□33 捕虜
見渡す限り屍で埋め尽くされた光景。血でごわごわになった雑草が、わびしく風に揺れている。折れた旗、地面に突き刺さった槍、そして苦しそうに曲げられた指の形のまま、突き上げられた腕。それら戦場の荒廃すべてを、真っ赤な夕陽が照らしている。
初夏の陽気のせいだろう、早くも傷みはじめた死体が放つ匂いで、戦場跡はむせ返るような空気に満ちている。口元を何重にも巻いた布と鉄兜のせいで、食人鬼のごとき容貌をした者どもが、死体の間を這い回り金目のものを探す。食人鬼の一人が死体をひっくり返すと、赤い甲冑に身を包んだ魔術師が現れた。食人鬼は喜び勇んで、高価そうな甲冑をはぎとろうと甲冑の継ぎ目に刃物を押し当てた。
ブツリ、と音を立てて、甲冑が蟹の甲羅のように割れた。勢い余って刃物が死体のわき腹を切り裂いたが、何の注意も払わなかった。既に死体なのだから、抗議を受ける心配もない。
「う……ん」
小さなうめきが鼓膜を打った瞬間、食人鬼の動きが止まる。彼は血脂で薄汚れたゴーグルを額にずらすと、赤い甲冑の女魔術師を念のために蹴飛ばした。すると女はまたうめいた。「おい、こいつぁ……」
「どうした?」同僚たちが死体に足をとられながら集まってくる。
「ああ、なんか生きてるっぽいな、こいつ」
「ふうん」同僚はどうでもよいとばかりに曖昧に相槌を打つ。一方、ある同僚は正論を持ち出す。「うちのノード、生存者は捕虜にするように命令してたぞ」
「そんなのサルベージの仕事じゃないな。負傷者なんか捕虜にしてもすぐ死ぬ。殺しちまうのが慈悲ってもんさ。ほら、この剣で心臓を刺してやれよ」
「まあ、そうだな」回収品でいっぱいの背嚢から、一本のレイピアが抜き取られた。食人鬼がそれを高く掲げたそのとき、会話に第三者が割り込んだ。
「いんや待ってくんろ!」太った男が、息をきらせてヨタヨタと駆け寄った。「良く見せてくれ。ほうほう」男は冗談じみているほどの重度のガニ股になり、赤い甲冑の魔術師の上にかがみこんだ。「べっぴんさんじゃなのよコレ。おっひょお」奇妙な擬音語を繰り返して叫ぶ男の目は、小動物のように黒目がちで小さく、眉間の幅は奇妙なほどに広い。
「……そいうかい」食人鬼たちは、適切な言葉を見つけられずに短く答えた。見下ろせば、血で汚れたリネン・アーマーが、女魔術師の豊かな胸に貼りついている。薄気味悪い闖入者が主張する通り、確かにべっぴんさんのようだった。
薄気味悪い太った男が奇声をあげる。「うっひょうっひょ。ほひょー! これオラがもろた」
「もらってどうすんだよ……」
「ひょ? 決まってんべ。おもちゃおもちゃ、うっひょ。腸抜いてから塩まぶすとけっこう保つんだあ。オラァ穴だけありゃええからよお」
「……」黙りこくる男たち。やがて、その中の一人がこう言いだした。「ノードの指示に従おうか。俺たちでこいつを担いで運ぼう」「ああ、手伝うよ」男たちは一斉に作業にかかった。
「ひょ? なんだい、つまらん。気んもちエエんだどぉ」太った男は死体を避けて歩くために千鳥足になりながら、他の獲物を求めて去っていった。
その姿が小さくなった頃、男たちはささやきを交わした。「あの薄気味悪いのも帝国亡命者なんだろ?」「そうらしい。あまり喋ったことないけどね。あいつ、なんで帝国にいられなくなったんだろうな」「なんかヤバイことでもやらかしたんじゃないのかね」「だな」「しかし、世の中には変なやつがいっぱいいる」「まったくだ」男たちはこのとき、死体から金目のものを漁るというきつい仕事でも、ついぞ感じたことがない戦慄を、はじめて覚えたのであった。
◆
総勢20万を超えた帝国侵攻軍のうち、生き残っているのはわずかに6万余りだった。そのうち魔術師は2万あまり。デフレクトに逃げたおかげで、歩兵よりも生存率が高かったのだ。歩兵は捕虜になったいま、野外に設置された、雨風を申し訳ばかりに遮る粗末な天幕の下で、敗残兵の悲哀を醸し出している。一方、将校や応召した魔術師たちは、尋問に備え、頑丈な牢に小入けにして収容されていた。
◆
