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遺界放浪録  作者: 放浪猫
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待つ巨人(後編)


巨人の膝もとに、石の台座があった。


地についた右の膝のすぐ前だった。腰ほどの高さの四角い石で、苔に半ば埋もれている。バーガスが苔を払うと、正面に文字が刻まれていた。


古い文字だった。サフィには一文字も読めなかった。バーガスはしばらくそれを黙って見ていた。指でひとつずつなぞった。


「何て書いてあるの」


「王の帰還まで、ここで待て」


サフィは門の前の道を見た。


草に埋もれた平らな筋。その先の地平。


「王様、帰ってきたの?」


「さあな」


サフィは振り返って、門のアーチの奥を覗いた。城壁の内側には崩れた館の屋根と、折れた塔の残骸が見えた。屋根はどれも落ちていた。窓の穴から木が枝を突き出していた。


「この城、もう誰もいないわよ」


「ああ」


「それでも待ってるのかな」


「命令だからな」


サフィは巨人の顔を見上げた。苔に覆われた額。閉じた目の窪み。その顔はまっすぐに道の先を向いていた。


何百年そうしているのだろう。城が崩れても。屋根が落ちても。道が草に埋もれても。


毎朝目を開けて、道の先を見る。


誰も来ていないのを確かめて、また目を閉じる。


◇


台座の上面には、浅い窪みがあった。


手のひらを二つ並べたほどの、丸い窪み。底は滑らかに磨かれている。けれど何も載っていなかった。枯れ葉と土埃が溜まっているだけだった。


台座の側面には、乳白色の硝子の小窓が嵌めこまれていた。


バーガスはその前にしゃがみこんだ。袖で硝子の汚れを拭う。


小窓の奥に、光の粒がほんの数粒だけ、かすかに漂っていた。消えかけの燠のようだった。小窓のまわりには細かな目盛りが刻まれている。バーガスはそれを指でなぞり、それから光の粒を長いあいだ見つめていた。


「……十日ももたんな」


「何が?」


「こいつだ」


バーガスは巨人を顎で示した。


「この窓は、胸の中の石と繋がってる。中の石が、もう空になりかけてる」


「止まったら、どうなるの」


「止まる。それだけだ」


「もう朝に目を開けないの?」


「ああ」


サフィは小窓の中の、数粒きりの光を見た。


今朝の光を思い出した。道の先を地平までゆっくりとなぞっていく琥珀色の光。何かを探すように止まっていた、あの光。


あれがもうすぐ、二度と灯らなくなる。


「じゃあ、この窪みは?」


「石を置く場所だ。係が石を運んで、ここに置く。巨人が自分で取って、胸に入れる」


「係の人、いないじゃない」


「ああ」


「外の石は、あんなに光ってたのに」


「外の石は雨ざらしだからな。燐雨が降るたびに、少しずつ溜まる。何十年もかけてな」


バーガスは小窓から目を離さずに言った。


「ここには、もう誰も石を運んでこない」


◇


サフィは台座のそばの、巨人の膝に手をついた。


ひやりとした苔の感触。その苔の上で、小石が動いた。


サフィは手を引っこめて覗きこんだ。小石ではなかった。親指の先ほどの、灰色の丸い殻をかぶった虫だった。石とそっくりの色と模様をしていて、じっとしていると見分けがつかない。殻の下から細い脚を何本も出して、苔をはむはむと食んでいる。


