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遺界放浪録  作者: 放浪猫
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3/16

鐘守(前編)


塔の街に着いたのは、陽が砂丘の向こうへ沈みきる、ほんの少し前だった。


近づくほどに、塔は大きくなった。遠くから見えていたのは、そのほんの上の方にすぎなかったらしい。砂に呑まれた根元のあたりには、崩れた家々が肩を寄せ合うように並び、錆びた鉄骨が、折れた肋骨のように空へ突き出していた。


風が鉄骨の間を抜けるたび、ひゅう、と細い音が鳴る。


通りには、かつて魔導灯だったらしい柱が等間隔に立っていた。硝子の覆いはどれも割れ、中の石は光を失って、ただの灰色の塊になっている。それでも、柱はまっすぐに立ち続けていた。照らすべき道が砂に埋もれても、照らすべき人がいなくなっても。


「立派な街だったのね」


サフィが、柱の一本に手を当てて言った。


「昔はな」


「今だって、立派よ。ちゃんと立ってるもの」


バーガスは答えなかった。答えないのは、否定しないということだと、サフィは勝手に解釈することにしている。


「ねえ、見て」


通りの角で、サフィが足を止めた。


砂に半分埋もれた戸口の前に、小さな素焼きの鉢が置かれていた。鉢には土が入っていて、細い草が一本、頼りなく伸びている。


土は、湿っていた。


「誰か、水をやってるのよ」


サフィの声は、抑えようとして抑えきれずに、少しだけ跳ねていた。


バーガスは鉢を一瞥し、それから通りの奥を見た。人影はない。足跡も、風がとうに消している。


「今日はここで寝る」


「人がいるかもしれないのに?」


「いるかもしれないから、だ」


「どういう意味よ」


「暗くなってから、知らない奴の家の戸を叩くな」


バーガスは崩れかけた家のひとつに入り、背負っていた荷を下ろした。屋根は半分しか残っていなかったが、風は防げる。サフィは不満そうに唇を尖らせたが、それ以上は言わなかった。言っても無駄だと、これまでの旅で覚えたのだ。


その夜、サフィはなかなか寝つけなかった。屋根の穴から見える割れた月が、やけに明るかった。


◇


鐘の音で、目が覚めた。


ごぉん、と腹の底に響く音だった。サフィは跳ね起き、毛布を蹴飛ばして外へ飛び出した。


ごぉん。


塔の根元、街の真ん中あたりに、石造りの鐘楼が立っていた。砂に呑まれずに残った、数少ない建物のひとつだ。音は、そこから降ってくる。


ごぉん。


「三つ」


サフィは指を折った。


四つ、五つ、六つ。


そして、七つ。


それきり、音は止んだ。余韻だけが、朝の冷たい空気の中で、しばらく震えていた。


「七回」


振り返ると、バーガスが戸口にもたれて立っていた。いつもの人相の悪い顔を、さらに顰めている。


「音が濁ってる」


「え?」


「打ち金のどこかが割れてる。耳障りだ」


サフィはもう一度、鐘楼を見上げた。言われてみれば、音の終わりに、ざらりとした雑音が混じっていた気がする。けれど、そんなことはどうでもよかった。


「鳴らした人がいるのよ、バーガス」


「だろうな」


「行ってみましょ」


「面倒だ」


バーガスがそう言い終わる前に、サフィはもう駆け出していた。


◇


鐘楼の下で、二人はその人に会った。


細い螺旋階段を、一段ずつ、手すりに体を預けながら降りてくる老婆だった。背は曲がり、髪は砂と同じ色をしていた。最後の一段を降りきってから、老婆はようやく顔を上げ、二人を見た。


