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遺界放浪録  作者: 放浪猫
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渡り島(後編)


体が浮いた。


足首を吊られて、頭が下になった。草の地面が目の前から遠ざかっていく。外套の裾がめくれて、顔にかぶさった。


頭の上に、浮き鐘が三つ見えた。糸はみな、サフィの足首につながっていた。鐘がそろって膨らむたびに、サフィの体がまた少し持ち上がる。


その向こうに、空があった。


足もとの、ずっと下に。


「バーガス!」


手首を掴まれた。


バーガスが地面を蹴って、サフィの腕を捕まえていた。重みで、鐘たちがぐらりと傾いた。


バーガスは片手でサフィを抱えこむと、腰から刃を抜いた。湖の小屋で、トマの手から落ちた刃だった。


糸を払った。


張りつめた糸が、ぷつりぷつりと切れていった。切れた糸は宙で縮れて、夕陽にきらきらと光りながら落ちていった。


二人は草の上に落ちた。


浮き鐘たちは、ぶるりと身を震わせた。切られた糸を縮めて、高いところへ逃げていった。


「木の下だ。走れ」


バーガスはサフィの腕を引いて、金色の実の木の下へ駆けこんだ。


頭の上で、枝が重なりあっていた。


浮き鐘の群れは、枝の上を漂っていた。糸を垂らして、葉を撫でる。けれど枝のあいだまでは、糸を下ろしてこなかった。一本の糸が枝に引っかかると、その鐘はあわてたように身をよじって、糸を巻き取った。


「枝の下から出るな。あいつらは、糸が絡むのを嫌う」


サフィは木の幹に背中を押しつけて、荒い息をついた。


足首に赤い筋が何本も巻きついていた。糸の跡だった。ひりひりと熱かった。


バーガスはサフィの足を取って、水袋の水を少しかけた。布を裂いて、きつく巻いた。


「……それも、知ってたのね」


バーガスは布の端を結んだ。


答えなかった。


◇


浮き鐘の群れが島を離れていった頃、赤い光の中に、崖が見えた。


向こう岸の崖だった。


島がゆっくりと向きを変えて、崖のほうへ寄っていく。岩肌の割れ目のひとつひとつまで見えた。崖の上に生えた草が、風に揺れているのも見えた。


近かった。


助走をつければ、跳べそうに見えた。


バーガスが立ち上がった。


ねじれた古い木の脇まで歩いて、崖を見た。それから振り返って、サフィを見た。


「跳ぶ刻は、おまえが決めろ」


「えっ……わ、わたしが!?」


サフィは思わず一歩下がった。踵のすぐ後ろで、草の縁が途切れていた。


「ついていくだけは嫌なんだろう」


湖のほとりの、あの夜の言葉だった。


サフィは息を呑んだ。それから立ち上がって、バーガスの隣に並んだ。


崖が近づいてくる。


胸が早鐘を打っていた。今だ、と言いかけた。喉まで出かかった。


――考えろ。


サフィは唇を噛んだ。


赤い光が、崖の岩肌に深い影を刻んでいた。影のせいで、岩が手の届くところにあるように見える。けれど本当にそうなのか、分からなかった。夕暮れの光は、ものの遠さを嘘にする。


