第3話 凍りついた時間と、小さなノイズ
1
初夏の強い日差しが雑居ビルの窓を焼き、オフィスの扇風機がぬるい風をかき回していた。
プロデューサーの佐伯が、いつもより慎重な手つきで1冊のファイルをデスクに置く。
吉岡 健一(よしおか けんいち、42)・恵(めぐみ、41)。
結婚して12年。10年間に及ぶ過酷な不妊治療の末、ようやく授かった新しい命。現在妊娠6ヶ月。
「……一見すると、念願のベイビー、幸せの絶頂って感じだけどね」
エディターのケンジが、提出された過去の治療歴の分厚いデータを見て眉をひそめた。
「問題は、夫婦の温度差だ」
監督の槙野が、深く煙草の煙を吐き出す(今はベランダが彼の定位置だ)。
「旦那さんの健一さんからの熱烈な依頼に対し、奥さんの恵さんは撮影にかなり消極的らしい。事前面談でも、一度も僕らと目を合わせなかった」
撮影初日。吉岡家のマンションは、驚くほど静かだった。
不妊治療の専門書や、予定日までのカウントダウンが書かれたカレンダーが几帳面に並ぶリビング。そこに漂う空気は、歓喜というよりも、割れ物を扱うような薄氷の緊張感だった。
「恵、ほら、十月十日のみなさんだよ。挨拶」
夫の健一は、甲斐甲斐しく妻を気遣う。だが、その言葉の端々には「絶対に失敗できない」という強迫観念が滲んでいた。
恵は、少し大きくなったお腹をかばうように前かがみに座り、力なく微笑んだ。
「……よろしくお願いします。夫がどうしても、と言うので」
カメラマンの拓海は、ファインダー越しに恵の表情を追った。
彼女の目は、喜びに満ちているようには見えなかった。むしろ、何か大きな恐怖に怯え、息をひそめているかのように。
「ミチル、音はどうだ?」
インカムから槙野の声がする。
録音技師のミチルは、ヘッドホンを押さえながら首を横に振った。
「……静かすぎます。生活の音がしない。健一さんの声だけが浮いて聞こえる」
二人の会話には、不思議な「壁」があった。健一が子供の将来やベビー服の話を楽しそうにするたび、恵の呼吸はかすかに浅くなり、言葉を濁す。10年という歳月が、夫婦の間に奇妙な歪みを生んでしまっているようだった。
2
妊娠8ヶ月を迎えたある日、事件は起きた。
健一が仕事で不在の午後、恵が突然、激しい過換気症候群(過呼吸)を起こして倒れたのだ。
現場にいた拓海は、とっさにカメラを床に下ろした。だが、監督の槙野は「回せ」と低く指示を出した。非情に思えるが、これが彼女の現実なら、記録しなければならない。
ミチルが優しく恵の背中をさすり、ビニール袋を口元に当てる。激しい呼吸の音が、静かなリビングに痛々しく響く。
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
恵は涙を流しながら、お腹を抱え込んだ。
「私、怖いんです。嬉しくないわけじゃない。でも、この10年間、何度も何度も、真っ白な妊娠検査薬を見てきた。私の身体は、命を育てるのに向いてないんじゃないかって、ずっと責められてるみたいで……」
彼女にとって、お腹の命は「奇跡」であると同時に、「いつ消えてしまうか分からない恐怖の対象」だったのだ。夫の健一が喜べば喜ぶほど、「もし万が一のことがあったら」というプレッシャーが、彼女の心を押し潰していた。
「健一さんは、私の痛みを分かってくれてるって思いたかった。でも、あの人はもう、子供のことしか見てない。私の10年間の傷は、どこに行っちゃったの……?」
その夜、帰宅した健一に、槙野は1本の未編集の映像を見せた。
そこには、過呼吸に苦しみながら、孤独を吐露する妻の姿が映っていた。
健一は、言葉を失った。
「私は……恵のために、前を向こうと、明るくしようとしていたんです。僕だって、またダメだったらと思うと怖くてたまらない。だから、目を背けていただけだったんだ……」
