鐘守(前編)
塔の街に着いたのは、陽が砂丘の向こうへ沈みきる、ほんの少し前だった。
近づくほどに、塔は大きくなった。遠くから見えていたのは、そのほんの上の方にすぎなかったらしい。砂に呑まれた根元のあたりには、崩れた家々が肩を寄せ合うように並び、錆びた鉄骨が、折れた肋骨のように空へ突き出していた。
風が鉄骨の間を抜けるたび、ひゅう、と細い音が鳴る。
通りには、かつて魔導灯だったらしい柱が等間隔に立っていた。硝子の覆いはどれも割れ、中の石は光を失って、ただの灰色の塊になっている。それでも、柱はまっすぐに立ち続けていた。照らすべき道が砂に埋もれても、照らすべき人がいなくなっても。
「立派な街だったのね」
サフィが、柱の一本に手を当てて言った。
「昔はな」
「今だって、立派よ。ちゃんと立ってるもの」
バーガスは答えなかった。答えないのは、否定しないということだと、サフィは勝手に解釈することにしている。
「ねえ、見て」
通りの角で、サフィが足を止めた。
砂に半分埋もれた戸口の前に、小さな素焼きの鉢が置かれていた。鉢には土が入っていて、細い草が一本、頼りなく伸びている。
土は、湿っていた。
「誰か、水をやってるのよ」
サフィの声は、抑えようとして抑えきれずに、少しだけ跳ねていた。
バーガスは鉢を一瞥し、それから通りの奥を見た。人影はない。足跡も、風がとうに消している。
「今日はここで寝る」
「人がいるかもしれないのに?」
「いるかもしれないから、だ」
「どういう意味よ」
「暗くなってから、知らない奴の家の戸を叩くな」
バーガスは崩れかけた家のひとつに入り、背負っていた荷を下ろした。屋根は半分しか残っていなかったが、風は防げる。サフィは不満そうに唇を尖らせたが、それ以上は言わなかった。言っても無駄だと、これまでの旅で覚えたのだ。
その夜、サフィはなかなか寝つけなかった。屋根の穴から見える割れた月が、やけに明るかった。
◇
鐘の音で、目が覚めた。
ごぉん、と腹の底に響く音だった。サフィは跳ね起き、毛布を蹴飛ばして外へ飛び出した。
ごぉん。
塔の根元、街の真ん中あたりに、石造りの鐘楼が立っていた。砂に呑まれずに残った、数少ない建物のひとつだ。音は、そこから降ってくる。
ごぉん。
「三つ」
サフィは指を折った。
四つ、五つ、六つ。
そして、七つ。
それきり、音は止んだ。余韻だけが、朝の冷たい空気の中で、しばらく震えていた。
「七回」
振り返ると、バーガスが戸口にもたれて立っていた。いつもの人相の悪い顔を、さらに顰めている。
「音が濁ってる」
「え?」
「打ち金のどこかが割れてる。耳障りだ」
サフィはもう一度、鐘楼を見上げた。言われてみれば、音の終わりに、ざらりとした雑音が混じっていた気がする。けれど、そんなことはどうでもよかった。
「鳴らした人がいるのよ、バーガス」
「だろうな」
「行ってみましょ」
「面倒だ」
バーガスがそう言い終わる前に、サフィはもう駆け出していた。
◇
鐘楼の下で、二人はその人に会った。
細い螺旋階段を、一段ずつ、手すりに体を預けながら降りてくる老婆だった。背は曲がり、髪は砂と同じ色をしていた。最後の一段を降りきってから、老婆はようやく顔を上げ、二人を見た。
驚いた様子は、なかった。まるで、二人が来ることを前から知っていたかのように。
「何日いるんだい」
それが、最初の言葉だった。
「えっと……」サフィは面食らって、バーガスを見た。
「水を汲んだら発つ」
「そうかい」
老婆はそれだけ言うと、二人の横をすり抜けて歩き出した。数歩行ったところで、振り返りもせずに言う。
「井戸はこっちだよ」
◇
井戸は、魔導式の汲み上げ機だった。真鍮の筒に青い石がはめ込まれていて、取っ手を回すと、石がかすかに光り、冷たい水が湧き上がってくる。
