第2話 迷い子のカルテ
1
「十月十日」の事務所に、夏特有のじっとりとした湿気が満ちていた。
エアコンの微かな稼働音だけが響く中、メンバーは新しい依頼人の資料を囲んでいた。
北沢 遥、21歳。都内の大学に通う3年生。
提出された事前アンケートの「配偶者・パートナー」の欄は、ペンで激しく塗りつぶされており、判別がつかない。
「……いわゆる、望まぬ妊娠、か」
エディターのケンジが、キーボードを叩く手を止めて呟いた。
「お腹の子の父親とは、認知も養育費の話もこじれて、すでに連絡が取れない状態らしい」
プロデューサーの佐伯が補足する。実家とも折り合いが悪く、遥は現在、家賃4万5千円の古いアパートで完全に孤立しているという。
「彼女の希望は、こうだ」
監督の槙野が、1枚のメモを差し出した。そこには、震える文字で一言だけ書かれていた。
『この子が生まれてくるまでの記録を、私じゃない誰かに残してほしい。私はこの子を、愛せるか分からないから』
「愛せるか分からない、ね……」
普段は明るい録音技師のミチルが、ヘッドホンを首にかけたまま俯いた。
「撮るべきか、それとも、カメラを向けることが彼女を追い詰めることになるのか」
メンバーの視線が、自然とカメラマンの拓海に集まる。拓海は、ファインダーの埃をブロワーで熱心に吹き飛ばしていた。その指先が、微かに震えているのを誰もが見逃さなかった。
拓海には、かつて「家族を愛し方が分からなくなり、壊してしまった」という自責の念がある。遥の拒絶の言葉は、彼の古傷を正確に抉っていた。
「……撮りましょう」
拓海はブロワーを置き、顔を上げた。
「綺麗事だけじゃないのが、命の記録なら。僕たちが目を背けたら、あの部屋の日常は、誰にも見られずに消えてしまう」
2
遥のアパートは、西日が痛いほど差し込む、1Kの狭い部屋だった。
家具は最小限で、生活感が希薄だ。そこにあるのは、大学の教科書と、コンビニの袋、そして——机の隅に置かれた、まだ開けられていない母子手帳。
「適当に撮ってください。私は何もしゃべらないので」
遥はベッドの上に膝を抱え、頑なにカメラから視線を外していた。すでに妊娠5ヶ月。ゆったりとしたTシャツの上からでも、お腹の膨らみが少しだけ分かる。
撮影は難航した。
彼女はカメラを拒絶はしないが、受け入れもしない。ただ「そこに置かれた物」として扱っていた。
ある日の夕方、急な雷雨が街を襲った。
古いアパートの窓が、ガタガタと大きな音を立てる。ミチルはマイクのレベルを調整しながら、遥がかすかに身震いしたのを見逃さなかった。
「……あ」
突然、遥が短い声を上げ、お腹に手を当てた。
「どうした?」
槙野が静かに尋ねる。拓海は、咄嗟にカメラのフォーカスを遥の手に合わせた。
「動いた……気がする」
遥の瞳が、初めて小さく揺れた。
「中で、何かが、ポコって……」
彼女は戸惑っていた。それは、頭での理解ではなく、肉体が強制的に「異質な他者」の存在を告げてきた瞬間だった。
「遥さん」
拓海は、カメラを構えたまま語りかけた。
「今、どんな感覚ですか。痛いですか、それとも」
「……わかんないです」
遥の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「怖い。私、自分の生活だけで精一杯なのに。この子を育てるお金も、自信もないのに。なんでこの子は、こんなに元気にお腹を蹴るの? 私に、どうしてほしいの……?」
ミチルは、遥の激しい動悸と、雨の音、そして彼女の泣き声を、一切のフィルターをかけずに録音した。
ケンジは後日、この素材を見たとき、BGMを一切入れないことを決意する。このリアルな恐怖と孤独こそが、この時点での彼女の「真実」だったからだ。
3
季節は冬に向かい、遥のお腹は臨月を迎えていた。
