ざあっ、と、木々が風に揺らされる。
木漏れ日が動く。
…しかし、
自分のことで手いっぱいの佐伯は、
霧島やブース内の変化に気づかない。
「……こんばんは、初めまして。
俺は霧島奏人と言います。
お声をかけさせていただきたいので、
お呼びしてよいお名前を教えていただけますか。」
霧島の声は低く、落ち着いている。
しかしその声が佐伯に届いた瞬間、
佐伯の胸の奥は“寄って”しまう。
寄る。
懺悔したい人間が、“救われたい方向”へ寄る。
佐伯はその自分の心の動きに気づかない。
ただただ胸の奥が熱くなる。
今にも全て決壊してしまいそうなほどに。
霧島は、
佐伯の影からあふれんばかりの痛みを感じて、
ほんのわずかに呼吸を整えた。
対等な心の受け取り手、
または対等に心を差し出す者。
「ジュエル」としての
静けさを保つための、小さな準備。
「……ゆっくりで、かまいません。」
穏やかそのものではあるが、
何の変哲もない平凡な一言だった。
しかし佐伯には、まるで福音のように
全身に響き渡った。
言いたいことがあるのに、
言葉にならない。
まずは名前を伝えたいのに。
そして…そして、美咲に嘘をついていたことを…
この人に…聞いて…ほしいのに…
言葉ではなく嗚咽が漏れそうになる。
涙があふれそうになる。
霧島は待った。
空気を乱さないように、
ただ静かに待った。
その静けさが、
佐伯の胸の奥をさらに寄らせた。
―――この人を、選びたい。
この人に、許されたい、救われたい。
自分がこの人のたった一人であってほしい―――。
佐伯は、口を開きかけた。
しかし息のような嗚咽が出るばかりで言葉にならなかった。
霧島は、微笑みながら
ほんのわずかに首を傾けた。
「言葉にならなくてもいいですよ」
という仕草だった。
その優しさが佐伯の胸の奥をさらに寄せていく。
その瞬間──伏見から霧島宛にメッセージが届いた。
『……霧島。今日はその辺りにしておこう。』
佐伯がわずかに振り返る。
音もなく戻ってきていた伏見が、
佐伯の肩に手を置いていた。
佐伯は驚いたように伏見を見る。
伏見は佐伯の表情を見ながら言った。
「佐伯様。
貴方のお心は、今とても
脆い状態でいらっしゃるかと思います。
このまま続けるのは……
霧島も揺れてしまいます。」
霧島のまなざしが、ほんのわずかに揺れた。
…揺れる、って何なのだろうか?
その疑問も言葉として伝えられない佐伯。
佐伯は自分自身に手いっぱいで気づかない。
しかし霧島は自分の変化に気づいている。
伏見も霧島の変化をはっきりと見ていた。
霧島は静かに告げる。
「……どうか、またいつでもお越しください。
その時俺に会って下さると嬉しいです。
お話ができてもできなくても、俺は、嬉しいです。
あなたの言葉が、心が、整う日が、
きっと来ます。」
歓迎の気持ちを表すように
霧島は両手を広げ、
そして胸元に寄せ、瞼をそっと閉じた。
ゆっくりと開かれた双眸は、
少し熱を孕んでいるようにも見える。
小鳥のさえずりが聞こえる。木漏れ日が暖かい。
霧島の胸にあるその手が、
佐伯の胸の奥に静かに触れた気がした。
―――ああ。やはり―――
俺は、
この人を選びたい。―――
佐伯は結局一言も発せなかったが、
霧島に救われたような気がした。
そうして、
伏見に誘われてブースを退室する。
伏見が扉を閉める。
霧島のまなざしが最後にわずかに揺れた。
佐伯は、やはり気づかなかったけれど。
それが──
霧島奏人と佐伯誠の心が
初めて“触れそうになった”瞬間だった。




