待つ巨人(前編)
その城壁は、朝ごとに目を開けた。
◇
バーガスは急がない。
川を渡ってからずっと、サフィはその背中ばかり見て歩いていた。灰色の丘陵が波のように幾重にも重なっている。土は乾いて固く、枯れ草が風に揺れるたびにかさかさと音を立てた。空は高く、白っぽい青をしていた。砂漠の空より少しだけ柔らかい色だった。
上り坂でも下り坂でも、バーガスの足は同じ速さで動いた。早くもならないし、遅くもならない。サフィが小走りで追い越しても、気にする様子もない。
「ねえ、もっと早く歩けないの? 日が暮れちゃうわ」
「急いだって、道は縮まん」
「縮まなくても、早く着くじゃない」
「着いたら、また次の道だ」
サフィは口をとがらせた。言い返す言葉を探しているうちに、また背中に追い抜かれた。
丘の連なりの向こうに、霞んだ城壁が見えていた。崩れた石の壁が横に長く延びている。そのそばに、塔のような塊がひとつ立っていた。
背負った荷の上では、砦灯が革紐で括りつけられて日を浴びていた。砂の下の船で光を使い果たし、乳白色の石は暗いままだった。真鍮の籠の中に、光の粒がほんの数粒だけ戻っている。
「十日晴れれば満ちる」
船を出た日にバーガスはそう言った。まだ半分にも届かない。
◇
丘のくぼみで昼の休みをとった。
日差しの強い時刻は歩かない。砂漠で覚えたことは丘でも同じだった。岩陰に腰を下ろして、水袋の水をひと口ずつ含む。川で汲んだ水は、まだ少し泥の匂いがした。
バーガスは小刀で枯れ草の根元を掘っていた。
「何してるの」
「芋だ」
土の中から親指ほどの、ねじれた茶色い根が出てきた。バーガスはそれを三つ四つと掘り出して、外套の裾で土を払った。
「食べられるの、それ」
「焼けばな」
◇
夕暮れになると、丘の上に翅の音が満ちた。
最初は風の音だと思った。細く高い、弦を弾いたような唸り。それが四方から寄せてきて、サフィは空を見上げた。
蛇が飛んでいた。
腕ほどの長さの細い蛇だった。背に蜻蛉のような透きとおった翅を四枚生やして、夕陽の中をすいすいと泳いでいる。一匹ではない。何十、何百という群れが丘の上を低く渡っていく。翅が夕陽を透かして金色にちらちらと光った。鱗は薄い緑で、腹だけが白かった。
「バーガス、へ、蛇が」
「翅蛇だ。虫を食う」
「人は?」
「食わん」
翅蛇の群れはサフィの頭の上をかすめて、羽虫の柱にまっすぐ突っこんでいった。ぱくり、ぱくりと宙で虫を呑んでいく。一匹がサフィの目の前で止まり、首をかしげるようにこちらを見た。小さな黒い目だった。それから、ついと群れに戻っていった。
群れは城壁の方角へ流れていった。
その夜、焚き火の灰に埋めて焼いた芋はほくほくとして、少しだけ甘かった。砂蜥蜴とは比べものにならない、とサフィは思った。でも悪くない。
◇
翌日の昼過ぎ、城壁の足もとに着いた。
近くで見ると、壁は思っていたより高かった。人の背丈の十倍ほどはある。積まれた石のひとつひとつが、サフィの背より大きい。表面は厚い苔に覆われて、石の継ぎ目から細い木が生えていた。壁の上の歩廊は崩れ落ちて、ところどころが欠けた歯のようになっている。
正面に門があった。
扉はとうに朽ちて、黒いアーチの穴だけが壁に口を開けている。その脇に、遠くから見えていた塔の塊が立っていた。
塔と呼ぶには形がおかしかった。下のほうが大きく張り出して、上に行くほど丸くすぼまっている。全体が苔と蔦にすっぽり覆われて、緑の小山のようにも見えた。塔の上のほうから、折れた石の柱が一本、斜めに空へ突き出していた。
門の前は崩れた石材が一面に散らばっていた。折れた柱。割れた敷石。半分土に埋もれた、彫り物のある石の欠片。昔はここに、門へ続く広場があったのだろう。
その瓦礫の中でサフィはそれを見つけた。
倒れた石柱の頭に、拳を二つ合わせたほどの石が嵌めこまれていた。門の灯り柱だったのかもしれない。乳白色で、苔の緑の中でそこだけがぼんやりと光を返している。砦灯の石と同じ色だった。けれど大きさがまるで違う。
「バーガス! これ、魔導石よね?」
バーガスが来て石を覗きこんだ。指の背でこつこつと叩く。
「ああ。でかいな」
「こんなに大きいの初めて見たわ。光の粒も、たくさん残ってる」
石の奥で細かな光の粒がゆっくりと渦を巻いていた。砦灯の籠の中の、数粒きりの光とは比べものにならない。
「これ一つで、どれだけ食べ物と換えてもらえるかしら。干し肉なら、きっと何か月分よ」
「重い」
「持っていかないの?」
「次に人に会えるのが、いつになるか分からん。それまで背負うのか」
サフィは口をとがらせた。言い返せなかった。砂漠を越えてから、二人以外の人の姿を一度も見ていない。
バーガスは石柱から目を離して空を見上げた。
西の空に鉛色の雲が湧いていた。雲の腹がところどころ、青白く濁って見える。風が湿った匂いを運んできた。雨の匂いに、かすかな金気が混じっていた。
バーガスの目が細くなった。
「燐雨だ。門の下に入る」
◇
