砂の下の船(後編)
サフィは、白い部屋から引きずり出されるように出た。
扉の外の、青い光の通路に座りこんだ。膝を抱えた。震えが、止まらなかった。
バーガスが、隣に腰を下ろした。
長いあいだ、二人とも何も言わなかった。
「……あの人たち、どうして」
やがて、サフィが言った。
「水も、食べ物も、あったのに。扉だって、開いてたのに」
「ああ」
「出ていけたのに。どうして、あそこで……」
バーガスは答えなかった。
答えの代わりに、ぽつりと言った。
「美しいから厄介なんだ」
サフィは顔を上げた。
「何もかも失くした奴の前に、あんなものがあったら、どうなると思う」
バーガスの声は平らだった。
「離れられなくなる。あれのそばにいれば、救われる気がする。あれに祈っていれば、いつか報われる気がする。外の砂漠を歩くより、ずっと楽だ」
「……それで、死んだの?」
「知らん」
白い扉のほうを見た。
「だが、遺物ってのは、そういうものだ。昔の奴らが遺した、とんでもなくすごいものだ。すごすぎて、今の奴らには眩しすぎる」
サフィは自分の手を見下ろした。
さっき、あの像に向かって歩いていたとき。足もとの骨にも気づかないほど、惹かれていたとき。
あのまま、バーガスに肩を掴まれなかったら。
自分も、あの骨の山に加わっていたのだろうか。
「あなたは、平気だったの?」
「……慣れてる」
それだけ言って、バーガスは目を閉じた。
◇
その夜、船が軋んだ。
最初に気づいたのは、バーガスだった。浅い眠りから跳ね起きて、通路の奥の暗がりに耳を澄ませた。
ざあっ、と、何かが流れこむ音がした。
砂だった。
通路の奥の壁が、破れていた。昼に見た、錆で脆くなって小さな穴がいくつも開いていたあたりだ。嵐に押されて、とうとう崩れ落ちたのだろう。破れ目から、細い滝のように、砂が流れこんでいた。
流れこむ砂の表面が、波打っていた。
「サフィ。立て。音を立てるな」
サフィは、毛布を跳ねのけて立ち上がった。バーガスの背中に隠れて、通路の奥を見た。
砂の中から、背びれが現れた。
ひとつではなかった。
二つ、三つ、四つ。灰色の背びれが、流れこんだ砂の溜まりの中を、ゆっくりと泳いでいた。嵐を避けて、船の中に入りこんだのだ。砂が床に広がるにつれて、背びれは少しずつ、こちらへ近づいてくる。
金属の床は、砂より音を伝える。
二人の息遣いさえ、聞こえているのかもしれなかった。
一匹が、砂の溜まりの縁から、ぬるりと身を乗り出した。
初めて、全身が見えた。
魚のような、蛇のような、長い灰色の体。目はなかった。頭の先が、花びらのように四つに割れて、その内側に、細かな歯が何重にも並んでいた。割れた口が、空気の震えを探るように、ひくひくと動いていた。
「……バーガス」
「下がれ」
バーガスは、外套の内側から、あの灯籠を取り出した。
砦灯。
籠の側面の、小さな突起を、親指で押しこんだ。
乳白色の石が、一度だけ、ふっと暗くなった。
次の瞬間、光が溢れた。
白い光だった。石の中から、音もなく膨れ上がって、二人を包みこんだ。光は、半球の形になった。二人の頭上と左右を、すっぽりと覆う、光の天幕。その縁が、通路の壁と床に触れて、淡く揺らめいていた。
砂潜りが、跳んだ。
割れた口を大きく開いて、光の縁に食らいついた。
弾かれた。
光の壁に触れた瞬間、砂潜りの体は、見えない手に打ち払われたように後ろへ吹き飛んだ。床を転がり、砂の溜まりに落ちた。
二匹目が来た。三匹目が来た。どれも、光の縁で弾き返された。
サフィは、バーガスの外套にしがみついたまま、それを見ていた。光の天幕の中は、温かかった。外の世界の音が、遠く聞こえた。
けれど、光は、少しずつ薄くなっていった。
