湖畔の水売り(前編)
森を出ると、霧の海だった。
乳白色の霧が見渡すかぎり静かに満ちている。その奥のどこかで青い光が灯っていた。ひとつではない。あちこちでぼうっと滲んでは薄れる。霧そのものがゆっくりと息をしているようだった。
音はなかった。日の在りかも分からない。白く淡い明るさだけが、朝とも夕ともつかずに広がっている。
ひやりとした霧が頬を撫でた。かすかに水の匂いと、冷えた石のような匂いがした。
「……バーガス?」
「ここだ」
外套の黒い肩が白の中にぼんやりと浮かんでいた。
岸辺の葦は根もとのあたりだけが白く色を抜かれていた。打ち上げられた小魚の骨も、鳥の骨も、異様なほど白い。
「飲めるかしら」
水袋を手に岸へしゃがみこんだサフィの手首を、バーガスが掴んだ。
「飲むな」
バーガスは白く抜けた葦の根もとを顎で示した。それから水際の鳥の骨を。
「毒だ。古い時代の」
サフィはそっと水袋を引っこめた。
指先が急に冷たくなった。あとひと息で、この水を口に含むところだった。澄んで見えるわけでもない。けれど喉は渇いていて、手は勝手に動いていた。背中を遅れて寒気が這いのぼってきた。
サフィは小さく息を吐いた。
「……バーガスがいなかったら、わたしもう何千回も死んでるわね」
バーガスは返事をしなかった。黙って岸辺を歩き出した。
日が高くなるにつれて、霧が少しずつ薄くなった。
そしてサフィは見た。
湖の中に氷が立っていた。
最初はそう思った。白く濁った水面から、透きとおった柱が何本も何本も突き出している。細いものは人の腕ほど。太いものは家ほどもある。まっすぐ空を指すもの、斜めに傾いだもの、途中で枝分かれしたもの。それが湖の沖まで、林のように続いていた。
氷ではなかった。陽が当たっても溶けない。
水晶だった。
柱の内側が淡く青く光っていた。陽の光を返しているのではない。芯のほうからぼうっと灯っている。
霧の奥で滲んでいた青は、この光だったのだ。
「燐雨と同じ光……?」
サフィは呟いた。巨人の門の下で見た、光る雨。翌朝、水溜まりの底だけが青く灯っていた。
「違う」
バーガスが言った。
「あれは毒だ。湖の毒が固まったものだ」
「毒が、こんなに……」
きれいに、とは言えなかった。
霧がさらに薄れて、湖の沖が見えてきた。
沖へ行くほど水晶は太く、密になっていた。柱という柱が湖の真ん中へ向かって傾いでいる。何かを取り囲むように。何かに引き寄せられるように。
その真ん中に黒いものが突き出していた。
岩ではなかった。白く濁った水面から、巨大な黒い板が何枚も斜めに突き出している。縁はまっすぐで、角は鋭い。山や岩には、あんな形はない。人の手が造った形だった。板の表面には水晶がびっしりと生えて、青白く灯っていた。
水の下に、もっと大きなものが沈んでいる。突き出しているのはそのほんの端だけなのだと、サフィにはなぜか分かった。
「……あれ、なに」
「昔の戦の何かだ」
バーガスは沖から目を離さなかった。
「底に沈んで、まだ毒を吐いてる」
「何かって?」
「知らん。知らなくていい」
風がひと吹き、湖面を渡った。
水晶が鳴った。
細い柱どうしが触れ合って、ちりん、と鈴のような音がした。それが隣へ、そのまた隣へと伝わって、湖じゅうが小さく、高く、低く鳴った。音は霧に溶けて、いつまでも消えなかった。
サフィは息をするのも忘れて、その音を聞いていた。
それから湖の向こう岸に、細い煙が一本立ちのぼっているのに気づいた。
「人がいる」
◇
湖は思ったより大きかった。向こう岸までは岸辺をぐるりと回っていくしかない。日が傾いても煙はまだ遠く、二人は湖が見下ろせる岩陰で夜を明かすことにした。
水袋の水は残り少なかった。サフィはひと口だけ含んで我慢した。
焚き火が小さくなっていく。湖のほうから、水晶の鳴る音がかすかに届いていた。ちりん、ちりん、と。
外套にくるまって目を閉じると、その音は少しずつ遠くなった。
遠くなって、別の音に変わっていった。
石を打つ、誰かの足音に。
◇
――――石畳が冷たかった。
小さなサフィは壁と壁のあいだの細い隙間にうずくまっていた。膝を抱えても、体の震えは止まらない。通りの向こうでは、見上げるほど大きな何かの影が空の半分を塞いでいた。
