湖畔の水売り(中編)
サフィは杯を口に当てたまま、飲むふりをした。
唇を濡らしただけで、喉は動かさなかった。
考えろ。
湖の水は毒だ。この壺の水は、湖の水だ。トマは浄めたと言う。けれど自分では、この壺の水を飲まない。
たまたまかもしれない。奥の甕のほうが近かっただけかもしれない。
サフィは杯を下ろして、壺の蓋を見た。真鍮の蓋の真ん中に嵌まった、乳白色の石。
砦灯の石と同じ色だった。
砦灯の籠の中には、光の粒が見える。満ちれば渦を巻き、尽きれば消える。巨人の台座の小窓も、そうだった。
この石の中には、光の粒がひとつも見えなかった。
「……ねえ、バーガス」
サフィは杯をバーガスに差し出した。目だけで蓋の石を示した。
バーガスは、はじめからサフィを見ていた。
杯を口もとへ運ぶ手。そこで止まった指。トマの杯へ、壺の蓋へと動いた目。サフィが本当に喉を動かしていたら、バーガスはその杯を払い落としていただろう。膝の上でバーガスの手はずっと開いたままだった。
バーガスは杯を受け取った。それから壺の蓋に目をやって、縁に指を這わせた。真鍮の継ぎ目に、髪の毛ほどの細いひびが一筋走っていた。バーガスはしばらく黙っていた。
「水はあとでもらう」
バーガスは杯を卓に置いた。
「先に湖を見せてくれ。この辺りは初めてだ」
トマの笑顔がほんの一瞬だけ固まった。
「……ああ。もちろんだ。リタ、案内してやりなさい」
◇
小屋を出て、湖の縁に沿って歩いた。
リタは先に立って、跳ねるように歩いた。
「この柱はね、叩くと鳴るの」
リタは拾った木の枝で、水晶の柱をこつんと叩いた。高く澄んだ音が霧の中に伸びていった。隣の柱を叩くと、少し低い音。その隣は、もっと低い。
リタは枝を走らせて、短い節を奏でてみせた。素朴な、子守唄のような節だった。
「母さんが教えてくれたの」
リタは湖の縁の小さな盛り土を指さした。水晶の欠片が一つ、墓標がわりに立ててあった。
「二年前に死んじゃった。湖の熱で」
「湖の熱?」
「壺の具合がね、悪くなってたの。それに気づかないで毒の水を飲んでたの。体が熱くなって、だんだん起きられなくなって」
リタは枝で墓標の水晶をそっと叩いた。小さな音がした。
「湖の水はね、布で漉しても煮てもだめなの。煮ると、かえって毒が濃くなるんだって。だから壺がないと飲めないの」
「ノノも同じ熱が出たの。わたしの弟。でも壺は父さんが直したの。ノノのことも父さんが治してくれてるの。奥の部屋で、ずっと眠ってるの」
「眠ってる?」
「うん。起きると熱がひどくなるから。父さん以外は入っちゃだめなんだって」
サフィはバーガスの顔を見た。バーガスは湖を見ていた。
「旅の人はよく来るの?」
サフィは話を変えた。
「ううん、ほとんど来ない。一年に何人か。でもね、来た人はみんなお水を喜んでくれるの」
リタは嬉しそうに言った。
「みんな北の道へ行ったよ。お水をいっぱい持って」
サフィの背中がすうっと冷たくなった。
「……そのあと、その人たちに会った?」
「ううん。旅の人は戻ってこないもの」
リタは首をかしげた。
「あ、でもね。父さんは時々北の道へ何日も出かけるの。帰ってくると魔導石を持ってる。道に落ちてるんだって」
リタはまた枝で水晶を叩いた。澄んだ音が、霧の中へ消えていった。
サフィはもう、何も聞けなかった。
◇
日が傾いた頃、サフィは炉にくべる枯れ葦を集めに小屋の裏へ回った。
裏手の雨の甕のそばで、二つの影が話していた。
バーガスとトマだった。
サフィは思わず物干しの竿に掛かった布の陰で足を止めた。
「旅人は何を話してた」
バーガスの低い声がした。
「……みんな、北だ」
トマは少し黙って、それから短く言った。
「生界……」
バーガスは小さくうなずいた。
「見た者は」
「いない。誰も」
バーガスは黙った。それから懐の手帳を取り出して、何かを短く書きつけた。
布が風にはためいた。
サフィは息を殺して、そっとその場を離れた。
北。生界。
聞いたことのない言葉だった。けれどバーガスがあんな顔で人に何かを尋ねるのを、サフィは初めて見た。
◇
その夜、二人は小屋の隅に寝床をもらった。
水はまだもらっていなかった。トマは夕餉のときに何度も水を勧めたが、バーガスは「明日の朝、出るときに汲む」とだけ言った。サフィの水袋は空だった。喉がひりひりと痛んだ。
眠れなかった。
炉の燠がちりちりと鳴っていた。リタは炉のそばで丸くなって、寝息を立てている。バーガスは壁にもたれて目を閉じていた。
奥の部屋の戸の下から、細い光が漏れていた。
青白い光だった。水晶の芯の色。
サフィはそっと寝床を抜け出した。
戸には錠がかかっていなかった。指先で押すと、音もなく開いた。
中は小さな部屋だった。
部屋の真ん中に、それはあった。
硝子の揺り籠だった。子どもがひとり、すっぽり収まるほどの大きさ。縁には真鍮の細工がめぐらせてあり、その足もとに魔導石がひとつ嵌まっている。石の中で光の粒がゆっくりと渦を巻いていた。揺り籠全体が、その光で青白く灯っていた。
硝子の中で、小さな男の子が眠っていた。
五つか、六つ。頬は赤く、額に汗の粒が浮いている。熱のある子どもの顔だった。けれど胸は、動いていなかった。汗の粒はひとつも流れ落ちなかった。
時が止まっていた。
保存庫だ、とサフィは思った。砂の下の船の、魔導の保存庫。何百年も前のパンを、焼きたてのまま留めていた。
この揺り籠は、熱を出したその瞬間のまま、子どもを留めている。
部屋の隅に、何かが積み上がっていた。
石だった。
魔導石だった。けれど、どれも灰色に濁っていた。拳ほどのもの、指先ほどのもの、欠けたもの。それが部屋の隅に膝の高さほどの山になっていた。
サフィはひとつ拾い上げた。
冷たかった。ただの川原の石のように、重く、鈍かった。揺り籠の光にかざしてみた。奥に光の粒はひとつもない。もうひとつ拾った。同じだった。その隣も、その下も。
山のどこにも、灯っている石はなかった。
この部屋で光っているのは、揺り籠の足もとの、ひとつきりだった。
サフィはその石を見た。中で渦を巻く光の粒は、まばらだった。ゆっくりと、心もとなく漂っている。砦灯の籠の中の、使い果たしたあとの光に似ていた。
全部、使い切ったのだ。この揺り籠に食わせて。一つ、また一つと。
山の脇に、ものが並べてあった。ひびの入った方位磁針。革の水袋。片方だけの、小さな靴。
どれも、旅の道具だった。
サフィは石の山を見つめた。数えようとした。十。二十。三十。
数えきれなかった。
背中で、床がきしんだ。
振り返る前に、口を塞がれた。
「見たのか」
トマの声だった。耳のすぐ後ろで、低く掠れていた。
首に、冷たいものが当たった。刃だった。
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