そのとき、浮き鐘が一匹、島と崖のあいだを横切った。


人の背丈ほどの鐘が、ふわりと間を抜けていく。鐘の縁と崖の岩とのあいだに、まだ広い空が残っていた。鐘が三つは並んで通れそうだった。


「……まだ」


サフィは言った。


バーガスは何も言わなかった。


崖はそれ以上は近づかなかった。しばらく島と並んで流れて、それから、ゆっくりと遠ざかっていった。赤い光が褪せて、岩肌が夕闇に沈んでいく。


サフィは止めていた息を、細く吐いた。


隣を見上げると、バーガスがサフィを見下ろしていた。


長いあいだ、そうしていた。


「……そうか」


バーガスはそれだけ言って、古い木の根もとに腰を下ろした。灰色の縄が、すぐ横の幹に巻きついていた。


「俺は、今ので跳んだ」


◇


その夜は、金色の実の木の下で火を焚いた。


枯れて落ちた枝を集めると、小さな火になった。島の上の夜は寒かった。風が下から吹き上げてくる。


頭の上には、割れた月が出ていた。


島の縁の向こうにも、星があった。ほかの島の影の、そのまた下に。星に囲まれて、島ごと空に浮かんでいるようだった。


バーガスは火に枝をくべていた。


サフィは膝を抱えて、黙って待った。


やがて、バーガスが口を開いた。


「前に渡ったときは、ひとりだった」


火がはぜた。


「柱の刻みには、昼にこっちへ寄るとしか書いてなかった。向こうへいつ寄るかは、書いてなかった」


「……それで」


「日暮れに、さっきと同じように崖が近づいた。届くと思って跳んだ」


バーガスは枝を一本、火の中へ押しこんだ。


「届かなかった」


サフィは膝を抱える腕に力をこめた。


「縄だけは、あの木に結んでおいた。島の縁からぶら下がって、ひと晩そのままだった」


「ひと晩……」


「浮き鐘が、まわりをずっと回ってた」


サフィは思い浮かべた。島の縁から垂れた一本の縄。その先で、底のない闇の上に揺れながら朝を待つ。まわりを、あの透けた鐘がゆっくり回っている。


「……どうやって、助かったの」


「夜明けに、島がまた崖へ寄った。今度は、島の縁が岩をこするところまで」


バーガスは火を見ていた。


「ぶら下がったまま、崖に手が届いた。縄を切って、這い上がった」


ねじれた木の幹で、灰色の縄の端が揺れていた。


あの切れ端は、そのとき切った縄なのだ。


「昔って、いつ頃?」


バーガスは少し黙った。


「おまえくらいの歳だ」


サフィは目を見開いた。


今の自分と同じくらいの歳の、この人を思い浮かべようとした。うまくいかなかった。けれど、ひとつだけ分かった。


そのとき、隣には誰もいなかったのだ。手を差し出す者も、跳ぶ刻を一緒に見る者も。この人はひとりで落ちて、ひとりで朝を待って、ひとりで法則を見つけた。


「……わたしが今って言ってたら、どうしてた?」


サフィは聞いた。


バーガスは答えなかった。


かわりに、荷の中から新しい縄を一巻き、取り出した。膝の上でほどいて、結び目をこしらえはじめた。


太い指が、迷いなく動いた。


サフィはしばらく、その手もとを見ていた。それから、ねじれた木の幹を見た。灰色の縄の結び目を。


同じ形だった。


「おまえは、跳ばなかった」


バーガスが、ぽつりと言った。


結び目を締めて、縄を膝に置いた。


「……俺より、ましだ」


サフィは何か言おうとした。うまく言葉にならなかった。


だから膝を抱えたまま、少しだけバーガスのほうへ寄った。


◇


明け方、空が白みはじめた頃、島がまた崖へ寄っていった。


バーガスは新しい縄を古い木の幹に巻いて、結んだ。もう片方の端を、サフィの腰に巻きつけた。


「あなたは?」


「俺は跳べる」


バーガスは腰の刃に手をかけて、サフィの斜め後ろに立った。


崖が近づいてくる。


朝の光は青白く、冷たかった。夕暮れのような赤い影はなかった。島の縁と崖のあいだの空が、見たとおりの幅で細くなっていく。浮き鐘ひとつぶん。その半分。


島の縁が、崖の岩をこすった。


ごり、と低い音が足の裏に伝わった。小石がぱらぱらとこぼれて、闇の中へ落ちていった。


「――今!」


地面を蹴った。


一瞬、足の下に青い闇が見えた。


それから、硬い岩が足の裏を打った。サフィは膝をついて、崖の上の草を両手で掴んだ。


すぐ横に、重い足音がした。バーガスだった。


腰の縄が、ぐんと張った。島が離れはじめていた。サフィの体が、縁のほうへずるりと引かれた。


バーガスの刃がひらめいた。


縄が切れた。


切れた縄は宙で大きくしなって、島のほうへ戻っていった。ねじれた木の幹から垂れて、風に揺れた。


灰色の古い縄の、すぐ隣だった。


島は朝の光の中を、ゆっくりと離れていった。金色の実の木が遠ざかる。傾いた石の家が遠ざかる。古い木の幹で、二本の縄が並んで揺れていた。一本は灰色に褪せて、一本はまだ新しかった。


サフィは崖の縁に座りこんだまま、それを見送った。


◇


崖の上には、細い道が続いていた。


灰色の岩を削った坂道が、山の上へ向かって曲がりくねっている。道の入り口に、こちら側にも石の柱が立っていた。向こうの崖と同じ、橋の名残だった。


柱には、やはり文字が刻まれていた。


バーガスは柱の前で足を止めた。サフィが目を向けるより先に、低い声で読んだ。


「記録庫へ。山道を上れ」


「きろくこ?」


「古い記録を預かってる場所だ」


サフィは坂道の先を見上げた。雲をかぶった山の、ずっと上へ続いている。


「北の道を歩いてた人たちも、みんなここを上ったのね」


「生界を探すやつは、まず記録を当たる」


「……じゃあ、あなたも」


バーガスは答えずに、荷を背負い直した。坂道を上りはじめる。


サフィはその背中を見つめた。


それから、気づいた。


行き先を聞いて、知らん、と返ってこなかった。この旅に出てから、初めてのことだった。


サフィは駆け足で、バーガスの隣に並んだ。


◇


その夜、バーガスの手帳にはこう書かれていた。


――渡り島。縄が二本になった。


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