木霊の森(前編)
その森では、声が遅れて返ってくる。
巨人の城跡を発って五日。灰色の丘陵がゆるやかに下りはじめた先で、サフィは足を止めた。
丘の裾から先が色を変えていた。
最初は夕焼けが地面に落ちているのかと思った。深い葡萄酒のような赤。錆びた鉄のような茶。そして焦げたような黒。その色が見渡すかぎりこんもりと盛り上がって、地平線まで続いている。
それが木々の葉だと分かるまでに、しばらくかかった。
「……森?」
サフィは自分の声が掠れているのに気づいた。
森という言葉は知っていた。けれど本物を見るのは初めてだった。これまでに見た木といえば、砂漠の縁にまばらに立つ、葉の一枚もない枯れ木だけだった。
これは違う。生きている。
「入るの、ここに」
「通るしかない」
バーガスはいつもの調子で言って、丘を下りはじめた。
◇
森の中は昼なのに夕暮れのようだった。
幹は大人が三人で手を繋いでも抱えきれないほど太く、根は地面から大きく持ち上がって、門のような弧を描いていた。その根の下をくぐるたびに、サフィは身をかがめなければならなかった。
頭上では赤と茶と黒の葉が幾重にも重なり合って、空を塞いでいた。差しこむ光は葉を透かして赤く染まっていた。森の中のすべてが、薄い血の色に浸されているようだった。
そのかわり、森の底は光っていた。
幹に張りついた苔が淡い青に光っている。足もとの落ち葉の間から、小さな茸がぽつりぽつりと白く灯っている。赤い薄闇の中に、青と白の光の粒が、星空を逆さにしたように散らばっていた。
サフィは手近な枝に垂れていた葉に、そっと触れた。
温かかった。
人の肌のような、かすかな温もり。指で裏返すと、黒い葉の裏に銀色の細い筋が、血管のように走っていた。
「……生きてるみたい」
「生きてる」
バーガスは振り返らずに言った。
「この森の木は古い。人がいた頃より、ずっと前からある」
少し歩いたところで、サフィはまた足を止めた。
一本の大木の幹に、何かが埋まっていた。
錆びた鉄の柱だった。かつての魔導灯の柱だろうか。それが木の幹に半分以上呑みこまれている。樹皮が柱をゆっくりと包みこむように盛り上がって、柱の先の硝子の覆いだけが、幹から空へ突き出していた。
覆いの中で石がかすかに光っていた。
まだ灯っている。
木に呑まれて、何百年も経っているはずなのに。葉の隙間から落ちる雨だけを、硝子の覆いがずっと受けとめてきたのだろう。
その先にも同じようなものがあった。木の根に絡めとられた荷車の車輪。枝の股に挟まったまま、樹皮に覆われかけた兜。幹の中から取っ手だけを覗かせている扉。
かつてここにあった街を、森がゆっくりと食べているのだった。
食べて、自分の一部にしている。
「……きれいね」
サフィはそう言ってから、自分でも驚いた。怖い、と言うつもりだったのに。
美しいから厄介。砂の下の船で、バーガスはそう言っていた。
鉄の匂いと、熟れすぎた果実のような甘い匂いが、森の空気に混じっていた。
◇
太い幹の表面で、何かが動いた。
サフィは目を凝らした。樹皮の上を、樹皮と同じ色をした何かが滑っている。
魚だった。
手のひらほどの平たい魚が、幹の表面をすいすいと泳いでいた。鱗は樹皮そっくりの、ひび割れた茶色をしている。鰭を小刻みに震わせて、幹の上を上へ下へ。止まると、もうどこにいるのか分からない。一匹ではなかった。よく見ると、どの幹にも何匹も貼りついて、苔の光のあいだを縫うように泳いでいる。
「木の上を、魚が……」
「幹魚だ。樹液を舐めてる」
「水がなくても平気なの?」
「この森は、空気が湿ってるからな」
一匹がサフィの目の高さで止まった。丸い目がくるりと動いて、こちらを見た。指を近づけると、ぱっと身を翻して、幹の裏側へ消えていった。
少し先の低い茂みの下で、サフィはもう一度足を止めた。
小さな獣が丸くなって眠っていた。狐に似ているけれど、耳が体と同じくらい長い。灰色の毛並みが、寝息に合わせてゆっくりと上下している。まわりには、黒くつやつやした実がいくつも転がっていた。かじりかけのものもある。茂みの枝にも、同じ黒い実が鈴なりに下がっていた。
「かわいい。寝てる」
二人がすぐそばを通っても、獣は耳ひとつ動かさなかった。
バーガスはちらりとそれを見ただけで、何も言わなかった。
◇
霧が出ていた。白く薄く、赤い薄闇の中を漂っている。
「静かね」
サフィが言った。
その声は霧に吸われて消えた。
「ここでは、大声を出すな」
バーガスが前を向いたまま言った。
「どうして?」
「残る」
「残るって、何が」
バーガスは答えなかった。
二人がしばらく歩いたとき、どこか遠くで子供の笑い声がした。
サフィは足を止めた。
「……今の、聞こえた?」
「ああ」
「子供よ。こんな森の奥に」
