砂の下の船(前編)
塔の街を発って五日目に、水袋が軽くなった。
鐘守がくれた干した果実は、もう残り三つしかない。サフィは一日にひとつと決めて、それを口の中で長いこと転がした。甘酸っぱい味が乾いた舌に沁みて、消えていくのが惜しかった。
「バーガス、お水、あとどれくらい?」
「おまえの分は、あと二日だ」
「あなたの分は?」
「半分残ってる」
そう言って、バーガスは自分の水袋をサフィのほうへ押しやった。飲め、という意味だった。
サフィは受け取って、ひと口だけ含んだ。それから、袋を持ち上げた。
軽かった。半分どころではなかった。
「……嘘つき」
「何がだ」
「なんでもない」
サフィは、それ以上飲まずに、袋を返した。バーガスは何も言わずに受け取って、自分では口をつけずに腰に提げた。
◇
砂漠には、砂漠の歩き方があった。
それを、サフィはこの五日で、少しずつ教えこまれていた。
陽が昇りきる前に歩く。昼の盛りは、岩陰か砂丘の北側の斜面に布を張って、その下でじっと横になる。陽が傾いて砂が冷めはじめたら、また歩く。夜は星を見て方角を確かめ、月が高くなったら眠る。
「昼に歩いたほうが、早く着くじゃない」
最初の日、サフィはそう言って口を尖らせた。
「早く着く前に、干からびる」
「でも……」
「昼の砂は、靴の底を焼く。汗は、水と同じだ。出した分だけ減る」
それきり、バーガスは布の下で目を閉じた。
足音のことも言われた。
「踵から下ろすな。爪先から、そっと置け」
「どうして?」
「下に、聞いてる奴がいる」
何が聞いているのかは、教えてくれなかった。
食べ物のことも、教わった。三日目の夕方、バーガスは砂の上の小さな模様をじっと見て、いきなり素手を砂に突っこんだ。引き抜いた手の中で、掌ほどの砂色の蜥蜴が、尾を振って暴れていた。
「砂蜥蜴!」
サフィの声が弾んだ。
「好きなのよ、それ。どこにでもいるから、小さい頃からよく食べてたの。尻尾のところがいちばん美味しいのよね」
「そうか」
バーガスは、少しだけ意外そうな顔をした。
火で炙った砂蜥蜴は、脂が少なくて、鶏の皮みたいに香ばしかった。サフィは慣れた手つきで尻尾をもいで、骨ごとかりかりと噛んだ。それから、二匹目は自分で捕まえると言い張って、日が暮れるまで砂に手を突っこみ続けた。結局、一匹も捕まらなかった。
「砂漠のは、すばしっこいのね」
「おまえの手が遅い」
「失礼ね」
◇
五日目の夕方、それは起きた。
「動くな」
低い声だった。サフィは、片足を上げたまま固まった。
前方の砂の表面が、ゆっくりと波打っていた。風ではない。風は止んでいる。それなのに砂丘の斜面に、さざ波のような筋が一本、すうっと走っていく。
砂の下を、何かが泳いでいる。
筋は大きく弧を描いて、こちらへ向かってきた。近づくにつれて、砂の盛り上がりが大きくなる。人の背丈ほどの長さ。いや、もっとある。
サフィは息を止めた。片足を上げたまま、膝が震えた。
筋は二人の三歩手前で、ぴたりと止まった。
砂の下で、何かがじっと様子を窺っている。砂の表面がかすかに上下していた。呼吸しているのだ。
長い長い時間が過ぎた。
やがて筋はゆっくりと向きを変え、砂丘の向こうへ遠ざかっていった。最後に、砂の中から魚の背びれのような灰色のものが一瞬だけ覗いて、また沈んだ。
「……下ろしていいぞ」
サフィは上げていた足を、そっと下ろした。そのまま、砂の上にへたりこんだ。
「な、何、今の」
「砂潜りだ。砂の震えに寄ってくる」
「先に言ってよ!」
「言ったら騒ぐだろう」
サフィは言い返せなかった。たぶん、騒いでいた。
爪先から、そっと置け。
あれは、このためだったのだ。
◇
六日目の昼、空の色が変わった。
布の下で休んでいたサフィは、バーガスに肩を揺すられて目を覚ました。
「起きろ。荷をまとめろ」
その声に、いつもと違う硬さがあった。
サフィは布の外に顔を出して、息を呑んだ。
西の地平線に、壁が立っていた。