彼女は結局、大学を休学し、特別養子縁組の相談窓口に通い始めていた。自分で育てるのではなく、別の温かい家庭に子供を託す——それが、彼女が悩み抜いた末に出した結論だった。
「十月十日」のメンバーは、その選択を否定も肯定もしなかった。ただ、彼女が日々、お腹の子供のために鉄分を含んだ食材を選び、不器用ながらも体調管理を徹底している姿を、淡々と記録し続けた。
そして、その日はやってきた。
予定日より2週間早い、凍えるような冬の朝。
分娩室には、遥の悲鳴と、助産師たちの励ます声が響いていた。身寄りがない彼女の立ち会いを求めたのは、他でもない遥自身だった。「十月十日のみなさんに、いてほしい」と。
「遥さん、息を吐いて! 長く!」
ミチルがブームマイクを掲げ、音を拾う。拓海は、ファインダー越しに遥の顔を見つめていた。彼女の顔には、かつてアパートで見た「怯え」はなかった。そこにあるのは、一人の人間をこの世に送り出そうとする、圧倒的な意志の光だった。
「う、あぁぁぁぁ!」
劇的な破裂音とともに、世界に新しい音が加わった。
「——ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ!」
元気な男の子だった。
助産師が、生まれたばかりの赤ん坊を遥の胸に抱かせようとする。しかし、遥は首を振った。
「いいえ……私は、抱きません」
彼女の頬を、涙が伝う。
「抱いちゃったら……手放せなくなる。この子には、最初から、ちゃんと愛してくれるお父さんとお母さんのところに行ってほしいから。だから、私は……」
彼女は、赤ん坊を見ようとはしなかった。ただ、その泣き声をじっと聴いていた。
「拓海」
槙野の低い声が飛ぶ。
拓海は、カメラを遥の顔から、シーツに包まれた赤ん坊へと向けた。そして、ゆっくりと引きの画にする。
そこには、背中を向けて泣く母親と、懸命に産声を上げる子供、そして、二人の間にある「切っても切れない、しかし手放さなければならない絆」が、冷たい冬の光の中に浮かび上がっていた。
4
春。
「十月十日」の事務所で、遥のための上映会が行われた。
映像の中の遥は、時に暗く、時に涙を流していたが、お腹を見るその目は、間違いなく優しかった。そして何より、彼女が最後に見せなかった赤ん坊の、力強い産声と、初めて光を浴びた瞬間の映像が、そこに美しく収められていた。
「……ありがとうございます」
遥は、すっきりとした笑顔で言った。彼女は春から大学に復学し、新しい一歩を踏み出していた。
「このビデオは、特別養子縁組の団体を通じて、あの子の新しいご両親に渡してもらいます。あの子が大きくなったとき、私がどんなに悩んで、どんなに一生懸命あの子を産んだか、知ってほしいから」
彼女は事務所を出る間際、拓海に向かって深く頭を下げた。
「拓海さん。私、お母さんにはなれなかったけど……あの子の『始まり』を、ちゃんと愛せていましたよね」
「はい」
拓海は、まっすぐに彼女を見返した。
「間違いなく、最高の十月十日でした」
遥が去った静かな事務所で、拓海は自分のカメラをメンテナンスしていた。
ふと、窓の外を見る。桜の蕾が、今にも弾けそうに膨らんでいる。
「拓海、次の依頼人だ」
佐伯が、新しいファイルをテーブルに置く。今度は「高齢出産を控えた、不妊治療の末の夫婦」だという。
「……命って、本当に色々ですね」
ミチルがハーブティーを配りながら言う。
「ああ。だから、飽きないのさ」
槙野が笑い、ケンジが新しい編集プロジェクトを立ち上げる。
拓海はレンズキャップを外し、再びファインダーを覗いた。世界は今日も、小さな、名もなき奇跡で満ちている。それを一つひとつ、すくい上げるために。
「十月十日」のカメラは、今日も次の家族の元へと向かう。