砂潜りが一匹弾かれるたびに、石の輝きが、ほんの少しだけ弱くなる。天幕の縁が、揺らぎはじめた。
砂潜りたちは、諦めなかった。光の縁を、ぐるぐると回りはじめた。隙を探すように。
「……もたない」
バーガスが、低く言った。
それから、灯籠を高く掲げた。籠の側面の、もうひとつの突起を押しこんだ。
光の天幕が、一瞬で消えた。
その代わりに、すべての光が、石の中へと吸いこまれるように集まった。籠の隙間から、針のように細い、白い光の筋が一本だけ、まっすぐに伸びた。
光の筋が、いちばん大きな砂潜りの体を、貫いた。
音はしなかった。
砂潜りの体が、一瞬、内側から白く光った。それから、どさりと崩れ落ちた。焦げた匂いが、通路に広がった。
残りの砂潜りたちが、一斉に動きを止めた。
それから、潮が引くように、流れこんだ砂の中へ沈んでいった。背びれが、ひとつ、またひとつと見えなくなった。最後の一匹が、船体の裂け目から外へ這い出していくのが見えた。
静かになった。
灯籠の石は、暗くなっていた。乳白色の奥に、光の粒が、もうほとんど残っていなかった。
サフィは、その場にへたりこんだ。
「……すごい」
声が、震えていた。
「すごいわ、それ。もう一回使えば、どんな獣だって……」
「次はない」
バーガスは、暗くなった石を見下ろしていた。
「日の光を溜める石だ。こいつが満ちるまで、晴れた日で十日はかかる」
「十日……」
「次がないつもりで使え。頼れば、尽きたときに死ぬ」
バーガスは灯籠を外套の内側に戻した。
「道具ってのは、そういうものだ」
サフィは、外套の上から灯籠の形をなぞるバーガスの手を見ていた。光の砦を張るのも、一点に絞って放つのも、迷いのない手つきだった。
「……どうして、使い方を知ってたの」
バーガスは、少しのあいだ黙っていた。
「昔、係だったんだ」
それだけだった。
◇
四日目の朝、嵐が去った。
内扉を開けると、入ってきた裂け目は、半分ほど砂に埋まっていた。バーガスは通路を見回し、壁から剥がれ落ちていた鉄の板切れを拾い上げた。それを鋤がわりにして、内側から砂を掻き出していく。やがて細い隙間から、眩しい光が差しこんだ。
外の砂丘は、形をすっかり変えていた。尖った舳先も、手すりも、丸窓も、半分以上が新しい砂に埋もれていた。折れた帆柱だけが、砂の上に、斜めに突き出していた。
もう少し嵐が続いていたら、この裂け目も埋まっていたのだろう。
外に出る前に、サフィは一度だけ振り返った。
青い光の通路の奥。白い扉は、閉じられていた。出てくるときに、バーガスが閉めたのだ。
閉めただけだった。
壊しはしなかった。像も、扉も、骨の山も。何ひとつ、壊さなかった。
「壊さなくて、いいの」
サフィが聞いた。
「あれがあると、また誰かが……」
バーガスは、外の光の中に立って、しばらく黙っていた。
「壊して、どうなる」
「どうなるって……」
「あれは、あいつらが選んだ場所だ」
それだけ言って、バーガスは砂丘を下りはじめた。
サフィは、白い扉の向こうにある微笑みを思い出した。目を閉じた、穏やかな顔。今でも、少しだけ、もう一度見たいと思っている自分がいた。
それが、怖かった。
サフィは扉に背を向けて、光の中へ出た。
◇
川に着いたのは、その二日後だった。
最初に気づいたのは、サフィだった。乾ききった風に、ほんのわずか、苔のような青臭さが混じっていた。足もとの砂に小石が混じりはじめ、その小石は丸く、表面がつるりと磨かれていた。
最後の砂丘の頂に立ったとき、サフィは息を呑んだ。
川だった。
幅は、石を投げても届かないほど広い。濁った茶色の水が、ゆっくりと、けれど途切れることなく流れている。向こう岸には背の高い葦が風に揺れ、その奥に、灰色の丘陵が霞んでいた。