見回すと、そこらじゅうにいた。膝の上にも、地についた手の甲にも。苔の上を、石の殻の虫たちがゆっくりと這っている。


サフィは一匹を指先でつついた。虫はぴたりと動きを止めて、ただの小石になった。しばらく待つと、またそろそろと脚を出した。


目には翅蛇が眠り、膝には石の虫が這い、肩には草が茂っている。


この巨人は独りで待っているのだと思っていた。


そうでもないのかもしれない、とサフィは思った。


◇


バーガスは、台座の裏に目を留めていた。


苔を払う。


台座の裏の石に、小さな刻みがあった。


何かの印だった。円の中に斜めに線が一本。その下に細い字で一行。


刻み跡は古かった。けれど正面の文字よりは、ずっと新しい。


バーガスの指がその印の上で止まった。


止まったまま動かなかった。


「バーガス?」


「……なんでもない」


「何て書いてあるの、それ」


バーガスは少し間を置いた。


「巨人、まだ待つ」


それだけ言って、バーガスは印から指を離した。


サフィはその横顔を見た。けれど、いつもと何も変わらない顔だった。


ただ、いつもより長くその刻みを見ていたことだけは分かった。


その刻みの癖を、バーガスは知っていた。円の描き方。線の最後の撥ね方。若い頃、毎晩のように焚き火の向こうで見ていた筆の癖だった。


あの人はここに来ていた。


そして、たぶん。


バーガスは台座の窪みを見た。


魔導石は何百年ももつものではない。この巨人が今日まで目を開け続けてきたのなら、誰かがどこかで、ここに石を置いたのだ。


バーガスはそれ以上考えるのをやめた。


◇


バーガスは立ち上がって、瓦礫の広場へ歩いていった。


倒れた石柱の前で足を止めた。


乳白色の石が、苔の中で昨日と同じように光っていた。


「……それ、取るの?」


バーガスは答えず、あたりを見回した。


瓦礫の中に、錆びた鉄の棒が一本転がっていた。昔の門の閂か、槍の柄だったのかもしれない。バーガスはそれを拾い上げ、重さを確かめるように二、三度振った。


棒の先を、石と石柱の隙間に差しこむ。


体重をかけた。


石柱がみしと鳴った。苔の下から細かな石屑がこぼれる。バーガスは足の位置を変えて、もう一度ぐっと押しこんだ。


ごとり、と音がして石が外れた。


バーガスはそれを両手で受け止めた。腕がわずかに沈んだ。


「重いんじゃなかったの?」


「重い」


バーガスは石を抱えて、巨人の台座へ歩いていった。


サフィは慌てて後を追った。そこで、ようやく分かった。


「バーガス、待って」


バーガスの足が止まった。


「それ、置いちゃうの?」


「ああ」


「もったいないわよ」


声が思ったより大きく、城壁に跳ね返った。


「あんなに大きい石なのに。光の粒だって、あんなにたくさん。いつか人に会えたら、何か月分もの食べ物と換えられるのに。水場だって、安全な道だって、教えてもらえるのに」


言いながら、サフィは自分が何を言いたいのか分からなくなった。


この巨人は、誰も来ない道を見ている。


王様はもう帰ってこない。たぶん。


それなのに。


「誰も、来ないのに」


バーガスは何も言わなかった。


乳白色の石を、台座の窪みにそっと置いた。石は窪みにぴたりと収まった。まるで、初めからそこに置かれるために磨かれていたように。


バーガスは、そうは思っていなかった。


もったいないとも。誰も来ないとも。


「これで、あと一年はもつ」


◇


何も起こらなかった。


石は窪みの中で静かに光っているだけだった。巨人は頭を垂れたまま、ぴくりとも動かない。小窓の中の光の粒も、数粒のままだった。


「……動かないじゃない」


「朝だ」


「朝?」


「こいつが動くのは、朝だけだ」


その夜も、二人は門のアーチの下で眠ることにした。


雨は降らなかった。瓦礫の水溜まりの底が、まだ少しだけ青白く灯っていた。台座の上の石が、闇の中でぼんやりと光っている。その上に、眠る巨人の黒い影が覆いかぶさっていた。


焚き火のそばで、サフィは膝を抱えていた。


「ねえ」


「なんだ」


「朝になって、動かなかったら?」


「動く」


「どうして分かるの」


バーガスは答えなかった。


サフィはしばらく火を見ていた。


「一年たったら、どうなるの」


「また止まりかける」


「そしたら?」


バーガスは焚き火に枝をくべた。


「誰かが、また来る」


「誰か、って」


バーガスは答えなかった。


サフィはそれ以上聞かなかった。


やがてサフィの寝息が聞こえてきた。


バーガスはひとり火を見ていた。


朝を待っていた。


待ちながら、あの朝のことを思い出していた。


目を覚ますと焚き火が消えていた。隣の寝床が空だった。荷も手帳もなかった。名前を呼んだ。誰も答えなかった。


あの日、自分は待った。


その場所で三日待った。


四日目の朝、立ち上がって歩き出した。


待つのをやめたわけではなかった。ただ、待っているだけでは何も見つからないと思った。それだけだった。


それから二十年が経った。


見つけたものはいくつもあった。見つからないものも、まだあった。


アーチの外で、巨人が眠っていた。


この巨人は歩けない。待つことしかできない。命じられたとおりこの場所で、ただ道の先を見ることしかできない。


自分は違う。


自分には足がある。


焚き火が小さくはぜた。


◇


夜明け前に、地面が震えた。


サフィは跳ね起きた。バーガスはもう立っていた。二人はアーチの外へ駆け出した。


ぎ、ぎ、ぎ。


巨人の頭が持ち上がっていく。目の窪みに琥珀色の光が灯った。翅蛇たちが飛び立った。


そこまでは昨日と同じだった。


けれど、光は道の先へは向かわなかった。


巨人の左の手が、動いた。


地についていた手が、ゆっくりと持ち上がった。苔と土が指のあいだからこぼれ落ちる。手は宙を渡り、台座のほうへ下りてきた。


サフィとバーガスのすぐ横を、巨大な指が通り過ぎた。


風が起きた。苔の匂いと、湿った石の匂いがした。指の一本が、サフィの背丈ほどもあった。その表面にも石の虫が這っていた。サフィは息をすることも忘れて、その指を見上げていた。


