砂の下の船(中編)
ーーーー嵐は、三日続いた。
その間、二人は船の中で過ごした。
最初の夜は、入り口の近くから動かなかった。バーガスが、奥へ行くのを許さなかったのだ。床に外套を敷いて、青い光の下で、浅い眠りを繰り返した。船体を叩く砂の音が、一晩中、途切れなかった。
二日目の朝、バーガスはようやく立ち上がった。
「水を探す」
「船の中に、水なんてあるの?」
「船には、水を積む」
◇
船の中は、迷路だった。
通路は枝分かれし、階段は上にも下にも延びていた。扉はほとんどが開いていて、中にはがらんとした部屋が並んでいた。壁に作りつけの寝台。小さな卓。丸い窓。窓の外は、どれも砂で埋まっていた。
通路の壁のあちこちで、外と同じ錆が、内側にまで滲み出していた。錆で脆くなった壁は、ところどころが崩れて小さな穴になり、そこから細い砂の筋が、糸のように垂れている。床の隅には、そうして入りこんだ砂が、小さな山をいくつも作っていた。
「この船、もつの?」
「さあな」
バーガスは、穴のひとつを指でなぞって、錆の粉を落とした。粉と一緒に、縁の欠片がぽろりと崩れた。
「だが、いつ沈んでもおかしくない船だろうな」
どの部屋も、静かだった。
整えられた寝台の上に、毛布が畳まれていた。卓の上には、蓋をされた杯が置かれていた。壁の掛け金には、上着が一着、掛かったままになっていた。
誰かが、少し部屋を空けただけのように見えた。
すぐに戻るつもりで。
「ねえ、ここの人たちは、どこへ行ったのかしら」
バーガスは答えなかった。答えずに、次の扉を開けた。
船の下のほうに、倉庫があった。
壁一面に、銀色の箱が並んでいた。人の背丈ほどの、扉のついた箱。どの箱の扉の縁にも、細い青い光の線が走っていた。触れると、ひやりと冷たかった。
バーガスは、箱のひとつの錆びた留め金を、小刀の先でこじ開けた。
扉の隙間から、白い冷気が流れ出した。
中には、油紙で包んだ包みが、隙間なく積まれていた。バーガスがひとつを取り出して、油紙を剥がした。
パンだった。
焼きたてのような、ふっくらとした丸いパン。表面に、艶さえあった。
「……嘘でしょ」
サフィは、思わず声を上げた。
「何百年も経ってるんでしょ、この船」
「保存庫だ。魔導の冷気で、中のものの時を止めてる」
バーガスはパンをちぎって、匂いを嗅ぎ、小さくかじった。しばらく噛んで確かめてから、頷いた。
サフィは、パンにかじりついた。
柔らかかった。
信じられないほど柔らかかった。パンなんて、何年ぶりだろう。最後に食べたのがいつだったか、思い出せなかった。それも、こんな、麦の甘い匂いのする、ふかふかのパンは、たぶん一度も。
砂漠の五日間で干からびた体に、パンの味が染みこんでいくのが分かった。サフィは目を閉じて、口いっぱいに頬張ったまま、しばらく動けなかった。
ほかの包みからは、干した果実と、塩漬けの肉が出てきた。それから、白っぽい四角い塊。表面に薄い皮があって、断面はきめの細かい淡い黄色をしていた。
サフィはそれを手に取って、鼻を近づけた。不思議な匂いがした。少し酸っぱくて、少し獣くさくて、でも、なんだか食べたくなる匂い。
「何これ。何ていうの?」
「チーズだ」
「ちーず……」
サフィは端を小さくかじった。
それから、目を丸くした。
濃かった。塩気と、まろやかさと、何かよく分からない深い味が、舌の上でとろりと溶けた。
「なにこれ……なにこれ!」
「乳を固めたものだ」
「乳って、こんなふうになるの!?」
サフィはチーズを両手で持ったまま、パンと交互にかじった。塩漬けの肉もかじった。干した果実も口に放りこんだ。頬が、まるくふくらんだ。
「ごちそうだわ、これ。ねえ、ごちそうよ、バーガス」
バーガスはパンをちぎりながら、ふん、と鼻を鳴らした。笑ったのだと、サフィには分かった。
どれも、昨日作られたばかりのようだった。
これを焼いた誰かは、何百年も前に、この船の上で、明日の朝ごはんのことを考えていたのだ。
倉庫の奥には、大きな金属の水槽があった。底のほうに、まだ水が残っていた。濁って、古い金属の匂いがした。バーガスはそれを鍋に汲み、通路の床で火を熾して、長いこと煮立てた。
冷ましてから飲んだ水は、少し鉄の味がした。
それでも、水だった。
倉庫の隅に、引き出しのたくさんついた棚があった。バーガスはそれをひとつずつ開けて、中から小さな石を取り出していた。青いもの、乳白色のもの、琥珀色のもの。どれも、指の先ほどの大きさだった。
魔導石だった。
バーガスはそれを、選ぶように、ひとつずつ腰の石袋に移していった。全部は取らなかった。半分ほど残して、引き出しを閉めた。
サフィは何か言いかけて、やめた。バーガスの手つきが、あまりに慣れていたから。
◇
倉庫の隣に、鍵のかかった部屋があった。
