木霊の森(後編)
その夜は大きな根の弧の下で野宿をした。
火を熾す前に、バーガスは森の中を少し歩いて、両手いっぱいに何かを抱えて戻ってきた。
赤い実と黒い実だった。どちらも指先ほどの大きさで、つやつやと光っていた。
「赤いのは食える。黒いのは食うな」
「どうして?」
バーガスは答えなかった。黒い実をひとつ摘まんで、焚き火の明かりにかざした。
「なんでも聞くな。考えろ」
「考えろって……」
サフィは黒い実を見た。つやつやとして、赤い実よりおいしそうにさえ見える。どうして食べてはいけないのか。毒なら、もっと嫌な色をしていそうなものなのに。
黒い実。どこかで見た。
昼間の茂みだ。鈴なりの黒い実。そのまわりに転がっていた、かじりかけの実。そして、その真ん中で眠っていた獣。二人がすぐそばを通っても、耳ひとつ動かさなかった。
あれは、眠っていたのではなくて。
「……食べると、眠っちゃうの?」
バーガスは黒い実を焚き火に放った。
「三日、夢から醒めん。その間に、何に食われても気づかん」
サフィは手の中の黒い実を、慌てて地面に落とした。
それから、少しだけむっとした。
「最初から教えてくれればいいじゃない」
「聞くのは悪くない」
バーガスは火に枝をくべた。
「だが、答えるやつがいつもそばにいるとは限らん」
「……」
「いないときは、手もとにあるもので考えろ。見たもの、聞いたもの、匂い。この世界で生き残るのは、考えられるやつだ」
サフィは黙って、焚き火の向こうの横顔を見た。いつもより、少しだけ言葉が多かった。
「……バーガスも、そうやって覚えたの?」
「半分はな」
「残りの半分は?」
バーガスは答えなかった。
赤い実は甘酸っぱかった。噛むと果汁がはじけて、舌の上でほんの少しだけ痺れた。干し肉と干した果実ばかりの旅で、新しい味はそれだけで嬉しかった。
バーガスは残りの赤い実を布に包んで、荷に仕舞った。それから苔むした岩の窪みに溜まった雨水を手で掬って、匂いを嗅いだ。一口だけ含んで、しばらく舌の上で転がしてから、ようやく水袋に汲んだ。
「ねえ、それ」
言いかけて、サフィは口をつぐんだ。
なんでも聞くな。考えろ。
サフィはバーガスの手もとを見た。匂いを嗅ぐ。少しだけ含む。すぐには飲まない。
「……匂いで、腐ってないか確かめて。ちょっとだけ舐めて、苦かったり痺れたりしないか、見てるのね」
バーガスの手が少しだけ止まった。
「……ああ」
それだけだった。けれどサフィは、なんだか少しだけ誇らしくなった。
焚き火の明かりの外で、小さな光がいくつも動いていた。
青く光る苔の上を何かが這っている。手のひらほどの、ふわふわした毛の塊のような生き物だった。目も口も見えない。それが苔に覆いかぶさるたびに、苔の光がすうっと消えていく。
光を食べているのだ。
一匹が焚き火のほうへ、そろそろと近づいてきた。サフィが息を呑んで見ていると、毛の塊は火の縁で止まり、しばらくそこで震えていた。それから諦めたように、また闇の中の苔のほうへ戻っていった。
「火は、食えないのね」
サフィはなんだか可笑しくなって、くすくす笑った。
◇
森を抜けるのに、まる二日かかった。
その間、二人はいろいろな声を聞いた。
木を伐る斧の音と、男たちの掛け声。
誰かが誰かに好きだと告げる、震える声。それに答える声はなかった。別の木に溜まって、まだ吐き出されていないのかもしれない。
老人がひとりで歌う子守唄。
喧嘩をして、泣きながら謝る子供の声。それに「もういいよ」と答える、別の子供の声。こちらはちゃんと同じ木から聞こえた。
サフィはそれを聞いて、なぜだか少しほっとした。
「なんだか、覗き見してるみたいね」
焚き火の前で、サフィは膝を抱えた。
「みんな、まさか何十年も後に、知らない旅人に聞かれるなんて思ってなかったでしょうね」
「だろうな」
「わたしたちの声も、溜まってるのかしら」
サフィは頭上の枝を見上げた。
「ずっと先に誰かがここを通ったら、わたしの声が聞こえるのよ。ねえ、バーガス、の声が」
「迷惑な話だ」
「何がよ」
「おまえの声は、うるさい」
「失礼ね!」
サフィは手近な木に向かって、大きく息を吸いこんだ。
「バーガスの、ばか!」
声は霧の中に吸いこまれていった。
「大声を出すなと言った」
「だから出したのよ」
サフィは胸を張った。
「……何十年か後に、誰かがこれを聞くのよ」
「いい迷惑だ」
けれどバーガスの口の端が、ほんの少しだけ動いた気がした。
◇
二日目の夜のことだった。
サフィは浅い眠りの中で、その声を聞いた。
最初は女の笑い声だった。からからと、空まで突き抜けるような、遠慮のない笑い声。
それから若い男の声。
――笑うな。
――だって、あんた、その顔。
――……面倒だ。
女はまた笑った。
サフィは毛布の中で目を開けた。
若い男の声だった。今のバーガスよりずっと高くて、細い。けれどその言い方がおかしかった。ぶっきらぼうで、拗ねたようで、そのくせどこか照れくさそうな。
サフィはくすりと笑った。
「……あなたみたいな人、昔もいたのね」
焚き火の向こうに声をかけた。
返事はなかった。
バーガスは起きていた。毛布もかけずに焚き火の前に座ったまま、声のしたほうの闇をじっと見ていた。
その横顔はサフィには見えなかった。焚き火の明かりがちょうど届かない角度だった。
「バーガス?」
「……寝ろ」
低い声だった。いつもと同じようで、少しだけ違った。
森の奥で、女がもう一度笑った。それきり声は聞こえなくなった。
◇
翌朝、森の出口が見えた。
木々が途切れ、白い光が差しこんでいる。その先には霧に煙る湖が広がっていた。
サフィは森の縁の最後の木の前で足を止めた。昨夜の声のことを聞こうかどうか迷った。
聞く前に、考えた。
木霊のことを、バーガスは「昔、聞いた」と言った。誰に、とは言わなかった。昨夜は毛布もかけずに、声のしたほうの闇を見ていた。今朝は先を歩きながら、一度も森のほうを見ようとしない。
だから、聞かなかった。
代わりにサフィは最後の木の幹に手を当てて、小さな声で言った。
「わたしたち、ここを通ったわよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。何十年か先にここを通る誰かか。それとも昨夜笑っていた、あの女の人か。
森を出ると、背中のほうで風が木々を揺らした。
ずっと遠くの、どこかの木の奥で、誰かが笑ったような気がした。
寒くなってきましたね。