誰もサフィの名前を呼ばない。
足音が通り過ぎていく。誰かが誰かを呼ぶ声。戸が閉まる音。灯りがひとつずつ消えていく。そのどれも、サフィのためのものではなかった。
石の隙間で何かが動いた。
蜥蜴だった。指ほどの、灰色の小さな蜥蜴。サフィは息を殺して手を伸ばし、それを掴んだ。手の中で冷たい体がもがいた。
サフィはそれを口に入れた。
噛んだ。
おいしい、と思った。
おいしいと思わなければ、食べられなかった。
◇
「起きろ」
肩を揺すられて、サフィは目を開けた。
灰色の空。霧の湖。岩陰の焚き火の跡。見下ろしているのは、黒い無精ひげの顔だった。
「……トカゲは?」
サフィはあたりを見回した。石畳はなかった。壁もなかった。湿った草と、乳白色の湖があるだけだった。
「何を言ってる」
「……なんでもない」
サフィは外套の襟を引き寄せた。手のひらが冷たかった。何かを握っていたような気がして、指を開いてみた。何もなかった。
バーガスはもう荷をまとめはじめていた。いつもと同じ背中だった。
サフィはその背中をしばらく黙って見ていた。
路地裏から連れ出されて、もうすぐ一年になる。この背中について歩いてきた。砂漠も、巨人も、声の溜まる森も。
どこへ向かっているのかは、知らない。
聞いてもこの人は「知らん」としか言わないから。
「行くぞ」
バーガスが荷を背負った。
サフィは外套の土を払って、その背中を追った。湖の向こうで、細い煙がまっすぐ空へ昇っていた。
◇
煙の下には、小屋が一軒だけあった。
石を積んだ低い壁に、葦で葺いた屋根。軒先から、雨を受ける樋が大きな甕へ伸びている。小屋の脇には畑がひと畝と、物干しの竿。湖に面した側には、水晶の柱が何本も垣根のように立ち並んでいた。
村ではなかった。ほかに家はない。
戸口から少女が飛び出してきた。
十三、四だろうか。日に焼けた頬にそばかすが散って、栗色の髪を二本の三つ編みにして垂らしている。少女は二人の前で急に止まって、目をまんまるにした。
「……旅の人?」
「ええ」
「旅の人だ! 久しぶり!」
少女は二人のまわりをぐるぐると回りはじめた。
「どこから来たの? 何を見てきたの? 砂漠って本当にあるの? 海は? 竜は?」
「ちょ、ちょっと待って」
サフィは笑いながら、少女の肩を押さえた。
「一個ずつね。砂漠はあったわ。ずっと砂ばっかりで、喉がからからになるの」
「本当に? すごい!」
「リタ」
小屋の奥から男の声がした。
痩せた男が戸口に立っていた。歳は四十ほど。頬がこけて、目の下に濃い影がある。けれど二人を見ると、男は顔じゅうで笑った。
「珍しいな、旅の人か。娘が騒いですまない。俺はトマ。この子はリタだ」
男は二人を小屋へ招き入れた。
中は狭く、よく片づいていた。土間の真ん中に腰ほどの高さの大きな陶の壺が据えてある。口には真鍮の蓋がかぶせてあった。蓋の真ん中に拳ほどの乳白色の石が嵌めこまれている。
「浄めの壺だ」
トマは誇らしげに蓋を撫でた。
「湖の水を汲んで、ひと晩入れておく。それで毒が抜ける。沈んだ街から俺が若い頃に拾い上げた魔導具だ」
「毒が抜けるの?」
「抜けるさ。俺たちはこれで生きてきた」
トマは柄杓で壺の水を汲んで、木の杯に注いだ。
透きとおった水だった。湖の白い濁りはどこにもない。
「さあ。喉が渇いてるだろう」
サフィは杯を受け取った。冷たかった。
喉が鳴った。昨夜からひと口しか飲んでいない。
「旅の人はみんなここで水を汲んでいく。北の道は、この先四日水場がないからな」
トマは自分の杯を手に取って、土間の奥の小さな甕から水を汲んだ。
「対価は少しだけもらう。魔導石をひとつ。袋に二つ満たしてやる」
トマの目がバーガスの腰の石袋に一瞬だけ留まった。
それから自分の杯をぐいと飲み干してみせた。
「ほらな。何ともない」
サフィは杯を口もとへ運んだ。
そこで、手が止まった。
トマは自分の杯を土間の奥の小さな甕から汲んでいた。
浄めの壺からではなかった。
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放浪猫




