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遺界放浪録  作者: 放浪猫
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湖畔の水売り(後編)


「石袋を出せ」


トマは部屋の戸口に向かって言った。


戸口に、バーガスが立っていた。


「全部だ。そうすればこの娘は返す」


サフィの首筋で、刃がかすかに震えていた。トマの腕も、震えていた。


バーガスは動かなかった。揺り籠の青白い光がその顔を下から照らしていた。


「刃を下ろせ」


低い声だった。荒げてはいなかった。


それでもトマの肩がびくりと跳ねた。


「来るな」


バーガスは一歩、部屋に入った。


「昼間、おまえはこいつに杯を渡した」


もう一歩。


「今は刃を当ててる」


トマが下がった。背中が揺り籠の硝子に当たって、硬い音を立てた。


バーガスの拳は、体の脇で固く握られていた。


「次はない」


トマは何か言いかけて、口を閉じた。目がバーガスの顔から離せずにいた。


バーガスは揺り籠に目を落とした。


「その子のためか」


「そうだ」


「石ひとつでひと月か」


トマの息が止まった。


「……ひと月と、少しだ」


「揺り籠の石は、あと何日だ」


トマの喉が鳴った。


「……十日もない」


「ここの灰色の石は何人分だ」


トマは答えなかった。


「数えたか」


「数えてない」


トマの声が裂けた。


「数えないようにしてきた。北の道を四日行けば、みんな倒れてる。俺は石を拾ってくるだけだ。殺してはいない。俺は水を渡しただけだ」


「浄めの壺は壊れてる」


「知ってる! 二年前に蓋が割れた! 石を替えても、もう灯らない! 直せる者もいない!」


トマは叫んだ。


「雨の甕の水は、俺たち三人が飲む分しかない。この湖で、ほかにどうしろって言うんだ。この子の母親は、壺が割れたのに気づかずに汲んだ水で死んだ。この子も同じ熱を出した。揺り籠を見つけたとき、神様がくれたんだと思った。石さえあればこの子は死なない。いつか熱を治せる者が来るまで」