サフィは両手で水をすくい、喉を鳴らして飲んだ。
「おいしい!」
「そりゃよかった。客なんて、何年ぶりかね」
老婆は井戸の縁に腰を下ろし、膝をさすった。
「おばあさん、ここに一人で住んでるの?」
「見りゃ分かるだろう」
「お名前は?」
老婆は少し考えるような顔をして、それから、ふっと笑った。
「名前なんて、とうに忘れたよ」
「自分の名前を?」
「呼ぶ者がいなけりゃ、名前なんてのは用がないのさ。使わない道具は錆びて、そのうち、どこに仕舞ったかも分からなくなる」
サフィは何か言いかけて、口を閉じた。
それから、少しだけ考えて、言った。
「じゃあ……鐘守さん、って呼んでいい?」
老婆は、今度ははっきりと笑った。歯が何本か欠けていた。
「好きに呼びな」
バーガスは井戸から少し離れたところに立ち、黙って鐘楼を見上げていた。
◇
結局、二人はもう一晩、その街に泊まることになった。
サフィの靴の底が、すっかり剥がれていたのだ。砂漠を何日も歩けば、どんな靴でもそうなる。鐘守が、古い革と太い糸を出してきてくれた。直すには、半日はかかる。
バーガスは「面倒だ」と言ったが、反対はしなかった。
それどころか、靴を直すのは、いつの間にかバーガスの役目になっていた。サフィが針を三度指に刺したところで、黙って靴を取り上げたのだ。
鐘守の家の軒先で、バーガスは剥がれた底を外し、古い革を靴の形に合わせて切った。太い指が、驚くほど細かく動く。糸を通し、締め、また通す。その手つきには、迷いがなかった。
「器用なのね」
サフィは、隣にしゃがみこんで手元を覗いた。
「慣れだ」
「誰かに習ったの?」
針が、一瞬だけ止まった。
「……昔な」
それきり、バーガスは口をつぐんだ。サフィもそれ以上は聞かなかった。聞いても答えないときの顔だと、もう知っていた。
「わたしがやってたら、明日になってたわね」
「明後日だ」
「失礼ね」
軒先の日陰で、鐘守が二人のやりとりを黙って聞いていた。その口元が、ほんの少しだけ緩んでいたことに、二人は気づかなかった。
「歩いてこい。邪魔だ」
追い払われて、サフィは裸足に布を巻き、街を歩いた。
崩れた家々の中には、まだ暮らしの名残があった。卓の上に並んだままの、ふたつの木の椀。壁に掛けられた、色の褪せた子供の上着。窓辺に置かれた、小さな木彫りの鳥。どれも砂を薄くかぶっていたが、壊されてはいなかった。誰かが、そっとしておいたのだ。
戸口に奇妙なものがあることに気づいたのは、昼過ぎのことだった。
戸の脇の柱に、刃物で刻んだような傷がある。横一本の、短い傷。古いものなのだろう、縁は丸く削れ、砂で磨かれて、ほとんど木目と見分けがつかない。
ひとつの家に、ひとつずつ。
サフィは、街の家を一軒ずつ見て回った。傷のある家と、ない家がある。傷のある家の前には、決まって、あの素焼きの鉢が置かれていた。
陽が傾きかけた頃、サフィは見た。鐘守が、水を満たした桶を提げて、通りをゆっくり歩いていくのを。一軒ずつ、鉢の前で立ち止まり、柄杓で少しずつ水を注いでいくのを。
傷のある家の前でだけ。
声をかけようとして、サフィはやめた。そうしてはいけない気がした。
◇
夜、焚き火の前で、サフィは膝を抱えていた。
「ねえ、バーガス」
「なんだ」
バーガスは手帳を開いて、何かを書きつけていた。焚き火の明かりが、角ばった字の上で揺れている。
「戸口の傷、数えてきたの」
「そうか」
「六つあったわ」
ぱち、と薪が爆ぜた。
「鐘は七回だった。鐘守さんを入れたら、七人」
バーガスの手が、止まった。
「でも、この街には」
サフィは、闇の中にそびえる鐘楼の影を見上げた。
「鐘守さんしか、いないのよ」
しばらくは書き溜めた分を公開していきます。




