渡り島(前編)
北の道は、そこで終わっていた。
三日歩いた草の原が、刃物で断ち切ったように途切れていた。その先には何もなかった。
足もとから、岩の壁がまっすぐ下へ落ちている。底は見えない。ずっと下のほうに青い闇が溜まっていて、そこから冷たい風が吹き上がってくる。
サフィは崖の縁に腹這いになって、そっと覗きこんだ。小石をひとつ落としてみた。いつまで待っても、音は返ってこなかった。
裂け目の向こうに対岸の崖が見えた。遠い。その上に、灰色の山並みが雲をかぶって続いている。
こちら側の縁には、石の柱が二本立っていた。柱の根もとから太い鎖が垂れて、裂け目の闇の中へ消えている。橋の名残だった。向こうの崖に、渡す先の柱はなかった。
「……橋、落ちてる」
「ああ」
「……これじゃ、渡れないじゃない」
バーガスは黙って空を見上げた。
サフィもつられて顔を上げた。
そして、口を開けたまま動けなくなった。
島が浮いていた。
裂け目の上の空に、岩の塊がいくつも漂っている。家ほどの小さなもの。丘ほどのもの。ひとつは村がまるごと載りそうなほど大きかった。
どの島の上にも草が生えていた。木の立っている島もあった。島の底からは、土と岩と、絡みあった木の根が逆さの森のように垂れ下がっている。根の先から細い水がこぼれていた。水は糸のように長く落ちて、途中でほどけ、細かな飛沫になって風にさらわれていく。陽が当たると、飛沫の中に小さな虹がいくつも架かった。
島はどれも、ゆっくりと動いていた。風に押される雲のように。けれど雲よりずっと重たげに、同じ向きへ。
「……島が、飛んでる」
自分の声がかすれていた。
島と島のあいだを、何かが漂っていた。
半透明の、鐘の形をしたものだった。人の背丈ほどの大きさで、光を透かして淡い虹色に揺らめいている。鐘の縁から、髪の毛より細い糸が何十本も垂れていた。糸の先が島の岩肌を撫でるたびに、鐘の体がふわりと膨らみ、またしぼむ。
それが十、二十と群れて、島の影から影へ流れていく。
「……おとなしそう」
「浮き鐘だ。苔を食ってる」
バーガスは群れを目で追った。
「腹が減ってなけりゃな」
サフィは浮き鐘の群れから目を離せなかった。息をするように膨らんで、しぼんで、音もなく空を渡っていく。
◇
石の柱の片方に、文字が刻まれていた。
風に削られて、溝の角が丸くなっている。苔が文字の形に沿って緑の線を引いていた。
「何か書いてある。……わたしには読めないわ」
バーガスは柱の前にしゃがんで、指で溝をなぞった。
「渡り島は日に一度、昼過ぎにこの縁へ寄る」
「誰かが、渡る人のために残してくれたのね」
「この先の山に住んでた連中だ。橋が落ちてから刻んだんだろう」
サフィはバーガスの横顔を見た。
文字を読むのに、少しも迷わなかった。空に浮かぶ島を見上げたときも、驚いた顔をしなかった。浮き鐘の名前も、何を食べるのかも知っていた。
「……ねえ。ここ、来たことあるの?」
少し間があった。
「前に一度、渡った」
それきり、バーガスは柱にもたれて目を閉じた。
サフィは膝を抱えて、空を眺めた。
島はひとつずつ、決まった道をなぞるように流れていた。裂け目の上を大きく回って、また戻ってくる。いちばん大きな島は、ほとんど動いていないように見えた。小さな島ほど速かった。
浮き鐘が一匹、群れから離れて、崖のすぐ上まで降りてきた。サフィの頭の上を、透けた体がゆっくりと横切っていく。体の内側で、細い筋が脈を打つように光っていた。垂れた糸が、崖の縁の草をさらさらと撫でていった。
糸に撫でられた草の葉先から、苔だけがきれいに消えていた。
サフィはそっと首をすくめた。
◇
陽が真上を過ぎた頃、ひとつの島が近づいてきた。
中くらいの島だった。端から端まで、歩いて百歩ほど。草の上に崩れかけた石の家が一軒建っていて、そのまわりに木が何本も枝を広げている。