驚いた様子は、なかった。まるで、二人が来ることを前から知っていたかのように。


「何日いるんだい」


それが、最初の言葉だった。


「えっと……」サフィは面食らって、バーガスを見た。


「水を汲んだら発つ」


「そうかい」


老婆はそれだけ言うと、二人の横をすり抜けて歩き出した。数歩行ったところで、振り返りもせずに言う。


「井戸はこっちだよ」


◇


井戸は、魔導式の汲み上げ機だった。真鍮の筒に青い石がはめ込まれていて、取っ手を回すと、石がかすかに光り、冷たい水が湧き上がってくる。


サフィは両手で水をすくい、喉を鳴らして飲んだ。


「おいしい!」


「そりゃよかった。客なんて、何年ぶりかね」


老婆は井戸の縁に腰を下ろし、膝をさすった。


「おばあさん、ここに一人で住んでるの?」


「見りゃ分かるだろう」


「お名前は?」


老婆は少し考えるような顔をして、それから、ふっと笑った。


「名前なんて、とうに忘れたよ」


「自分の名前を?」


「呼ぶ者がいなけりゃ、名前なんてのは用がないのさ。使わない道具は錆びて、そのうち、どこに仕舞ったかも分からなくなる」


サフィは何か言いかけて、口を閉じた。


それから、少しだけ考えて、言った。


「じゃあ……鐘守さん、って呼んでいい?」


老婆は、今度ははっきりと笑った。歯が何本か欠けていた。


「好きに呼びな」


バーガスは井戸から少し離れたところに立ち、黙って鐘楼を見上げていた。


◇


結局、二人はもう一晩、その街に泊まることになった。


サフィの靴の底が、すっかり剥がれていたのだ。砂漠を何日も歩けば、どんな靴でもそうなる。鐘守が、古い革と太い糸を出してきてくれた。直すには、半日はかかる。


バーガスは「面倒だ」と言ったが、反対はしなかった。


それどころか、靴を直すのは、いつの間にかバーガスの役目になっていた。サフィが針を三度指に刺したところで、黙って靴を取り上げたのだ。


鐘守の家の軒先で、バーガスは剥がれた底を外し、古い革を靴の形に合わせて切った。太い指が、驚くほど細かく動く。糸を通し、締め、また通す。その手つきには、迷いがなかった。


「器用なのね」


サフィは、隣にしゃがみこんで手元を覗いた。


「慣れだ」


「誰かに習ったの?」


針が、一瞬だけ止まった。


「……昔な」


それきり、バーガスは口をつぐんだ。サフィもそれ以上は聞かなかった。聞いても答えないときの顔だと、もう知っていた。


「わたしがやってたら、明日になってたわね」


「明後日だ」


「失礼ね」


軒先の日陰で、鐘守が二人のやりとりを黙って聞いていた。その口元が、ほんの少しだけ緩んでいたことに、二人は気づかなかった。


「歩いてこい。邪魔だ」


追い払われて、サフィは裸足に布を巻き、街を歩いた。


崩れた家々の中には、まだ暮らしの名残があった。卓の上に並んだままの、ふたつの木の椀。壁に掛けられた、色の褪せた子供の上着。窓辺に置かれた、小さな木彫りの鳥。どれも砂を薄くかぶっていたが、壊されてはいなかった。誰かが、そっとしておいたのだ。


戸口に奇妙なものがあることに気づいたのは、昼過ぎのことだった。


戸の脇の柱に、刃物で刻んだような傷がある。横一本の、短い傷。古いものなのだろう、縁は丸く削れ、砂で磨かれて、ほとんど木目と見分けがつかない。


ひとつの家に、ひとつずつ。


サフィは、街の家を一軒ずつ見て回った。傷のある家と、ない家がある。傷のある家の前には、決まって、あの素焼きの鉢が置かれていた。


陽が傾きかけた頃、サフィは見た。鐘守が、水を満たした桶を提げて、通りをゆっくり歩いていくのを。一軒ずつ、鉢の前で立ち止まり、柄杓で少しずつ水を注いでいくのを。


傷のある家の前でだけ。


声をかけようとして、サフィはやめた。そうしてはいけない気がした。


◇


夜、焚き火の前で、サフィは膝を抱えていた。


「ねえ、バーガス」


「なんだ」


バーガスは手帳を開いて、何かを書きつけていた。焚き火の明かりが、角ばった字の上で揺れている。


「戸口の傷、数えてきたの」


「そうか」


「六つあったわ」


ぱち、と薪が爆ぜた。


「鐘は七回だった。鐘守さんを入れたら、七人」


バーガスの手が、止まった。


「でも、この街には」


サフィは、闇の中にそびえる鐘楼の影を見上げた。


「鐘守さんしか、いないのよ」

しばらくは書き溜めた分を公開していきます。

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