鐘守(後編)
翌朝も、鐘は七回鳴った。
サフィは、今度は数えなかった。代わりに、鐘楼の螺旋階段を上った。
一段ごとに、石が軋む。壁には、手すり代わりに打ち込まれた鉄の杭が並んでいて、どの杭も、握られ続けたところだけが鈍く光っていた。
最上段に着くと、狭い鐘室の真ん中に大きな青銅の鐘が吊られていた。その下で、鐘守が綱を手にしたまま、肩で息をしていた。
「来ると思ったよ」
鐘守は、サフィの顔を見もせずに言った。
「戸口の傷のこと、聞きに来たんだろう」
サフィは頷いた。鐘守は窓枠に手をついて、眼下の街を見下ろした。朝の光が、砂の上に家々の影を長く伸ばしていた。
「この街にはね、昔は人がいた。たくさんじゃない。いちばん多いときで、二十人ほどだったかね。それでも、街だった。朝になると、どこかの家から必ず煙が上がった」
「……うん」
「井戸の石が弱った年に、若いのが出ていった。水の出る土地を探してくるって言ってね。それから、ひとり、またひとりさ。病で死んだのもいる。砂嵐の晩に、帰ってこなかったのもいる」
鐘守は、窓枠の木目を指でなぞった。
「出ていくときにはね、戸口の柱に傷をひとつ刻むのが、この街の決まりだった。帰ってきたら、自分の手で削って消す。そういう約束だった」
「消しに来た人は……」
「いないよ」
鐘守は、あっさりと言った。
「最後の七人になったとき、あたしは鐘を七回鳴らすことにした。朝、目が覚めたら、七回。この街にはまだ七人いるって、どこかで聞いてるかもしれない誰かに、知らせるためにね。帰ってくる場所はまだあるよ、って」
「でも、今は」
「ああ。今は、あたしひとりだ」
鐘守は、鐘の綱を握り直した。皺だらけの手のひらに、綱の跡がくっきりと刻まれていた。何年も、何年も、同じ綱を握り続けてきた手だった。
「やめりゃいいって思うだろう。あたしも、何度も思ったよ。腕は上がらないし、階段はきついしね。けど」
鐘守は、ほんの少しだけ、声を落とした。
「六回に減らした朝、あたしはひとり、本当に死なせちまう気がするのさ。七回鳴ってるうちは、この街は七人だ。誰も、いなくなっちゃいない」
サフィは、何も言えなかった。
言葉を探して、見つからなくて、それでも何か言わなければと思って口を開きかけたとき、鐘守が先に笑った。
「年寄りの意地さ。気にしなさんな」
◇
夕食の席で、サフィは鐘守から聞いたことを、バーガスに話した。
バーガスは、黙って干し肉を噛みながら聞いていた。話し終えても、しばらく何も言わなかった。
「ねえ、どうにかできないの」
「何をだ」
「……分かんない。分かんないけど」
サフィは焚き火に小枝を放り込んだ。火の粉が、星のない夜空へ舞い上がっていく。
「他人の意地に、口を出すな」
バーガスは、それだけ言った。
サフィは膝に顔を埋めた。分かっている。分かっているのだ。誰かの七回を、六回にする権利も、八回にする権利も、通りすがりの旅人にはない。
それでも、あの手のひらの綱の跡が、目の裏から消えなかった。
◇
その夜更け、バーガスはひとりで鐘楼を上った。
サフィが寝息を立てはじめたのを確かめてからのことだった。螺旋階段を上るたび、膝の古傷が鈍く痛んだ。
「面倒だ」
誰に言うでもなく、呟く。
鐘室に着くと、バーガスは鐘の下に潜りこみ、内側に吊られた打ち金を灯りで照らした。思ったとおりだった。打ち金の芯に埋め込まれた魔導石に、細いひびが走っている。音を整えるための石だ。これが割れたまま打てば、音は濁り、遠くまでは届かない。
いや、と、バーガスは思い直した。届かないどころではない。このまま打ち続ければ、ひびは広がり、いずれ石ごと砕ける。そうなれば、鐘はもう、まともな音を出さない。