島は音もなく滑ってきて、崖の縁に並んだ。島の端の草と、崖の縁の草が触れあいそうなところまで寄った。足もとの裂け目の幅は、大股で一歩ほどだった。
「行くぞ」
バーガスが先に跳んだ。
島の上に降り立って、振り返る。手が差し出された。
サフィは下を見ないようにして、その手を掴んだ。地面を蹴った。
降りた先の地面が、ほんのかすかに沈んだ。
舟の上に立ったようだった。足の裏の土は確かに土なのに、その下の何もかもが、ゆっくりと揺れていた。
振り返ると、崖の縁が離れていくところだった。石の柱が遠ざかる。一歩の幅が二歩になり、十歩になり、すぐに跳べる距離ではなくなった。
もう戻れなかった。
◇
石の家は、半分が崩れていた。
残った壁は大きく傾いていた。床に敷かれた石も、みな同じ向きに傾いている。家ごと、地面ごと斜めに持ち上げられたようだった。
家のまわりの木には、実がなっていた。
拳ほどの大きさの、淡い金色の実だった。皮が薄く透けて、中の種の影が見える。
サフィは低い枝の実をひとつもいで、かじった。
顔が勝手にすぼまった。
「……すっぱい」
「下のは、まだだ」
バーガスは手を伸ばして、高い枝から実をひとつもいだ。サフィに放る。
かじると、甘かった。果汁が口の中にあふれて、乾いた喉を濡らしていった。
前に来たときも、この人はこの実を食べたのだ。たぶん、低い枝のすっぱいのから。
「……前のときは、下のをかじったんでしょ」
バーガスは答えずに、自分の実をかじった。
食べ終えて、サフィは島の縁まで歩いてみた。
縁に膝をついて、下を覗いた。
島の底が見えた。垂れ下がる根のあいだに、石の層が何段にも重なっている。平たく切られた石が隙間なく並んだ層。その下に、錆びた管が何本も通った層。さらにその下に、逆さになった石段が途中まで残っていた。上る者のいない石段が、空に向かって下りていた。
「……ここ、どこかの街の地面だったのね」
「かもしれん」
風が吹いて、根の先から水がこぼれた。水は長い糸を引いて落ちていき、裂け目の闇に届く前にほどけて消えた。
◇
島の端に、古い木が一本立っていた。
幹がねじれて、裂け目のほうへ大きく傾いている。根の半分は宙に浮いていた。
その幹に、縄が巻かれていた。
灰色に褪せた縄だった。ところどころに苔が生えて、硬く強ばっている。幹に二重に巻いて結ばれ、残りの端が島の縁から垂れていた。腕の長さを三つほど垂れたところで、ほつれて途切れている。その先が、風にかすかに揺れていた。
バーガスの足が止まった。
長いあいだ、黙って縄を見ていた。
「……まだ残っていたのか」
サフィはバーガスを見上げた。
「あなたの?」
バーガスは結び目に手を触れた。指の下で、乾いた苔がぽろぽろと崩れた。
「昔、ここで落ちかけた」
それだけ言って、バーガスは縄から手を離した。
サフィはもう一度、縄の先を見た。ほつれた端の向こうには、底のない青い闇しかなかった。
◇
日が傾いて、空が赤くなった。
島は裂け目のまんなかへ流れ出ていた。前を見ても後ろを見ても、崖は遠かった。島の影が、ほかの島の上を長く横切っていた。
浮き鐘が降りてきたのは、そのときだった。
さっきまで高いところを漂っていた群れが、ひとつ、またひとつと高さを下げてくる。夕陽を透かして、鐘の体が赤く燃えるように光っていた。垂れた糸が島の草の上に届き、さらさらと撫ではじめる。
ひとつ、ふたつ、十。群れがまるごと、島の上に降りてきた。
「サフィ、木の下へ――」
バーガスの声と同時に、足首に何かが触れた。
冷たかった。濡れた絹のような感触だった。
見下ろすと、細い糸が何本も足首に巻きついていた。透けた糸の内側を、光の筋がすうっと走った。
糸が締まった。
ぐい、と引かれた。
サフィの足が、地面から離れた。
インフルエンザ流行ってるみたいなので気を付けて。