健一の目から、大粒の涙がこぼれた。彼は初めて、自分が「良き父親」になろうとするあまり、「傷ついた妻の夫」であることを忘れていたことに気づいた。
3
臨月。吉岡家の空気は、以前とは違っていた。
カレンダーのカウントダウンは取り外され、代わりに健一の手書きの「今日のご飯」のメニューが貼られていた。
「恵、今日は調子どう? 無理しなくていいからね」
「うん。でも、少し歩きたいな。健一さん、一緒に行ってくれる?」
二人の会話に、血が通い始めていた。健一はもう、未来の子供の話ばかりをしない。今、目の前で不安と戦う恵の手を、ただ静かに握るようになった。
拓海のカメラは、公園のベンチで肩を寄せ合う二人の後ろ姿を捉えていた。
劇的な変化ではない。しかし、10年間の凍りついた時間が、少しずつ、春の雪解けのように溶けていく音が、ミチルのマイクには確かに聞こえていた。
そして、予定日当日。
恵は、陣痛が始まってもパニックにならなかった。健一がその手を、骨がきしむほど強く握りしめていたからだ。
「恵、大丈夫だ。俺がここにいる。二人で、10年待ったんだ。一緒に迎えよう」
「……うん!」
分娩室に、長い沈黙を破るような、圧倒的な産声が響き渡った。
「——ぎゃあ! ぎゃあ!」
女の子だった。
助産師が、真っ赤な赤ん坊を恵の胸に置く。恵は、今度は逃げずに、その温もりを全身で受け止めた。
「よく来たね……待ってたよ」
恵の涙が、赤ん坊の頬に落ちる。健一が、その二人の頭を愛おしそうに抱きしめた。
拓海は、ファインダーを覗きながら、静かにシャッターを切り、映像を回し続けた。そこには、10年の苦しみを経て、ようやく「家族」になった三人の姿が、夕暮れの黄金色の光の中に溶け込んでいた。
4
「十月十日」のオフィス。
完成した映像を見終えた吉岡夫婦は、互いの手を握りしめたまま、静かに泣いていた。
「このビデオは……私たちの宝物です」
健一が頭を下げた。
「僕が独りよがりだったこと、恵がどれだけ苦しんでいたか、そして、二人がどうやってあの子を迎えたか。綺麗事だけじゃない、全部がここに残っている。これを見るたびに、僕たちはあの10年を許せる気がします」
恵もまた、穏やかな笑顔で拓海を見た。
「拓海さん。カメラがそこにあってくれたから、私は自分の弱さと向き合えました。ありがとうございました」
二人が、すやすやと眠る娘を抱いて帰っていく。その背中は、以前の張り詰めたものとは違い、どこまでも柔らかだった。
オフィスに静寂が戻る。
エディターのケンジが、キーボードを叩きながら小さく息を吐いた。
「……今回の編集、一番難しかった。言葉にできない、あの夫婦の間の『間』を繋ぐのがさ」
「でも、最高にリアルだったよ」ミチルがコーヒーを淹れながら微笑む。
拓海は、自分のカメラのレンズを覗き込んだ。
他人の十月十日を記録するたびに、彼は確信していく。家族とは、最初から完成された形であるわけではない。迷い、傷つけ合い、それでも一緒に時間を積み重ねていくことで、ようやく「家族」になっていくのだと。
「よし、拓海、次だ」
プロデューサーの佐伯が、また新しいファイルをテーブルに置いた。
表紙には、次の依頼人の名前が書かれている。
「次は……なんと、現役の『助産師さん』からの依頼だ。いつもは取り上げる側が、撮られる側になる」
「へえ、それは面白そうだ」
監督の槙野が不敵に笑い、煙草をポケットに突っ込んだ。
世界中で、毎日何千もの命が生まれ、何千もの家族が始まっている。
その、言葉にならない小さな奇跡の足跡を、一秒も逃さないために。
「十月十日」のメンバーは、それぞれの機材を手に、また新しい風の中へと歩き出すのだった。




