□34 裏切り
眠りから目覚めるときと同じように、夢うつつの段階から徐々に浮上するのに似ている面もある。が、大いに異なる面もある。耄碌した老人の意識がときに冴え渡るように、ある瞬間、短時間だけ正気に返ることがあるのだ。それがメガマウスによる意識障害からの回復期の症状だった。
老人の意識が人生の宵闇へと止めようもなく沈んでいき、最終的に忘却の深い闇夜にのみこまれてしまうのとは対照的に、エリアスの意識は次第にはっきりと、着実に明晰さを取り戻していった。
――なにかしら、ひどい匂い。
それが、最初に感じたことだった。口の中もひどい味で、泥でも食べさせられたかのよう。岩の天井から一定間隔で垂れる水滴が、ポツポツと耳元で時を刻む。しかし束の間の明晰さは、無垢の銅に似てすぐに曇った。銅に閉じ込められたエリアスは、黒い曇りに追われて、狭い一画に撤退する。やがて銅の全体が濁り、意識にまで渦巻く黒が侵入してくる。黒い耳の、どこかユーモラスな顔をしたメガマウスが、彼女の腕にしがみついて「シューシュー」と笑った。それはガパリ、と口を開け、エリアスの腹に噛みついた。
――もうこれ以上、私の中に入ってこないで!
エリアスは首を激しく振って、メガマウスを追い出そうとした。ぶんぶん、ぶんぶん。耳や口から、にやにや笑うメガマウスや、のっぺらぼうのグレアがポロポロと零れ落ちて――。
「おい、4番が正気に返ったぞ」
エリアスは痛む首を回し、声の主を探った。視界はぼんやりと霞んではっきりせず、船酔いのような猛烈な吐き気が襲う。
「はいはい、4番ね。オル、あっちに連れてって」
ドワーフにしてはすらりとした体型の、オルという名らしい男が、エリアスの腕をつかんで引っ張った。
硬いベッドから転がり落ちるエリアス。「いちゃあ、そんにゃにひっぱりゃないて(嫌、そんなに引っ張らないで)」
オルはあまり我慢強いタイプではないらしい。いまいましげに舌打ちする。「チッ、立て、キリキリ歩け」
はじめは力がはいらずにガクガクしていたエリアスの足は、次第にしっかりと地をつかむようになった。それでも、歩くという簡単な作業が、とても難しく思えた。どこまでも続くようなトンネルを抜けると、やがて明るい空間に出た。あまりの明るさに目がくらみ、片手で光を遮った。
「お目覚めかな」
その低い声には聞き覚えがあった。ゆっくりと光に慣れたエリアスは、眩しそうに部屋を見渡す。そこは緑色一色の部屋で、鉄鋲が打たれた頑丈そうな鉄扉がエリアスの背後に1つ、向かいの男の背後に2つあった。
「そこに座らせろ」
ドワーフがエリアスを軽々と持ち上げ、椅子に落とした。そのときになって、足首と手が鎖で結ばれていることにはじめて気付いた。
「君の所属と氏名をいいなさい」
「……デラー総司令?」
フェニックス・ブラッド・デラーが机の向かいにいた。こぎれいな服を着て、髪はしっかりと梳かしつけられている。
「いいか、君の所属と氏名だ」
「辺境領北部タイル。ヒ、ヒレンブランド連隊……いったいどういうことでしょうか」なぜフェニックスがここにいるのか。目の焦点が合うかのように、現実がにわかにはっきりした形を持った。エリアスの頭を覆う霧が、あらかた吹き飛ばされ、腹の底から怒りが噴出する。「どういうことですか。我々は捕虜になったはず。総司令、あなたはなぜここにいるのでしょうか」
フェニックスは聞き分けのない子に対するような、苦笑い含みの声色でいう。「命令だよ、早く所属を明確にしなさい」
「お断りします。我々が捕虜になった時点で、帝国の規定する軍法の埒外にあります。捕虜になった際の古い法はテクサカには適用されません」
フェニックスははじめてエリアスの顔を直視した。彼の声音が冷気を帯びた。「捕虜になった際の法はテクサカにも適用する。一般的には反乱軍捕虜ですら、自らの名は名乗る義務がある。なあ、頼むよ、私は君たち将校を我が国に受け入れるか、それとも矯正収容所に送るか選別しなくてはならないのだよ。最低限の礼儀を示すのが賢明だと、忠告しておこう」
――我が国。
エリアスは無表情になった。「テクサカとの間にはいかなる国際法も存在しませんし、いかなる習慣法もありません。あなたが先ほど指摘した義務なるものは、単なるガイドラインでしょう」
「なに!」フェニックスが声を荒げた。
だがエリアスはフェニックスと視線も合わそうとしない。その上でポツリとつぶやいた。「あなたの忠誠心はどこにあるのかしら」
椅子が引っくり返った。「貴様ぁ! 耳引っこ抜くぞこらぁ!」
デラーの両脇で成り行きを眺めていた男女が、口を挟んだ。「デラー収容所顧問、まあ落ち着いてください。彼女は混乱しているのですよ」恐ろしく美形のエルフ男性と大柄な人族女性は、和やかな笑顔をみせている。
そのうち、男の方がエリアスに話しかけてきた。「あなたの仰るように、テクサカとあなたがたの国との間にはいかなる国際法もありません。よって、あなた方の処遇の決定権は我々の任意で決まります。さて、そこで質問です。あなたの名前を仰ってくださいますか」
わずかな沈黙ののち、エリアスは返答した。「……エリアス。エリアス・ヒレンブランド」
「所属連隊と同名なのね」大柄な女が確認する。
「ええ。帝国北部辺境、ヒレンブランド領の第1継承者です」