「そいつが来るまでに、あと何人だ」


トマの刃がサフィの首から離れた。


腕がだらりと下がった。刃が土間に落ちて、乾いた音を立てた。


トマはその場に膝をついた。


バーガスは刃を拾い上げて、自分の腰に差した。


サフィは揺り籠の前まで後ずさって、首を押さえた。指先に血はついていなかった。


◇


夜が明けるまで、誰も眠らなかった。


トマは揺り籠のそばに座りこんで、硝子に額を押し当てていた。


サフィは炉のそばで膝を抱えていた。怒りが胸の底で煮えていた。何十人。何十人も。北の道で、水袋を抱えたまま倒れていった人たち。それを拾い集めて、この人は。


それなのに硝子の中の子どもの顔を見ると、怒りの行き場がなくなった。


あの子は、何もしていない。


「……どうするの」


サフィはバーガスに聞いた。


「壊すの? あの揺り籠」


「壊したらあの子が死ぬ」


「じゃあこのまま? また誰かが来て、水を飲んで、北の道で」


「させん」


バーガスは立ち上がった。石袋の口を開けて、中から魔導石をひとつ取り出した。


光の粒が、ぎっしりと渦を巻いていた。


バーガスはそれをトマの前の床に置いた。


トマが顔を上げた。


「これでひと月はある」


バーガスは言った。


「その間に別れを済ませろ」


トマの目が見開かれた。


「北の道の入り口に印を刻んでいく。小屋の水は買うな、とな。もう誰もここで水を買わん。石はそれきりだ」


トマは床の石を見つめた。手を伸ばしかけて、止めた。


「……治せる者が、いつか」


「来ないと、決まったわけじゃない」


バーガスは言った。


「だが、それを待つためにほかのやつの命を使うな」


トマは長いあいだ動かなかった。


それから床の石を両手で包みこんで、額に押し当てた。肩が震えていた。声は出していなかった。


サフィは何も言えなかった。


巨人の台座に、バーガスは石を置いた。あと一年はもつ、と言った。誰も来ないのに、と自分は言った。


あのときの石は、誰かが来るのを待つための石だった。


この石は、待つのをやめるための石だった。


◇


戸口の陰に、リタが立っていた。


いつから聞いていたのか、サフィには分からなかった。リタは寝間着のまま、裸足で、両手を体の脇に垂らしていた。顔には何の色もなかった。


リタは黙って土間を横切った。


浄めの壺の前に立った。


両手で壺の縁をつかんで、押した。


壺が傾いた。真鍮の蓋が外れて、床に転がった。壺は土間に倒れて、割れた。白く濁った水が、土間いっぱいに広がった。


誰も止めなかった。


リタは割れた壺を見下ろしていた。それから軒先の雨の甕のほうへ歩いていった。


戻ってきたとき、リタは二人の水袋を抱えていた。袋は膨らんでいた。


「これが本当の水」


リタはサフィに水袋を押しつけた。


「父さんとノノとわたしの分。でも、あげる」


「リタ、それは……」


「次の雨までちゃんと足りるから」


リタはサフィの目を見なかった。


「わたし、旅の人が好きだったの。お水を喜んでくれるから。来るたびに嬉しかったの」


リタの声が、そこで途切れた。


サフィはリタを抱きしめた。リタの体は小さく、冷たかった。泣いてはいなかった。泣き方をまだ見つけられないでいるようだった。


バーガスは黙って炉の前にしゃがみこんだ。


鍋に湖の水を汲んで、火にかけた。鍋の上に浅い皿を逆さにかぶせる。皿の縁から布を垂らして、その先を空の杯に落としておく。


やがて鍋が煮え立った。湯気が皿の裏にこもり、冷えて雫になる。雫は布を伝って杯の底に、ぽつり、ぽつりと落ちていった。


「湯気は毒を連れていかん」


バーガスはリタに言った。


「毒は鍋に残る。皿の裏の雫だけ集めろ」


リタは杯を覗きこんだ。底に指の先ほどの水が溜まっていた。透きとおっていた。


「……これ、飲めるの?」


「一日かけて杯にひとつかふたつだ。それでも雨の降らん日の足しにはなる」


リタは杯を両手で包んだ。


戸口の陰で、トマが顔を覆っていた。


知らなかったのだろう、とサフィは思った。壺さえあればいいと思っていた。壺が壊れてからは、雨の甕しかないと思っていた。鍋と皿と布があれば、ほんの少しずつでも、毒のない水は作れたのに。


知っていれば、助かった命があった。湖の熱で死んだ母親も。北の道で倒れた旅人たちも。


◇


北の道の入り口に、ひときわ大きな水晶の柱が立っていた。


バーガスは小刀で、柱の根もとに文字を刻んだ。湖の水、飲むな。煮ても抜けん。小屋の水を買うな。湯気の雫を集めろ。


刻み終えると、バーガスは柱を一度拳で叩いた。低い音が湖に響いた。


振り返ると、小屋の前にリタが立っていた。片手に水晶を叩く木の枝を持っていた。


「わたし、旅に出たかったの」


リタが言った。


「でもノノがいるから。あとひと月、ノノのそばにいる」


サフィは何か言おうとした。何も言葉にならなかった。


リタは枝で垣根の水晶を叩いた。


母親が教えてくれたという、あの子守唄だった。高い音と低い音が、霧の残る湖の上を渡っていった。小屋の奥の、硝子の揺り籠の中まで届けようとするように。


二人は北の道を歩き出した。


子守唄はずいぶん長いあいだ、背中のほうから聞こえていた。


◇


昼過ぎ、丘の上で休んだ。


サフィはリタにもらった水袋の口を開けた。


ひと口、含んだ。


冷たかった。かすかに葦の屋根の匂いがした。


喉を通っていく水の重さを、サフィは知っていた。三人分の、次の雨までの水。


トマの水は、石ひとつで袋に二つだった。


この水は、石では買えなかった。


サフィはゆっくりと、もうひと口だけ飲んだ。それから水袋の口を固く結んだ。


◇


その夜は、北の道の脇の岩陰で野営した。


焚き火のそばで、サフィは膝を抱えていた。


トマは、息子のために歩いた。人を死なせてまで。


リタは、弟のために残った。旅に出る夢を置いて。


自分は、何のために歩いているのだろう。


この背中についてきた。それだけだった。


「バーガス」


「なんだ」


「生界ってなに」


バーガスの手が焚き火に枝をくべるところで止まった。


「小屋の裏でトマさんに聞いてたわよね。旅の人たちが何を話してたか。みんな北へ行ったって。それから生界って」


「……聞いてたのか」


「聞こえたの」


サフィはバーガスを見た。


「あなたもそれを探してるんでしょ」


「知らん」


「また、それ」


声が自分で思ったより強く出た。


「知らん、知らんって。どこへ行くのか聞いても知らん。何を探してるのか聞いても知らん。わたし、ずっとそれでいいと思ってた。あなたの後ろを歩いていれば、それでいいって」


サフィは膝を抱える腕に力をこめた。


「でも、もう嫌。ついていくだけなのは」


焚き火がはぜた。


バーガスはしばらく、何も言わなかった。焚き火の向こうから、サフィの顔をじっと見ていた。初めて見るものを見るような目だった。


やがて低い声で言った。


「……北の果てに生界があるという」


サフィは黙って聞いた。


「毒のない水が湧いて、人が安心して眠れる土地だ。旅人の口から口へ、噂だけが伝わってる。俺も何度か聞いた」


「行ったことは?」


「ない。見たやつにも会ったことがない」


バーガスは枝を一本火にくべた。


「知らんのは本当だ。どこにあるのかも。あるのかどうかも」


「……どうして今まで言わなかったの」


バーガスは答えなかった。


長い沈黙のあとで、ぽつりと言った。


「ないかもしれんものを当てにさせたくなかった」


サフィは息を呑んだ。


トマの顔が浮かんだ。いつか、熱を治せる者が来る。その望みに縋って、あの人は。


望みは、人を歩かせる。けれど望みは人を狂わせもする。この人はそれを知っているのだ。たぶん、ずっと前から。


「……見つけたら」


バーガスが言った。


「おまえはそこに住め」


サフィは顔を上げた。


「あなたは?」


「俺はまだ歩く」


それだけだった。


それだけではない気がした。古いものの前で長いあいだ立ち止まる横顔を思い出した。楽な暮らしを探す人の顔ではなかった。


けれど今夜は、それ以上は聞かなかった。


サフィは立ち上がって、外套の土を払った。


「わたしは住まないわよ」


「……なぜだ」


「ひとりで食べるトカゲより、ふたりで食べるトカゲのほうがおいしいからよ」


バーガスは少しだけ黙った。


「……なんだそれは」


サフィは答えなかった。焚き火のそばに座り直して、膝を抱えた。


炎の向こうで、バーガスが手帳を開いていた。何かを書きかけて、やめて、また閉じた。


◇


その夜、バーガスの手帳にはこう書かれていた。


――湖畔の水売り。命の対価。


中耳炎も風邪も治りました。

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