茶色い壁だった。空の半分を覆うほど高く、左右に果てしなく伸びている。その壁が、ゆっくりと、けれど確実に、こちらへ近づいてくる。壁の手前の砂丘が、ひとつ、またひとつ、壁に呑まれて消えていく。
風が、生ぬるくなった。肌に、細かな砂粒がぱちぱちと当たりはじめた。
「砂嵐だ」
「逃げるの? どこへ?」
「どこかへだ」
バーガスは荷を背負い、あたりを見回した。どこまでも同じ砂丘が続いている。岩陰すらない。壁はもう、地平線の半分を塗りつぶしていた。
そのとき、バーガスの目が、一点で止まった。
東の砂丘の斜面から、何かが突き出していた。
黒っぽい、反り返った壁のようなもの。陽を受けて、鈍く光っている。砂丘の稜線から斜めに、空へ向かって迫り上がっていた。岩ではない。継ぎ目があった。
「走れ」
二人は走った。足音のことは、もう構っていられなかった。背中で風が唸りはじめた。
近づくと、それは信じられないほど大きかった。
尖っていた。
左右からなだらかに寄せた二枚の壁が、空を指すように一点で交わっている。その先端の下に、女の顔を彫った木の飾りが、潰れかけた鼻先を突き出していた。尖った先から後ろへ向かって、壁はゆるく膨らみながら砂の中へ沈んでいる。壁の上の縁には、錆びた手すりが、波打つように一列に続いていた。手すりの下には、丸い窓が、等間隔にいくつも並んでいる。
その奥、砂丘の頂のあたりから、折れた太い柱が一本、空へ向かって傾いて立っていた。柱には、ぼろぼろになった布の切れ端が、まだ絡みついていた。
帆柱だった。
サフィは息を呑んだ。尖った舳先。手すり。丸窓。帆柱。話にしか聞いたことのないものが、砂の海から、半分だけ身を起こしていた。
「……船?」
「船だ」
バーガスが言った。
「こんな砂漠に?」
「珍しくない。あちこちに埋まってる。旅をしてりゃ、何度か見る」
「何度か……」
近くで見ると、船の壁は傷だらけだった。赤黒い錆が、まだらに広がっている。錆のひどいところはぼろぼろに脆くなって、ところどころ崩れ落ち穴が開いてきていた。指が通るほどの穴。拳が入るほどの穴。その穴から、さらさらと、細い砂の筋が中へ流れこんでいた。
丸窓のひとつの下で、錆が大きく崩れていた。人ひとりが、どうにか潜りこめるほどの裂け目になっている。
「あそこだ」
風が、悲鳴のような音を立てた。空が暗くなった。砂が、横殴りに叩きつけてきた。
バーガスが先に裂け目へ取りつき、縁の錆を靴で蹴り落として、穴を広げた。崩れた鉄片が、ぱらぱらと内側の闇へ落ちていく。
「入れ!」
サフィは裂け目に体をねじこんだ。錆の縁が外套を裂いた。暗闇の中に転がり落ちた。後からバーガスが滑りこんできて、すぐそばの通路の、錆びた内扉を引き寄せた。
内扉は軋みながら閉まった。
がん、と重い音がして、嵐の唸りが遠くなった。
◇
真っ暗だった。
自分の荒い息と、バーガスの息だけが聞こえる。外では、嵐が船体を叩いていた。ざあざあと、雨のような音。遠い唸り。
サフィは手探りで、冷たい金属の床に座りこんだ。
「……助かったの?」
「たぶんな」
「たぶん、ばっかり」
閉めた内扉の向こうで、裂け目から吹きこむ砂が、さあさあと鳴っていた。
そのとき、闇の中で、何かが鳴った。
ひゅうん、と、細く高い音。
それから、壁の中で、何かが目を覚ます気配がした。
青い光が、灯った。
最初は一つだった。サフィの目の前の壁に、小さな青い点が瞬いた。それが、ひとつ、またひとつと増えていく。壁を伝い、天井を走り、床の縁をなぞって、通路の奥へ奥へと、光の筋が駆けていく。
まるで、眠っていた巨大な生き物の血管に、血が通いはじめたようだった。
通路が、照らし出された。
丸く天井の高い、白い通路だった。壁には、見たこともない文字が刻まれている。床には、細かな砂が薄く積もっていた。通路は奥へと緩やかに傾いて、青い光の中に、どこまでも続いていた。
船は、二人を迎え入れたのだ。
コーヒーが至福。