岸辺には、石の顔が並んでいた。
巨大な人の顔が、いくつも、川岸の砂に半分埋もれていた。ひとつの顔が小屋ほどもある。目を閉じ、口を結んで、みんな同じ方向を向いていた。川の、上流のほうを。
あの像と同じように、目を閉じていた。
サフィは、少しだけ身震いした。
けれど、石の顔の微笑みのない口元を見て、ほっとした。これは、ただの石だ。誰も、この顔に祈ってはいない。
「水よ、バーガス!」
サフィは砂丘を駆け下りた。今度は、足音のことを考えながら。爪先から、そっと。それでも、できるだけ速く。
◇
バーガスは、川の水を鍋で煮立てる前に、まず岸辺の葦の根もとを見た。それから、打ち上げられた小魚の骨を拾って、匂いを嗅いだ。
「毒はない。だが、煮てから飲め」
上流の淀みで、バーガスは素手で魚を獲った。外套を脱ぎ、膝まで水に入り、身じろぎもせずに水面を見下ろして、銀色の影がよぎった瞬間に、水を割った。腕ほどもある魚が、手の中で跳ねた。
サフィは、岩陰で水浴びをした。
冷たかった。冷たいけれど、砂と汗が、肌から剥がれていく感じがした。髪を水に浸して指でほぐすと、細かな砂が、水の中にふわりと舞った。
あの船の中の砂も、混じっているのだろうか。
岩の向こうで、ざぶりと水の割れる音がした。二匹目を獲ったのだろう。あの人は、ずっとこちらに背中を向けている。なんとなく、それが分かった。
◇
鍋の水が煮立つのを待つあいだ、サフィは川べりにしゃがみこんで、両手を水に浸していた。
冷たかった。指の間を水がすり抜けていく。砂とは違う。掴もうとしても掴めないのに、確かにそこにある。
「ねえ、バーガス。川って、どこから来るの」
「山だ」
「どこまで続いてるの」
「海だ」
「海って、干上がってないの?」
バーガスは鍋をかき混ぜる手を止めた。
「……知らん」
サフィは笑って、水を両手ですくい、空へ放った。飛び散った雫が陽の光を受けて、一瞬だけ硝子の花のように光った。
◇
その夜、焚き火で焼いた魚を食べながら、サフィは聞いた。
「ねえ、バーガス」
「なんだ」
「遺物って、何なの」
バーガスは、魚の骨を火にくべた。
「昔の奴らが遺したものだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
サフィは、膝を抱えた。
「あの像も、船も、保存庫のパンも、その灯籠も、みんな遺物なのよね」
「ああ」
「パンは、わたしたちを助けてくれた。灯籠も。でも、あの像は……」
言いかけて、サフィは口をつぐんだ。
同じ人たちが遺したものなのに。助けるものと、殺すものがある。いや、像だって、殺そうとしたわけではないのかもしれない。ただ、そこに立っていただけだ。美しく。
「……美しいから、厄介」
サフィが呟くと、バーガスは何も言わなかった。
焚き火がはぜた。
◇
翌朝、二人は下流の浅瀬を探して、川を渡った。
腰まで水に浸かりながら、流れに足を取られないよう一歩ずつ。バーガスが先に立ち、サフィはその外套の裾を掴んで歩いた。外套の内側で、暗くなった灯籠が、歩くたびにかすかに揺れていた。
向こう岸に上がると、目の前に、灰色の丘陵が広がっていた。土と岩と枯れ草の大地だ。遠くに、崩れた石の城壁のようなものが霞んで見えた。
砂漠は、もう背中のほうにしかなかった。
サフィは一度だけ振り返った。
川の向こうの砂の海の、そのどこかに、あの船が眠っている。また砂に呑まれて、また誰かが見つけるまで。
そのとき、見つけた誰かは、あの微笑みの前で立ち止まらずにいられるだろうか。
確かめる術は、もうない。
そのことが少しだけ、胸の奥に引っかかったまま残った。
日曜の朝活
中耳炎が痛い、かゆい