扉に、交差した剣の印が刻まれている。錠は錆びていて、バーガスが何度か蹴ると、蝶番ごと外れた。
武器庫だった。
壁の棚は、ほとんど空だった。持ち出されたのか、初めから少なかったのか。床に、錆びて形の崩れた鉄の塊がいくつか転がっているだけだった。
その奥の棚に、ひとつだけ、残っているものがあった。
灯籠だった。
真鍮の細い籠が、拳ほどの大きさの石を包んでいる。石は透きとおった乳白色で、内側に、かすかな光の粒を宿していた。籠のてっぺんには、提げるための輪がついている。
バーガスは、それを長いあいだ見ていた。それから、そっと手に取った。
籠の側面に、小さな文字が刻まれていた。バーガスは指でそれをなぞって、低く呟いた。
「……砦灯」
「とりでび?」
「昔の言葉だ。光の砦」
「何に使うの?」
「身を守る」
バーガスは、灯籠の籠の突起を、確かめるように指でなぞった。押しはしなかった。
バーガスは灯籠を外套の内側に吊るした。重そうだった。
「持っていくの?」
「念のためだ」
◇
三日目の昼、バーガスは船の上のほうへ向かった。
青い光の通路を、階段をいくつも上った先に、広い部屋があった。正面の壁一面に、丸い窓が並んでいる。窓の外は、やはり砂だった。部屋の真ん中に、背の高い椅子がひとつと、その前に、計器らしい硝子の板が並んだ台があった。
船を動かすための部屋なのだろう。
台の脇の棚に、薄い金属の板が何枚も重ねて仕舞われていた。バーガスはそれを一枚ずつ引き出して、板の表面に刻まれた細かな文字を、指でなぞりはじめた。
サフィには読めない文字だった。
バーガスにも、全部は読めないらしかった。ときどき指が止まり、眉間に皺が寄った。それでも、一枚、また一枚と、板をめくり続けた。
何かを、探している手つきだった。
「何、探してるの」
サフィが聞くと、バーガスの指が止まった。
「……知らん」
それは、いつもの「知らん」と、少しだけ違って聞こえた。
サフィは、それ以上は聞かなかった。代わりに、部屋の奥にある、もうひとつの扉に目をやった。
扉は、ほかの扉と違っていた。白かった。表面に、翼のような模様が彫りこまれている。
扉は、閉まっていなかった。細く、隙間が開いていた。
その隙間から、光が漏れていた。
青ではなかった。白い、柔らかな光だった。
◇
サフィは、扉を押した。
広い部屋だった。
天井が、高かった。船の中だということを忘れるほど高く、丸く、白かった。壁にも床にも、白い石が敷きつめられていた。その石の一枚一枚が、内側からほのかに光っていた。
部屋の奥に、何かがいた。
白かった。
光そのもののように、白かった。
サフィの目は、それが何なのかを、すぐには掴めなかった。白い。大きい。広がっている。何かがこちらに向かって、腕を開いている。
人だ、と思った。
違う。動かない。息をしていない。
あれは――
――――女性の、像だった。
白い、透きとおるような石でできていた。背は、人の倍ほどもあった。両腕を、ゆるやかに広げている。目は閉じられていた。口元には、かすかな、とても穏やかな微笑みがあった。
その背中から、翼が生えていた。
白い、大きな翼だった。羽の一枚一枚までが、石とは思えないほど細やかに彫られていた。いまにも羽ばたいて、天井を突き抜けていきそうだった。
何百年も、砂の下にあったはずなのに。
ひびひとつ、汚れひとつなかった。歳月というものが、この像だけを避けて通ったようだった。
きれい、とサフィは思った。
言葉にならなかった。胸の奥が、締めつけられるように熱かった。理由もなく、涙が出そうだった。もっと近くで見たい。あの微笑みに、触れたい。
サフィは、像に向かって歩き出した。
一歩。二歩。
三歩目で、足の下で、何かが乾いた音を立てて砕けた。
サフィは、足もとを見た。
骨だった。
白い、人の骨だった。
サフィは顔を上げた。そして、初めて、それを見た。
像の足もとに、骨が積み重なっていた。
山のように。
何十、いや、何百。白い骨が、像の足もとを埋めつくしていた。どの骨も、像のほうを向いていた。膝を折り、手を合わせた形のまま崩れたものがあった。誰かと抱き合った形のまま、重なっているものがあった。像の足に、最後の力で縋りついたような形のものもあった。
骨の間に、杯や皿が転がっていた。捧げ物の器だった。
こんなにたくさんのものが、ずっとそこにあったのに。
サフィは、気づかなかった。
像だけを見ていた。像しか、見えていなかった。
「あ……」
声が出なかった。足が震えた。後ずさろうとして、また骨を踏んだ。乾いた音が、高い天井に響いた。
肩を、強く掴まれた。
振り返ると、バーガスが立っていた。
バーガスは、像を見ていなかった。像の足もとの、骨の山を見ていた。いつもの人相の悪い顔に、何の表情も浮かんでいなかった。
それから、一言だけ言った。
「これが遺物だ」