笑い声はもう一度した。今度は少し近い。きゃあきゃあと、何人かで追いかけっこでもしているような甲高い声だった。
それから、女の声。
――ごはんよう。早く帰っておいで。
サフィは声のほうへ駆け出しかけて、バーガスに腕を掴まれた。
「行っても、誰もいない」
「でも、今……」
「木霊だ」
バーガスは手近な大木の幹に手を当てた。苔むした樹皮の下で、何かがかすかに脈打っているような気がした。
「この森の木は、声を溜める。溜めて、何年も経ってから吐き出す」
「何年も?」
「十年か、五十年か。木によって違う」
サフィは霧の奥を見つめた。
ごはんよう、とまた声がした。もう誰も帰ってこない子供たちを呼ぶ声。呼んでいる母親も、とうにいないのだろう。それでも声だけが、森の中を迷子のように漂っている。
大声を出すな。残る。
サフィはようやく、その意味が分かった。
◇
「どうして知ってるの」
しばらく歩いてから、サフィは聞いた。
「木霊のこと。この森、来たことがあるの?」
「昔、聞いた」
「誰に?」
バーガスは答えなかった。代わりに足もとの倒木を跨いで、先へ進んだ。
サフィは少し唇を尖らせて、その後を追った。
昼過ぎに、二人は森の中の小さな空き地に出た。
倒れかけた小屋が一軒、苔に呑まれて建っていた。木こりの小屋だったのだろう。軒先に錆びた斧が一本、立てかけられたままになっている。小屋の前には切り株がいくつも並んでいて、その切り口はどれも黒く朽ちていた。
そこで声がした。
――いち、に、さん。
斧を振るう音と一緒に、低い男の声が数を数えていた。
――し、ご、ろく。
こん、こん、と乾いた音が霧の中に響く。目の前には誰もいない。錆びた斧は軒先に立てかけられたまま、ぴくりとも動かない。
――しち、はち。
サフィは息を詰めて、その声を聞いていた。
――く。
――……じゅう。よし、今日はここまでだ。
声はそこで途切れた。
それから少しだけ間を置いて、同じ男の声がぽつりと言った。
――明日も、来られるといいがな。
サフィは軒先の斧を見た。柄は、握られ続けたところだけが黒く艶を帯びていた。
この人は明日も来られたのだろうか。
来られたのなら、明日の声もどこかの木に溜まっているはずだった。サフィは耳を澄ませた。霧の中はしんと静まり返っていた。
◇
日が傾いて、森の赤がいっそう暗く沈みはじめた頃だった。
バーガスが急に立ち止まった。
片手を上げてサフィを制した。それからゆっくりと膝をつき、地面に手のひらを当てた。
どん、と。
足の裏から何かが響いてきた。
どん。
遠くで何かが地面を踏んでいる。
「伏せろ」
低い声だった。サフィは言われるまま、根の窪みに身を沈めた。バーガスがその上に覆いかぶさるようにして、外套を広げた。
どん。どん。
近づいてくる。
木々の間の赤い薄闇の向こうで、何かが動いた。最初は木が歩いているのかと思った。それほど大きかった。灰色の皺だらけの皮膚。苔に覆われた背中。四本の脚の一本一本が、大木の幹ほどもある。
頭は見えなかった。高すぎて、葉の天蓋の向こうに隠れていた。
それが二人の隠れた根の、ほんの十歩先をゆっくりと通り過ぎていった。
どん。どん。どん。
地面が揺れるたびに、頭上の葉がざあっと鳴った。幹魚たちがいっせいに幹の裏へ逃げこんだ。
サフィは息を止めていた。バーガスの外套の下で、自分の心臓の音がうるさいほど聞こえた。
やがて足音は森の奥へ遠ざかっていった。
長い長い時間が経ってから、バーガスがようやく体を起こした。
「……今の、何」
サフィの声は震えていた。
「知らん」
「知らないの!?」
「見たのは初めてだ」
バーガスは地面に残された足跡を見下ろしていた。サフィが寝転んでもすっぽり収まりそうなほどの、深い窪みだった。窪みの底で、踏み潰された光る茸がまだ白く瞬いていた。
「襲ってはこない。たぶんな」
「たぶん!?」
「こっちを見てなかった」
バーガスは外套の土を払って立ち上がった。
「ああいうのは、小さいものを見ない。見るのは、自分と同じくらい大きいものだけだ」
サフィは窪みを見つめた。それから自分の手のひらを見た。
あれから見れば、自分たちは落ち葉と同じなのだ。
ふと、サフィは頭上を見上げた。
葉の天蓋の隙間に、何かが引っかかっていた。丸くて、濡れたように光るもの。その下から細い糸のようなものが垂れている。
目が合った気がした。
瞬きをすると、もうそこには何もなかった。赤い葉が風に揺れているだけだった。
「バーガス、今、上に……」
バーガスも同じところを見ていた。それから黙って目を逸らした。
「行くぞ」
それだけだった。
森の奥で、あの足音がまだかすかに響いていた。どん、と。どん、と。
この森にはまだ、自分の知らないものがいる。
修正前のものを上げてしまったので差し替えました。
すみません。