雨は日が傾くより先に来た。
大粒の雨が乾いた丘を叩き、土の匂いが一気に立ちのぼった。二人は門のアーチの下へ駆けこんだ。城壁の厚みの分だけ続く、短い石のトンネルだった。中は乾いていて、古い煤の匂いがした。
「……助かった」
サフィは息を切らしながら、背中まである金色の髪を胸の前に寄せて、水を絞った。
その手のひらが光っていた。
指のあいだを伝う雫が、ほのかに青白い。サフィは目を見開いて自分の手を見た。髪から落ちる雫も、外套の裾から垂れる雫も、みんな淡く光っている。
「何これ」
「燐雨だ。大昔の戦の滓が、空に残ってる。それが雨に混じって落ちてくる」
「毒?」
「浴びるくらいなら平気だ。飲むな。腹を壊す」
アーチの外を見て、サフィは声を失った。
雨が光っていた。
数えきれない青白い糸が、暗くなりかけた空から地面へと降りそそいでいる。地面に落ちた雫は小さな光の輪を広げ、すぐに土へ沈んでいく。瓦礫のくぼみに溜まった水溜まりが、底からぼうっと灯っていた。
丘じゅうが淡く青く光っていた。
「きれい……」
「明日の朝には沈む。水より重いんだ。光るのは底だけになる」
「沈んだら、その水、飲めるの?」
「上だけ汲めばな」
バーガスはアーチの奥の枯れ枝を集めて火を熾した。
サフィは火のそばに膝を抱えて、外の雨を眺めていた。
門の脇の、あの塔の塊にも雨が降りそそいでいた。
光る雨は苔の上を流れ、窪みに溜まり、出っ張りの縁から滴り落ちていく。そのたびに塔の形が、青白い線でなぞられていった。
サフィは目を凝らした。
丸くすぼまった上の部分は、前へ深く垂れていた。その下に、左右へ張り出した幅の広い肩。片方の肩から太い腕が下りて、地面に手をついている。もう片方の腕は曲げられて、あの折れた石の柱を握っていた。下のほうの張り出しは、地についた膝だった。
光る雨が、それを描き出していた。
「……ねえ、バーガス」
「なんだ」
「あの塔、人みたい」
バーガスは火に枝をくべた。
「寝ろ。朝になれば分かる」
サフィはもう一度、雨の中の輪郭を見た。垂れた頭は、門の前の道のほうを向いていた。
その夜はなかなか眠れなかった。
◇
夜明け前に雨は止んだ。
サフィは地面の震えで目を覚ました。
最初は遠雷だと思った。低い、腹の底に響く唸り。それが地面の下から、背中の下から這いのぼってくる。焚き火の燠がちりちりと跳ねた。
それから音が来た。
ぎ、ぎ、ぎ、と。
石と石が途方もない重さで擦れ合う音。アーチの天井から、細かな砂がぱらぱらと降ってくる。
「バーガス!」
サフィはバーガスの外套にしがみついた。
バーガスは起きていた。アーチの外をまっすぐ見ていた。
「出るぞ。見ておけ」
二人はアーチの外へ出た。
雨上がりの空気が冷たく頬を刺した。水溜まりはどれも、底のほうだけが青白く灯っていた。東の地平が薄い金色に染まりはじめている。
門の脇の塔が、動いていた。
垂れていた頭が、ゆっくりと持ち上がっていく。首筋から苔と土が崩れ落ちた。蔦がぶちぶちと千切れる音がした。
それは塔ではなかった。
片膝をついた、石の巨人だった。
城壁と同じほどの高さで、身をかがめていた。左の手を地面につき、右の手に折れた石の槍を握っている。灰色の石の体は、どこもかしこも苔に覆われていた。肩には草が茂り、膝の上には小さな木まで生えていた。
その頭の二つの窪みに。
光が灯った。
鈍い琥珀色の光だった。苔の奥で、ふたつの目がゆっくりと開いていく。
次の瞬間、目の窪みから何かが溢れ出した。
翅蛇だった。
何十という翅蛇が、光に追い立てられるように目の窪みから飛び立った。翅の唸りが朝の空気を満たす。群れは巨人の顔のまわりを渦を巻いて飛び、空へ散っていった。巨人の目は翅蛇たちの寝床だったのだ。
ぎ、ぎ、ぎ。
首が軋みながら、わずかに動いた。
二つの光が地面を撫でた。
サフィとバーガスのいる場所を、光は素通りした。見向きもしなかった。
光は巨人の正面へ延びていた。門の前の広場。そこから先へ続く一本の道。道はもう道の形をしていなかった。草に覆われ若い木に割られて、まわりより少しだけ平らな筋として、丘の向こうの地平まで続いている。
光はその道を、遠くへ遠くへとなぞっていった。
地平まで。
そこでしばらく止まっていた。
何かを探すように。
東の空から最初の陽が差した。
光はふっと消えた。
頭がまたゆっくりと垂れていった。元の位置へ戻ると、それきり巨人は動かなくなった。
翅蛇たちが一匹、また一匹と、目の窪みへ戻ってきた。
朝の静けさが、何もなかったように丘を覆った。
サフィはずっと息を止めていたことに気づいた。
「……いきてるの?」
「生きてない」
バーガスは巨人の垂れた頭を見上げていた。
「門の守りだ。人が造った。昔はこういうのがいた」
「じゃあ今の、何?」
バーガスは、巨人の目が照らしていた道の先を見た。
「見張りだ」
「何を」
バーガスは答えなかった。
市販薬が効いたのか、中耳炎は治ってきました。