指先が台座の上で止まった。


二本の指が、窪みの中の石をそっと摘まみ上げた。小さな石だった。巨人の指のあいだでは、豆粒のように見えた。それを落とさないように、慎重に、慎重に。


手は石を摘まんだまま、ゆっくりと胸もとへ上がっていった。


巨人の胸で、何かが開いた。


苔に覆われた石の板が、一枚、また一枚とずれていく。花が咲くように。その奥に、暗い窪みが現れた。


指が、石をその奥へ押しこんだ。


石の板が閉じた。


一瞬、何も起こらなかった。


それから、巨人の体を光が走った。


胸から肩へ。肩から腕へ。腕から指先へ。石の継ぎ目という継ぎ目を、乳白色の光がするすると伝っていく。体を覆った苔が、内側から照らされて緑に透けた。石の虫たちが驚いて、ぴたりと小石になった。


最後に、光は首を伝って頭へのぼった。


目の光が変わった。


琥珀色ではなかった。


白かった。


眩しいほどの澄んだ白い光が、二つの窪みから溢れ出した。まだ戻りきっていなかった翅蛇たちが、光の中を金色の粉のように舞った。


ぎ、と首が鳴った。


光が道の先へ延びた。


広場を越え、草に埋もれた筋をなぞり、丘をいくつも越えて遠く遠く。昨日よりずっと遠くまで。地平のそのまた向こうまで、届いているように見えた。


東の空が白みはじめていた。それでもその光は、朝の光に負けていなかった。


サフィは光の先を見つめた。


その遥か先で。


何かが、ちかりと光った気がした。


「……今」


サフィは身を乗り出した。


「今、何か光ったわ、バーガス。道の先」


バーガスが目を細めて光の先を見た。


何もなかった。


丘と草と、霞んだ地平だけだった。燐雨の残った水溜まりが、光を返しただけなのかもしれなかった。


それでもサフィは目を離せなかった。


もしかしたら。


もしかしたら、いつか。この光の先から誰かが歩いてくる。王様でなくてもいい。誰かが。この巨人の前に立って、もう待たなくていいと言ってくれる誰かが。


「……来るかな」


バーガスはしばらく黙っていた。


光の先を見ていた。


「来ないと、決まったわけじゃない」


最初の陽が差しても、巨人の目の光はすぐには消えなかった。半刻ほど、道の先を照らし続けた。


それからゆっくりと、静かに薄れていった。


消える前に、ほんの一瞬強く瞬いた。


サフィには、それが礼のように見えた。


◇


二人は荷をまとめて巨人の前に立った。


台座の小窓を覗くと、光の粒がたくさん、ゆっくりと渦を巻いていた。


巨人はまた頭を垂れていた。苔に覆われた額。閉じた目の窪み。その顔は昨日と同じように、まっすぐに道の先を向いていた。


「またね」


サフィは小さく手を振った。


それから二人は、巨人が見つめているその道を歩きはじめた。


草に埋もれた平らな筋。王が帰ってくるはずだった道。今は誰も通らない道。


その道を二人が歩いていく。


巨人の目にそれがどう映っていたのかは、分からない。


◇


ずいぶん歩いて、サフィは一度だけ振り返った。


巨人は丘の向こうに霞んでいた。もう城壁のそばの、崩れた塔にしか見えなかった。


前を向くとバーガスの背中があった。


外套の上で、砦灯が陽の光を浴びて揺れていた。


サフィはその足音に気がついた。


ざく、ざく、と。


乾いた土を踏みしめる音が、いつもより少しだけ強かった。


一歩ごとに確かめるように。足もとの土に何かを刻みつけるように。


いつもと同じ速さのはずなのに、その背中は、まるでどこかへ急いでいるように見えた。


サフィは小走りになって、その背中に追いついた。


「……急いでるの?」


バーガスは前を向いたまま答えた。


「道は縮まんからな」


サフィは目を瞬いた。


それから少しだけ笑って、その隣を歩いた。


◇


その夜、バーガスの手帳にはこう書かれていた。


――巨人、まだ待つ。


たぶん、風邪ひきました。

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