有難く思うべきだった。帝国が一度として示したことのない温情を、示してくれるテクサカに対して。帝国軍がこれまで尋問目的以外に捕虜をとったことなど記録にないし、捕虜をとること自体が軍務の範囲外のことだった。むしろ処罰の対象になってしかるべき、とすらみなされていた。なぜなら捕虜をとれば、その役立たずのための糧食が必要になる上に、常に監視する手間も必要だからだ。逆の立場ならば、帝国はテクサカ兵を養うだろうか? そんな状況は想像もできない。
――それなのに……こんなにおいしいお食事まで……おいひい……。
彼女は噛みとった肉のかけらを飲んだ。プラチナに近い髪が顔にかかり、その表情は見えない。咀嚼もそこそこに、次々とメガマウスの肉を飲み込むその姿に、かつての面影はない。
アクターボに大量に生息しているメガマウスは、黒くて丸い耳が特徴的で、子供の身長ほどの大きさ。肉は旨み成分たっぷりで美味だ。だが問題もある。それは、メガマウスが有毒種である点だ。それゆえアクターボの蛮族ですら、メガマウスを絶対に食べようとしない。これの血液に含まれるある種のアルカロイドが、意識障害を誘発し、しかも摂食習慣性まで有するからだ。つまり麻薬みたいなものだ。
このマウスは簡単にいくらでも捕獲できる。余計者の敵軍捕虜の当座の食料としては最適かもしれない。それに、このメガマウスには今回に限り役立つ利点がある。捕虜の逃亡を予防できるのだ。
将校ばかりが閉じこめられた牢は、岩を削った洞窟に、頑強な鉄の柵で蓋をしたものだ。だが、いくら頑丈とはいえ、人の手では壊せなくとも魔術師ならば牢そのものを破ることは難しくない。脳が溶けたような状態でさえなければ。
本来強大な力を持つ魔術師たちは、牢の中で生かさず殺さず、メガマウス中毒でぼんやりと壁をみつめたり、何かを呟いたりしている。エリアスも同様だった。ときに分別の囁きが意識に昇ってくることがあっても、それは長続きしなかった。メガマウスのもたらす幻覚が、耳をくすぐるこそばゆい羽毛さながら、常に心の大半を奪っていた。
鉄柵の下に設置された小さな出し入れ口から、新たな食事が放られるやいなや、牢の全員が肉を争って引きちぎった。彼らが湯気の立ち昇る内臓をむさぼり食っているとき、もはや腹が減っているのか否かはどうでもよかった。とにかく例の肉を飲み下し、胃に詰めることしか考えられない。考えられない、考えられない、考えられない――。
牢に放り込まれてどれだけの時間が経ったことだろう。エリアスは不意に、自分が平凡な人間よりもはるかに高尚なフィールドに立っていることを自覚した。同時に、世界が止めようもなく傾き始めていることにも気がついた。洞窟に幽閉されたお仲間も同様なのか、「フウー」「マー」と意味不明な叫び声をあげた。エリアスは、じめじめした地面一面に、大酒飲みの鼻先にも似たいやらしい赤い茸が、にわかに密生したような気がして、たまらず悲鳴をあげた。「マー!」
おや、また誰かがわめいている。それとも自分がわめいているのか? どちらだか、もう区別がつかなかった。甘く野蛮な響きが呼び交わされ、洞窟の壁に反響して更に重なり、わんわんと高く低く強烈に、心を奪う宗教音楽を奏でた。
「気の強そうな顔をして、本当はマゾなんれすぅ。本当は周りに振り回されるのが、大好きなんれすぅ」心そそる舌足らずな叫びが、遠くから、喘ぎ声を伴奏にして、せつなく響いた。きっと、誰かが神に告白でもしているのだろう。
湿った藁の臭気が喉をふさぎ、エリアスはむせた。どこか未知の国から漏れ伝わったような、ドコドコと刻む原始的で力強いビートが、刃のように意識を細切れにしていく。エリアスはごろりと横になって、とろんとした瞳で天井を見上げた。そこには、確かに神がいた。エリアスは震える腕を頭上に掲げた。神に腕がずっぽり埋もれ、暖かな実在が彼女の腕を通して一つになった。その安らぎに満ちた空間には、行動を縛る柵もなければ、他者との比較も優劣もなかった。つまりは、苦しみの概念が失われていた。フォーやグレアのように、思考もなく平穏で――ただ事実だけが、ぽっかりと確実な存在感を示し――手に取られるのを待っていた。エリアスはそっと手を伸ばし、それが哀しく歌うのに耳を傾けた。
「わたしだけのイノチなんていりゃないの。おとうしゃま、わたし、もう、ひとちゅのじかんにしばりゃれるのに、もうたえりゃれない」精神は目も眩む高さに舞い上がってゆく。「たえるじしん、にゃいよう。ヨゥ――ひとりぼっちは――いやぁ」