バーガスは腰の袋から、小さな青い石をひとつ取り出した。旅の途中、どこかの廃墟で拾ったものだ。大きさは、ちょうどいい。
ひびの入った石を外し、新しい石をはめ込む。指先で軽く叩くと、石の奥で、澄んだ光が一度だけ脈打った。
作業を終えて振り返ると、階段の降り口に、鐘守が立っていた。
いつからそこにいたのかは、分からない。鐘守は何も言わず、バーガスも何も言わなかった。
バーガスは、鐘守の横を黙って通り過ぎ、階段を降りていった。
鐘守は、その背中が見えなくなるまで見送ってから、鐘の下にしゃがみこんだ。新しい石が、闇の中でかすかに青く光っていた。
◇
発つ朝は、よく晴れていた。
バーガスが直した靴は、驚くほど足に馴染んだ。サフィは何度も足踏みをして、その具合を確かめた。
鐘楼の下で、鐘守が二人を待っていた。手には、干した果実を包んだ布を持っていた。
「持っていきな」
「いいの?」
「どうせ、ひとりじゃ食べきれない」
サフィが布包みを受け取ると、鐘守は二人の顔を順に見て、言った。
「何日いた」
最初に会ったときと、同じ問いだった。
「三日」とサフィが答えた。
「そうかい。三日か」
鐘守は、何かを確かめるように、その数を口の中で繰り返した。
「三日いりゃ、上等だ」
何が上等なのかは、言わなかった。鐘守は二人に背を向け、螺旋階段を上っていった。
◇
二人は、街の外れの砂丘を上りはじめた。
鐘が鳴ったのは、ちょうど砂丘の頂に着いたときだった。
ごぉん。
サフィは足を止めた。
違う、と思った。昨日までと、音が違う。濁りがない。澄みきった音が、まっすぐに空へ昇り、砂の海の上を、どこまでも渡っていく。
ごぉん。
二つ、三つ。
サフィは振り返り、知らず知らずのうちに、指を折っていた。
四つ、五つ、六つ。
七つ。
そこで、終わるはずだった。
ごぉん。
サフィの指が、止まった。
ごぉん。
九つ。
それきり、音は止んだ。澄んだ余韻だけが、いつまでも空に残っていた。
「……九回」
サフィは、隣に立つバーガスを見上げた。
「わたしたち、数に入ってる」
何日いるんだい。最初の問いの意味が、ようやく分かった気がした。あれは、客か、街の者かを確かめる問いだったのだ。
バーガスは鐘楼の方を見たまま、しばらく黙っていた。それから、ひどく居心地の悪そうな顔で、目を逸らした。
「……勝手なことを」
「直したの、あなたでしょ」
「知らん」
「音、全然違ったわよ」
「知らん」
サフィは声を上げて笑った。笑いながら、目の端に滲んだものを、手の甲で乱暴に拭った。
◇
砂丘を下りながら、バーガスは手帳を開き、短く何かを書きつけた。
サフィは横から首を伸ばした。
「何書いてるの」
「……癖だ」
答えになっていない、とサフィは思った。けれど、閉じかけた頁の端に、角ばった字がちらりと見えた。
――鐘、九つ。
それだけだった。
「それだけ?」
「それだけだ」
「鐘守さんのことは、書かないの?」
「書くことじゃない」
バーガスは手帳を懐に仕舞い、先に立って歩き出した。
サフィは、その背中を少しのあいだ見つめていた。それから、もう一度だけ、塔の街を振り返った。
鐘楼は、もう小さくしか見えなかった。
わたしなら書くのにな、とサフィは思った。名前を忘れたおばあさんが、九つ、鐘を鳴らしてくれたことを。三日いたら上等だと、言ってくれたことを。
明日の朝も、鐘は九回鳴るのだろうか。
誰も聞いていなくても。
澄んだ音は、きっと、砂の海を渡って、どこまでも遠くへ届く。それを数える誰かが、どこかにいるかもしれない。
サフィは前を向き、大きな背中を追いかけた。
アップロード順のミスで再度公開する事となりました。
すみません。