「なるほど」美形の方が何かを紙片に書きこむ。「正直に答えてくれましたね。我々の情報とも一致しています。さて、いささか唐突かと思いますが、耳を傾けてくださることと信じて申し上げましょう」
話の流れる方向がわからず、エリアスは石のように身を硬く緊張させ、冷たい視線をエルフ男性の秀でた額に向けた。
「我々は歴史的な経緯から敵対関係にあります。しかしその関係が必然的なのかをじっくり考えて頂きたい。そのための基礎となる情報を提供したい」
エリアスはまだ黙っている。
「あなたには選択肢があります。どの道を選ぶにせよ学んで頂きますが、それを強制されるのではなく自主的に自由な環境で行いたいならば、テクサカは交流客員としてあなたを受け入れます」
ここでデラーが割りこむ。「安心するがいい、軍機情報の供与などはしなくてもよい。客員として仮釈放の待遇を受けるメリットは大きいぞ。一定の待機期間はテクサカに抑留されることになるが、やがて帝国に帰還できるだろう」
驚くほどゆるいテクサカの捕虜処遇に、エリアスは驚いていた。
フェニックスは続けてべらべらと話した。「脱獄など考えないことだ。帝国の余命がそう長いとは思えないからな。それよりも、いまテクサカに貢献する道を選んだ方が利口だぞ。帝国はいずれテクサカの一地方になるのだからな」
呆れて声もでないエリアス。「あなたは……」
「このテクサカでは信教の自由が保障されている。よってオムニ教を捨てる必要もない。魔王様の御慧眼よ。そうだ、こう考えればよい。帝国においては、不透明な権力闘争の結果として選ばれる皇帝を、我々は頭上に戴くように強いられてきた。これからは、ちょっとばかり毛色の変わった皇帝の下で生活すると考えてみたらどうかね。人でも魔でも、どちらでも良いではないか。よーく感覚を研ぎ澄ませて時代の風を感じてみたまえ」そう言い放つと、フェニックスはウインクしてみせた。
彼がまぶたの恣意的な動きで何を暗示しようとしていたのかはわからない。ただエリアスの胸中に残ったのは、利己主義の極致を鼻先につきつけられて生じた、吐き気だけだった。デラーを無視し、エリアスは裏切り者の両脇に座る男女の、瞳の中を見通そうと試みた。
エリアスが心に秘めた考えを、結構なものだと誉めるかのように、大柄な女がエリアスをみつめたまま小さくうなづく。
デラーへの敵意が、急速に帝国に対する羞恥心に変わってゆくのを、エリアスは感じた。こんな男が総司令だったのだ。ずっと軽蔑してきたテクサカの方が、はるかにまともではないか? エリアスは、こう口走っていた。「承知しました、交流客員になりましょう。何か宣誓書でも必要ですか」
「いいえ、何も。あなたの決断に敬意を表しますよ。交流客員になるには勇気が要るでしょうからね。これからは、もっと自由な環境に移ります。ただし、戦争が落ち着くまで、指定された領域からの外出は制限されます。なお、宿泊施設はこちらで用意します」
エリアスを口説き落として、自分と同じ裏切り者にしたのがよほど嬉しいのだろうか、ニヤニヤとした気持ち悪い笑みをはりつかせるフェニックス。
その肩を、美形男が軽く叩く。「さすが稀代の英雄フェニックスですね。今日はもう12人も転向しましたよ。これで魔王様もお喜びになるでしょう」
「うむ、そうか? いやいや私は一人のテクサカ人民として微力を尽くすまでだよ」と極めて上機嫌。
席を立ち、入ってきたのとは別のドアをくぐるとき、エリアスは帝国侵攻軍の元司令官を一瞬だけ見た。そして、諦めたように小さく瞑目した。
――滑稽というより哀れなものですね、フェニックス。あなたはまた不死鳥のように華々しく蘇るつもりなのかしら。あんなに一生懸命になって。利用されているだけなのに。
大柄な女がエリアスの鎖を引いた。「もうちょっとだけ、こんな扱いを我慢してね。明日の午前、本日分の交流客員はまとめて“宿泊施設”に移動します。今から浴室に案内しますから、そこの管理者の指示に従ってくださいね」
「浴室を使えるのですか? そう、よかった。ふふ、わたし、ひどい格好でしょう」そう自嘲するエリアスに対し、女は肩をすくめた。
「仕方ないわよ。それよりメガマウスの毒を抜かないとね。信じてくれないかもしれないけど、あんな扱いをしなくてはならなかったことは私たちも残念に思っているの。清潔になったら、次は食事なさい」
「わかりました」
――食事。
自分のどこかほの暗い奥底から、メガマウスを食らいたいという熱望がこみ上げるのを、エリアスは自覚した。同時に、薄暗い牢獄でむさぼった灰色の肉の記憶が蘇った。
――戻りたい。そして、あのお肉をいっぱい……。
エリアスはハッと我に返った。そして、自分が一瞬だが抱いた欲望に、鳥肌が立つ思いがした。あの汚らしい肉を食べたいだなんて、考えるのもおぞましいことだった。だが、頭ではわかってはいても、欲望そのものを消すことはできない。希望が精神の求めるものならば、欲望は肉体が求める自然の声だ。その声はとても大きかった。メガマウスが丸い耳を小刻みに揺らし、慇懃無礼に囁きかける。
――失礼、君は夢の国に行く気はないかね?
身震いがつま先から頭の天辺まで駆け抜けた。自分のどこかが永久に壊れてしまったのではないかという恐ろしい予感に、エリアスは囚われていた。




